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施錠音は鳴らず


 バスを降りると、朝の穏やかさをかき乱すように、強い風が吹いた。


 湿り気を帯びた空気の中で、青葉がざわざわと音を立てて揺れる。アイロンで整えてきた前髪も、吹き抜ける青嵐に少しずつ形を崩していくだろう。


 陽菜(ひな)は鞄の紐を持ち直しながら、坂を登った。


 スマホの中には、まだ片づいていないことがある。

 ブロック、という言葉を昨夜から何度か思い返したものの、結局まだ決めきれないままだった。


 坂を登りきったところで、後ろから明るい声が飛ぶ。


「陽菜ちゃん」


 大輝(たいき)が片手を上げながら近づいてくる。


「おはよう。今日、一限から? なんの授業?」


「大輝先輩、おはようございます。社会調査論です。先輩も授業ですか?」


「うん。じゃあ講義棟まで一緒だね」


 自然と、並んで歩き出す。しばらく他愛ない話をしていたが、彼はふと思い出したように口を開いた。


「そういえばさ。前に陽菜ちゃんが図書館で一緒にいた──」


「……?」


「ほら、帽子の。あの、友達」


「あ、はい」


「彼って……学部の同期?」


 陽菜は少し迷ってから答える。


「えっと……学部とか学年とかは、聞いてなくて」


「聞いてない?」


 大輝は意外そうに眉を上げた。


「じゃあ、どうやって知り合ったの?」


「図書館で、谷見町のことを調べるのを手伝ってくれて」


「へぇ……」


 顎をさすりながら、大輝は小さく呟いた。

 落ち着かない沈黙があった。


 陽菜が段差に足をかけたとき、大輝の視線がふと足元へ落ちた。


「あ、その靴──」


「え?」


 反射的に視線を落とす。

 ベージュのスニーカー。見慣れた、自分の靴だ。


「話題のやつと一緒だね」


「……?」


 陽菜が首を傾げると、大輝は気まずげに頬を掻いた。


「……あー、陽菜ちゃんは知らないか。あんまりそういうSNS見ないって言ってたっけ」


 ──SNS。

 ぞわり、と背筋に嫌なものが這った。


「ほら、最近、うちの大学のハッシュタグが流行ってるって、この前の会議でも出たでしょ。あれでちょっと話題になってるアカウントがあってさ」


 陽菜は小さく頷いた。

 頷きながら、呼吸がほんの一瞬だけ遅れる。


「行方不明者の捜索投稿をしてるアカウントなんだけど……」


「捜索投稿……ですか」

 それだけ返す。


「うん。なんか、探してますってやつで」


 #探しています。

 緑のアイコン。

 日ごとに変わる情報。

 ハッシュタグの羅列。


 思い出したくないのに、陽菜の頭の中にはもう焼きついていた。指先がまた冷たくなる。


 大輝は少し苦笑いを浮かべた。

「最初は変な投稿だなって感じだったんだけど、#志島大オープンキャンパスがついてから、皆ちょいちょい反応し始めてて。見たことあるかも、とか、これ誰々じゃない?とか」


