見慣れない足元
玄関で、スニーカーを見下ろした。
特別なスニーカーじゃない。
なんの変哲もない、定番の型、よく見る色味。
けれど、履くうちに踵まわりは少しやわらかくなり、形も崩れて、靴紐には結び目の跡が残っている。
少し汚れてきたところまで含めて、気に入っている一足だった。
でも今朝は、手を伸ばさない。
陽菜は目を逸らし、横に置いていた黒のパンプスを取った。きれいめの服に合わせるために買ったものだ。
履く機会は少なく、まだ革も硬い。玄関のたたきで足を入れた瞬間から、窮屈だった。
鏡の前でしゃがみ込み、ストラップを留める。
鞄を肩に掛け、家を出た。
扉を開ける時、角を曲がる時、階段を降りきった時──
つい、誰かの視線を探してしまう自分がいた。
そのたびにあたりを見回す。
なにもない。
なにもないのに。
それでも、日常のどこかに、もう見えないなにかが入り込んでいる気がした。
ブロックもした。
アカウントも非公開にした。
できることはした。
でもそれは──言い換えてしまえば、自分にできることはもうないということだった。
朝の人波に紛れ、バスに乗る。
夏になってからの車内は、冷房が効きすぎて寒いほどだった。停車するたびにドアが開くと、漏れ出す冷気と引き換えに外の熱気が入ってくる。
それもまた、生温くて気持ち悪かった。
◇
大学までの坂道は、パンプスで歩くには向いていない。バスを降りてすぐに陽菜はそれを思い知った。
緩やかな傾斜が、今日はやけに長く感じる。足首に余計な力が入り、踵がかつ、と乾いた音を立てるたび、歩幅がぎこちなくなってしまう。いつもなら気にせず登れるはずの道なのに、今日は自分の足が借り物みたいだった。
──やっぱり、スニーカーのほうがいい。
思ってしまってから、陽菜は心の中だけで小さく息を吐いた。
好きな靴を避けて、歩きにくい靴を選んでいる。
たったそれだけのことなのに、見えない何かに先回りして負けている気がして嫌だった。
それでも、今はこれを履くしかない。いつまでそうなのか、先も見えないまま。
◇
一限が終わるころには、右の踵が熱を持っていた。
教室を移動しようと講義棟を出たところで、凛花と合流する。このあとの授業は一緒のものを取っていた。
顔を見た途端、少し緊張が解けた。思ったより肩に力が入っていたことを知る。
「一限、抜き打ちテストあって最悪だった」
悪態をついた凛花の視線がふと足元へ落ちる。
黒いパンプスに一瞬だけ目を止めて、でも凛花は何も言わず、すぐに顔を上げた。
「はい。これ、ノート。いつもよりしっかり授業を聞いて、いつもより丁寧に書いたからね!」
「うん、ありがとう」
「いいよ。大したことやってないし」
凛花はそう言って笑った。その笑い方も、いつも通りに見せようとしてくれているのが分かった。
話題にしないようにしてくれている。
靴のことも。
昨日の話の続きも。
教科書を机に出しながら、陽菜は迷った。このまま何も聞かずにいられたら楽なのに、と一瞬だけ思う。
でも、聞かなければ、わからないままだ。
「……あのさ」
凛花がノートを開く手を止める。
「ん?」
「昨日の、あの話題……そのあと、どうなった?」
凛花はすぐには答えなかった。
ペンを持ったまま、少しだけ眉を寄せる。
「聞いて大丈夫?」
陽菜は小さく頷いた。凛花はふっと息をつき、声を落として話し始めた。
「インスタでも、かなり回ってる。スクショとか画面録画とかで持ってきて、『これ志島大じゃない?』とか『ベージュのスニーカーを探せ!』ってやってる人が増えてる」
指先が、落ち着きなくノートの端をきゅっと押さえた。
「……そうなんだ」
「うん。しかも、『探しています』っていうより、『特定しよう』みたいな空気。軽いんだよね、なんか。ゲームみたいな感じ」
──ゲーム。
凛花は声をひそめたまま続けた。
「元の投稿主も謎なんだよ。インスタでの投稿も見てんのかな? 反応があれば即ハッシュタグにしてる。今朝は『一年生』とか『教授』とかまでついてたかな。でも、人を探してるくせに、情報が全然まとまってないっていうか……」
「『一年生』と『教授』……」
陽菜は思わず繰り返す。
