ハッタリ
「は」
息に近い声が漏れた。
図書館の奥、窓際の閲覧机。スマホを持ったまま、しばらく画面から目が離せなかった。
──鍵が、かかっている。
水面を見ていた視線だけが取り残されて、どこへ向ければいいのか分からない。
スマホを伏せ、本を引き寄せる。文字を追おうとしても、視線は一行目の途中で止まったまま動かなかった。
朝は、変わりがなかったはずだ。
それなのに、見慣れたアカウントに鍵のマークが付き、画面には今まで無かった表示が出ていた。
『ポストは非公開です。』
──こういう日が、いつか来るかもしれないとは思っていた。
壁打ちのアカウントなんて、もともと誰かに見せるためのものじゃない。彼女がふと気まぐれに鍵をかけても、削除してしまっても、不自然ではなかった。
それでも、いざ本当にその日が来ると、動揺は思ったより大きかった。
頭の中で、同じことばかりが繰り返される。
鍵がかかった。
見られない。
見られなくなった。
光の落ちてくる方向を失ってしまった。
足場が音もなく崩れていく。
ただ見ていられたら、それでいい。そう言い聞かせてきたものを、取り上げられた気がした。
視線の端で、窓からの光が遮られた。
机の上に影が落ちる。
「こんにちは」
低く、妙によく通る声が耳朶を打つ。
ゆっくり顔を上げる。
立っていたのは、何度か見かけた男子学生だった。
──彼女のそばにいた、上級生らしき男。
「……どうも」
返事だけを落とす。
男はすぐには何も言わなかった。向かいの席に座るでもなく、机のそばに立ったままこちらを見下ろしている。
その目線と沈黙が鬱陶しかった。
息を吐き、本を置く。
「……今は、俺一人ですよ」
「知ってます。今日はあなたと話しに来たので」
わざとらしく眉をひそめて見せるが、彼は苦笑いのようなものを浮かべたまま続けた。
「自己紹介しましょう。俺は社会学部の三年です。名前は杉本大輝」
また沈黙が落ちる。
こちらが名乗る間を与えられているのだとわかっていながら、口を閉じたままやり過ごした。大輝と名乗った男は、困ったように小さく笑った。
「……名乗ってもらえないか。さっき、ちらっと見えたんですけど。図書館の利用カード、ここの学生のものじゃないですよね。色が違う」
瞬きもせずに相手を見返す。
「それが?」
大輝は「うーん」とだけ唸って答えず、机の下へ視線を落とした。
「あ、靴」
わずかに身をかがめる。
「その靴。前に見たときも思ったんですけど、陽菜ちゃんとお揃いなんですね」
するりと出てきたその名前に、胸の奥がちりりと焦げた。
そうやって彼女と正面から関われる側の人間が、わざわざこちらに来る意味がわからない。
机の木目を見下ろしたまま黙る。
「ずいぶん親しそうですけど──友達なんですよね」
何を探りにきたのか、何故この男がそれを気にかけるのか。察すれば察するだけ、自分でも驚くほどに苛立った。
──俺が、あんたの領分を侵すとでも思っているのか。
「……さあ、どうでしょう」
それだけ返す。相手の土俵に乗るのは癪だった。余計な言質は与えたくない。
それでも、黙っていることはできなかった。
大輝は少し間を置いて、それから少し声の調子を変えた。
「……あー、俺、西駅のそばでバイトしてるんですけど」
西駅。
その単語に、視線をゆっくり持ち上げる。
「この前、夜間高校に入っていくのを見たんです。……あなた、高校生でしょ。どうして隠してるんですか」
返事は返さない。大輝は肩をすくめた。
「陽菜ちゃん、あなたのこと、ここの学生だと思ってるみたいだったから」
彼は続ける。
「このこと、知らないんですよね、彼女。もし言いづらいなら、俺から伝えておきましょうか。誤解させたままっていうのは、誠実ではないでしょう」