 話題に軽く触るような感じが想像できて、聞いていて気持ちがいいものではなかった。


「こういうの、ノるやつが出てくるんだよね。今朝は、画像に映ってたスニーカーが特定されたって話になってて……それが、陽菜ちゃんのスニーカーと同じ型っぽいなって」


 ──画像。


 粗い輪郭に黒っぽい服と帽子。前に一度、思わず反応してしまった、あの画像のことだろうか。


「陽菜ちゃん?」


 覗き込む大輝に返事をしようとして、うまく声が出せなかった。ただ目を瞬く。


 大輝は慌てた様子で、すぐに言い足した。


「ごめんごめん、変に不安にさせたかな。でも、ほら。定番だし、同じやつ履いてる人なんていくらでもいるし。陽菜ちゃん、探されるようなことしてないでしょ」


 ようやく、陽菜はこくこくと頷いた。大輝はにっと笑った。


「でも、もし、なんかあったら俺に言って。まあスニーカーぐらいで声かけてくるやつもいないと思うけど」


 親切な助言のはずなのに、そのまま進んだ会話はほとんど耳に入ってこなかった。返事をして、頷いた気はするのに、思い出せない。

 気づけば、授業のある講義棟の前に着いていた。


「じゃ、またね」


 大輝はそう言って手を上げ、奥の棟の方へ歩いていく。


 陽菜は一人になってから、もう一度だけ自分の足元を見た。見慣れているはずのベージュが、やけにはっきりした色に見えて、すぐに視線をそらした。


 ◇


 昼休み、陽菜はいつもより少し遅れて学食へ向かった。

 購買の袋を提げた凛花(りんか)が、端の席に座って手を振っている。陽菜も軽く手を上げて向かいへ座り、買ってきたパンと飲み物を机に置いた。


「遅かったね」


「うん、ちょっと……」


 答えながら紙パックの飲み物にストローを挿そうとして、うまく穴に入らず、先がふにゃりと曲がった。


「陽菜」


 凛花が、じっとこちらを見る。


「なに」


「なんかあった?」


 そう言われて、陽菜はようやく自分の頬がこわばっていることに気づいた。


「朝からずっと上の空だし」


 陽菜は少し迷ってから、ストローを挿し直す手を止めた。


「……この前見せてくれた投稿、まだ話題になってるの?」


「投稿って?」


志島大(しじまだい)オープンキャンパス、のハッシュタグのやつ」


 凛花は「あー」と声を漏らした。

 軽い相槌のあと、少しだけ表情を曇らせる。


「あれか。なんか、ますます広がってる感じする」


「広がってる?」


「うん。テキスト系SNSの内容をインスタに流してる志島大生がいてさ。 #協力します とか #拡散します とか付けて」


 凛花はペットボトルの側面を指でなぞる。


「ハッシュタグだけじゃなくて、昨日は画像も上がってたよ。画質すっごく悪いんだけどね」


 陽菜は頷いた。


「でもその画像のスニーカーを特定した、って言ってる投稿もあったっぽい」


 そこまで聞いてから、陽菜は自分の足元へ視線を落とした。

 ベージュのスニーカー。朝見たときより、さらに目につく気がする。凛花もつられるように下を見た。


「え、ちょっと待って。もしかしてその靴」


「……うん」


「うわ」


 凛花はすぐに言い直した。


「あっ、ごめん。そっか。それでそんな顔。誰かになんか言われたの?」


 陽菜は首を振った。


「朝、プロジェクトの先輩にその話を聞いただけ。靴くらいで声かけてくるやつもいないと思うけど、って」


 凛花は飲み終えた紙コップを指で回しながら、少し考え込む。


「そうだね。でも、まあ念のため。しばらく大学に来るときは別の靴にしといたほうがいいかも」


 軽い調子で言っているのに、声の底にはちゃんと心配が混じっていた。


「うん」


 頷きながら、陽菜はストローで飲み物を吸った。

 冷たさが喉を通る。なのに、胸の奥のざらつきは少しも薄れなかった。


 パンの袋を開ける気にもならず、陽菜は目を伏せたまま、息を吐く。


「……陽菜」


 凛花が、少し声を落として言う。


「今日、もう早退したら?」


「うーん」


「顔色も悪いしさ。午後の講義、私ので良かったらノート見せるから」


「……うん」

 迷う余地もなく、言葉が出た。


 凛花は陽菜の足元をもう一度見て、それからぽつりと言う。


「……でも、同じ靴の人なんていっぱいいると思うけどね。型も色も、よく被るでしょ」


 その一言に、陽菜の指先がぴくりと揺れた。


 ──被る。


 淡い色のスニーカー。自分の足元ではないものが頭をよぎった。図書館の床。一本桜の根元。

 机の下で向かい合った、二組。


「陽菜?」


「……ううん、なんでもない」


 ──トウヤも、同じスニーカーを履いていた。


 そのことを思い出した途端、自分のこととは別のざわつきが胸の奥に生まれる。学食の騒がしさの中にいるのに、自分の周りだけ音が少し遠のいたみたいだった。


 ◇


 午後の講義は受けず、陽菜はそのまま図書館へ向かった。お昼どきの明るい日差しが廊下の窓から差しこんでいる。


 自動ドアの向こうは、いつもと変わらない静けさだ。

 冷房の効いた空気と、紙の匂い。


 低い書架の傍、奥まった閲覧机に目を向ける。


 ──いない。


 足が少しだけ止まる。


 館内を一周するように歩いてみたが、それらしい姿はどこにもなかった。