「そう。意味わかんないでしょ」
凛花は頷きながら顔をしかめた。
「『ベージュのスニーカー』だけが固定で、あとはもう誰かが思いついたことをそのまま足してる感じ。『男子学生』と『ワンピースの子』が並んでいたりね。もうむちゃくちゃ」
陽菜は黙って聞いていた。
バラバラなハッシュタグには見覚えがあった。
けれど、そうやって情報が散っていることが、かえって不気味だった。胸の奥は少しも軽くならない。
「……見つかるわけないよね」
確認のような言葉をぽつりとこぼす。凛花は腕を組んだ。
「そもそも見つける気もないんじゃない? あの調子じゃ見つかるわけないと思うし……学生のほうは勝手に盛り上がってるだけだし。なんか、正直、気持ち悪い」
凛花がそう言い切ってくれたことが思いのほかありがたかった。自分の感じていた嫌悪を、乱暴にでも言葉にしてもらえた気がした。
教室の前の方では、別の学生たちが提出物の話をしている。何も、変わっていない。なのに自分だけが少しだけ浮いてしまったみたいに感じる。
黒いパンプスのつま先は、何度見ても見慣れなかった。
◇
午後の講義が終わり、陽菜はそのまま図書館へ向かった。歩くたび、パンプスが規則的な音を立てる。
朝から感じていた靴擦れの熱が、はっきりとした痛みに変わってきていた。
自動ドアを抜けると、冷房のきいた空気が頬を撫でた。紙の匂い。静けさ。いつの間にかここに来ることは特別じゃなくなっていた。
奥まった閲覧机へ視線をやる。
黒い帽子が見えた。
胸の奥がふっと軽くなる。
思っていたよりずっと素直に、嬉しい、と思った。
──今日は会えた。
「トウヤくん。ここ、座るね」
呼びかけると、トウヤは本から顔を上げた。
「うん」
目が合った。
けれど、ほんの一瞬だった。彼はすぐにまた手元の本へと視線を落とす。
陽菜は座りながらそっと机の下を覗き込んだ。
ベージュのスニーカー。
自分と同じだった靴。
今朝、自分は選べなかった靴。
息がきゅっと苦しくなった。
いつもなら、この机の下で二組揃うのに。
鞄を床に下ろし、低い書架から歴史保存会の冊子を一冊手に取る。読み慣れたからか、土地勘がついたからか、谷見町以外の記事も読むようになっていた。巻末に載ったあとがきや注釈が意外と面白くて好きだった。
机の上で開く。けれど、読み進める途中で、今日は文字が頭に入ってこなくなった。
隣の席から、トウヤがページをめくる音が聞こえる。その横顔を、陽菜はしばらく見ていた。
話したいことがたくさんあった。
いつもなら、視線に気づいて顔を上げてくれるのに──今日は、それがない。
──椅子と椅子のあいだって、こんなに遠かったっけ。
読書の邪魔がしたいわけじゃない。
でも、ただ少しだけ、さっきみたいに目が合ってほしいと思ってしまった。
陽菜はまた冊子に視線を戻した。文字を追うふりをしながら、隣の席から、ページを繰る音が途切れるのを待つ。
しばらくして、トウヤの指先がページの端で止まった。
本を閉じる気配を感じて、陽菜はようやく口を開く。
「あの。今、困りごとのこと、少し話していい?」
トウヤの眉がぴくりと動いた。
ゆっくり目が持ち上がる。彼は本を閉じて机の上に置き、「うん」と短く答えた。
ようやく目が合う。
陽菜は一度だけ息を吸った。
「前に話した、人探しの投稿なんだけど……志島大オープンキャンパスのハッシュタグがついてから、投稿をインスタに流してる人がいるみたいで……学内で、少し話題になってるの」
トウヤが頷く。背中を押されるみたいに、陽菜は続ける。
「その投稿に、画像がついてて……スニーカーの写真なんだけど」
そこで、喉が少しだけ詰まる。
改めて口に出すと、昨夜の息苦しさがそのまま戻ってきそうだった。
「それが、私が前にSNSに載せたやつと……たぶん、同じで。靴だけじゃなくて、後ろの床とか、玄関の感じとか……見れば見るほど、私の部屋だった」
声が少しずつ震えていく。俯いたまま、次の言葉がうまく出てこなかった。
少しの間、沈黙が落ちた。
椅子ごとこちらへ体を向ける気配がして、陽菜は顔を上げる。眉を下げたトウヤと目が合った。心配してくれているのが伝わってきて、泣きそうになるのを堪える。