聞き流しながら、直感的に思った。
彼女に甘い紅茶を渡したのは、この男なのだろうと。
「言うなら早いほうがいいんじゃないですか? 隠されていたことが分かったら──陽菜ちゃん、真面目な子ですから。そういうの、ショックを受けちゃうんじゃないですか」
まるで彼女に詳しいかのような口ぶりだなと思った。
──飲み物の好みも知らないくせに。
「……はは」
思わず、声が漏れた。
笑いというには、ずいぶん乾いた音だった。大輝が怪訝そうに眉を寄せる。
「何かおかしいですか」
「いや──陽菜のこと、本当によくわかってないんだなと思って」
言ってから、遅れて気づく。
──まずい。
名前を、呼んでしまった。
机に乗せていた肘を引き、背もたれに身を預ける。
大輝の目が鋭く細まるのを見ながら、それでも視線を外さなかった。
胸の奥では苛立ちが燻っている。
鍵のかかった画面を見たときから、もうずっと息が苦しいままだった。
「言ってもいいですよ」
──やめろ。
「え?」
「言えば高校生で、歳下なことを俺は利用します」
──わきまえるべきだ。
それでも、言葉が先に出る。止める間もない。
「彼女に泣きついて、あなたに秘密をばらされた、嫌われたくなくて言いたくなかったのに、とでも言ってみます」
いやに滑らかな自分の声を、どこか他人事みたいに聞いていた。
指先がわずかに机を叩く。
「無様でしょ。でも、みっともなければみっともないほど、陽菜は俺を放っておかないと思います。それでいいんなら、どうぞ。言ってください」
自分を押さえつけるようなざわめきとは相反して、頭の一部だけがやけに冷静だった。大輝が表情を変えるのを観察する余裕すらあった。
言い負かしたいわけじゃない。
ただ、今は。どうしようもなく何もかもが気に食わなかった。
「利用って……」
眉を寄せたまま、大輝が低く呟く。
「何を、そこまで」
「陽菜は、優しいですから」
顔をそらし、その言葉だけを置いた。
──ハッタリだ。
それでも、彼女の優しさがどういう性質で、どう働くかくらいは想像ができた。
同時に、それを札として切った自分の発想の醜さにも気付かされる。
大輝は小さく息を吐き、スマホを取り出した。
数回画面を操作してから、こちらへ向ける。見せられたのは、あの薄気味悪い油膜だった。
#探しています
#ベージュのスニーカー
よく分からない、解像度の低い写真。
顔を寄せることなく、それを眺める。
「これ。最近、ちょっと話題になってるんですが……」
大輝の声は落ち着いていた。
「そのスニーカーは、もう履いてこないほうがいいかもしれません。こういうのって熱が入りやすいから。学内の人間じゃないのなら、余計に。気をつけたほうがいいですよ」
「……ご心配どうも」
「……まあ、純粋な心配だけとも言いませんが」
彼はスマホを下ろし、そのあと、何かを言いかけてやめた。それを問う気にもならなかった。
「俺が言いたかったのはそれだけです。忠告はしましたよ。スニーカーも、……隠し事も」
大輝はそう言うと、机から離れた。
足音が遠ざかっていく。
図書館はまた静かになった。
ようやく、ゆっくりと額に手を当てる。
低く、長いため息が漏れた。
これは、相当まずい。
──咄嗟に、呼んでしまった。
陽菜。
胸の奥が、遅れて冷える。
心の中ですら意識して避けてきたその名前を、よりによってこんな形で声に乗せるなんて。
わきまえているつもりが、あまりにもあっけなかった。
目を閉じる。
鍵のかかった画面。
自分の声にのせた名前の響き。
彼女の弱みにつけ込むような嫌な発想。
全部が胸の内で混ざり合って、鈍く沈んでいく。
額に手を当てたまま、もう一度だけ深く息を吐いた。
線を、引き直さなければならない。