「……アカウントは、ブロックしたの」
途切れないように、急いで言葉を継ぐ。
「私のアカウントも、非公開にした」
「……そう」
短い返事だった。
「それは、仕方がないよ。怖かったね」
「日常は、今のところ大丈夫そうなんだけど」
そう言いながら、椅子の下でそっと踵を浮かせる。
パンプスの縁が擦れて、また靴擦れが痛んだ。
SNSの外で変わったことといえば、お気に入りのスニーカーを履けなくなったこと。たったそれだけのことなのに、日常が少しずつ歪んでいる気がした。
「……あ、それで」
陽菜は顔を上げる。
「トウヤくんにも言わなきゃと思ってたんだけど」
トウヤが黙ったまま、首を傾げる。
「そのスニーカー……しばらく、やめといたほうがいいかも。画像からメーカーとか型を特定した人もいたみたいで」
そこで、少しだけ言いづらくなってしまう。
「……前から、同じだなって思ってて。スニーカー。私のと。だから、気をつけて」
トウヤの視線が、机の下へ落ちる。
「……そっか。わかった」
陽菜はふう、と息を吐いた。
そうしながら──話し終えたはずなのに、まだ言いそびれたものが残っている気がして、迷いながら口を開く。
「あのね、私のアカウント……壁打ち用だったんだ」
視線は机の上──なにもない空白をさまよった。
今にして思えば、はじめからあのアカウントは非公開にしておけばよかったのだと思う。そうすれば、息継ぎの場所を失うこともなかったのかもしれない。
アカウントを公開していたのには、ぼんやりとした理由があった。
非公開だと、言葉がそのまま残る気がした。公開のままだと、それがもう少しだけ軽かった。
どこか広いところに手放せるみたいで、そのぶん少しだけ、呼吸がしやすかった。
「あのアカウントで、誰かと繋がりたかったわけじゃないの」
小さく言う。
「誰かに見られてるなんて、思っていなかった」
そこまで話してから、ようやくトウヤのほうを見る。
トウヤは机の上の本に視線を落としたままだった。指先だけが、表紙の角をゆっくりとなぞっている。
彼はそのまま、ふっと目を閉じた。ほんの一瞬のことだったのに、その表情がなぜか少し気にかかった。
「……そっか」
返ってきた声は低く、静かだった。それ以上、言葉は続かない。
さっきからまた、トウヤと目が合わなくなった気がする──それが、急に心細かった。
好き勝手に喋っちゃったからかな。
そう思った矢先、謝罪の言葉が落ちた。
「ごめん」
自分の声じゃない。
トウヤだった。
ぽつりと、たしかにそう言った。
陽菜は瞬きをした。
──なにが?
そう聞き返すより先に、トウヤは本と鞄を手に取って立ち上がる。椅子の脚が床を擦る、かすかな音がした。
「今日、予定あるから、もう帰るね」
立ち上がりながら言った声は、どこか急いでいるように聞こえた。
「あ……うん」
「帰り、念のため気をつけて」
振り返りもしない背中を、見えなくなるまで見つめている間、机の下で揃わなかった二組の靴のことを、陽菜はぼんやりと思い出していた。
◇
図書館を出ると、外はもう夕方の色に傾きはじめていた。バス停には、すでに何人か学生が並んでいる。
陽菜は列の後ろにつき、鞄を抱える。スマホを取り出す気にはなれなかった。見たくないものを思い出して指先が冷えた。
ほどなくしてバスが来る。
乗り込むと、夕方の車内には倦怠感がゆるく漂っていた。陽菜は空いた席に腰を下ろし、窓の外へ視線を逃がす。
発車してしばらくしたころ、斜め後ろの席から笑い混じりの声が聞こえてきた。
「いや、でも一年生なんでしょ」
「ううん、さっきハッシュタグが三年生に変わったんだって」
「ベージュのスニーカーだけじゃ探せないよね〜」
心臓が跳ねた。
聞かないふりをしても会話の断片が勝手に耳へ入ってくる。
話している学生たちの声は、深刻そうではなかった。
ただ、少し気になる話題に反応して、軽く言葉を投げているだけ。
凛花が「ゲーム」と例えた意味がわかった気がした。
悪意がないまま、情報が集まっていく。
誰かの顔を、誰でもいい材料で塗り固めるみたいに。
バスが揺れる。
踵の靴擦れがじんじんと痛んでいた。