 今は、いない。

 会えない。


 それだけのことが、少しだけ心許なかった。


 しばらく本棚の前に立っていたが、結局なにも手に取らず、陽菜はそのまま図書館を出た。


 ◇


 部屋に戻るころ、外には分厚い雲が立ち込めていた。

 鍵を閉め、靴を脱ぐ。ベージュのスニーカーを揃えようとして、陽菜の手は途中で止まった。


 ──気に入って買ったはずなのに。こんな色だったっけ。


 窓の外で、ぱら、と音が鳴った。少し遅れて細い雨が降り始める。カーテンのわずかな隙間から覗く硝子には、絶えず水滴が打ち付けられていた。


 鞄を置き、お茶を入れる。マグカップを持ったまま、ベッドに腰掛けた。


 それでも落ち着かなくて、結局マグカップは机に置き、スマホを取り出した。


 見たいわけではなかった。ただ、じっとしていると、頭の中で朝の会話が何度も繰り返される気がした。


 最初に開いたのはインスタだった。食べ物の写真。短い動画。動物。広告。

 いつものように指を滑らせる。

 何も考えず、流していけば、それで済むはずだった。

 なのに。


 次に流れてきた動画で、指が止まる。


 画面録画らしい映像だった。

 テキスト系SNSの画面をスクロールしながら、


『これ志島大だって! #拡散』


 という文字が重ねられている。


 息が止まる。


 もう見るのを止めよう。

 ここで止めれば、それで済む。


 けれど──指はもう画面の上に留まっていた。


 映像の中で、投稿に添付された画像が映る。


 粗い人物像。

 黒っぽい服。帽子。輪郭のほどけた影。

 前に一度、トウヤに重ねてしまったあの画像だ。


 心臓が、どくん、と大きく跳ねた。


 そのまますぐに画面が切り替わる。

 スニーカー単体の画像だった。


 そこに文字が重ねられ、メーカー名と型番が書かれている。


 見なかったことにしたくて、一度だけスワイプして飛ばす。けれど、間を空けずに指先が投稿を引き戻した。

 目を凝らして、見てしまう。


 真新しいスニーカー。

 その下端に、少しだけ映り込んだ靴箱の脚。

 床のタイルの目地。玄関扉の小さな傷跡。


 そこまで見た瞬間、胸の奥で何かが音もなく噛み合った。


 ──これ、私が撮ったやつだ。私の、部屋だ。


 喉がひくりと狭まった。


 スニーカーを買った日。

 なんとなく嬉しくて、壁打ちのアカウントに載せた写真。誰に見せるつもりもなく、ただ、自分のために置いただけの一枚。


 どうして、それが。ここにあるの。


 陽菜はアプリを閉じた。

 そのまま、震える指でテキスト系のSNSを開く。


 自分の投稿欄、画像一覧を開く。


 指を滑らせる。


 止まる。


 ──あった。


 呼吸を整えようとして、うまく吐き出せず、浅い感覚で吸ってしまう。息がもつれる。


 タブから、アプリ同士の画面を見比べる。

 向こうの画像はひどく粗くて、色も少し濁って見えた。


 それでも──やっぱり、同じだ。


 同じ画角。

 同じ床。

 同じ玄関。


 自分の生活の断片が知らないところで引き剥がされて、別の意味を与えられているみたいだった。


 指先が冷たい。それなのに、手のひらにはじっとりといやな汗が滲んでいた。


 もう、迷いはなかった。


 そのまま投稿欄に戻る。

『ミュートしているアカウントによるポストです』と灰色に閉じられたリポストを見つける。

『表示する』をタップし、緑の円からプロフィールへ飛んだ。


 初めて、ちゃんとそのアカウントと向き合った。


 アカウント名は、kz_

 IDは、@kz_fc12


 遠目には緑の丸にしか見えなかったアイコンに触れ、指で拡大する。芝生だった。どこにでもありそうな、ただの芝生の写真。


 プロフィール欄には、たった一行。


 #言えないまま


 と書かれていた。

 意味はわからない。


 何を言えないのか。

 言えないまま、どうしたのか。


 考えようとして、すぐにやめる。

 そこに意味を見つけようとすると、向こう側へ引きずり込まれそうな気がした。


 ただ、気味が悪い印象だけが強まった。


 投稿一覧を下へ送る。


 粗い人物画像。

 スニーカー画像。

 支離滅裂なハッシュタグ。


 さらに遡る。


 いくつか、見覚えのある一文が混ざっていた。


 #車内が暑すぎる


 #見つかりますように


 #今日は良い気分転換ができた


 #実家に帰る時間ないかも


 投稿の全てに、ではない。

 ときおり自分の投稿が抜き取られ、貼られている。


 でも、とても偶然では済まないと思った。


 喉の奥から、冷たいものがせり上がってくる。


 ──見られている。


 その瞬間、世界が少しだけ狭くなった。


 陽菜は慌てて立ち上がり、家中のカーテンを隙間なく閉めた。玄関の鍵を確認し、雨の音に閉じ込められた部屋で立ち尽くす。


 ──見られている。


 誰かに。


 このアカウントに。


 自分の投稿を、生活を、心情を覗かれている。


 拾われている。


 画面の向こう側、ただ人を探しているのだと思っていた。見つからない誰かを、懸命に。藁にも縋る思いで。


 でも、違うのかもしれない。


 ──探されているのは、誰?


 胃のあたりがきゅっと縮む。


 窓の外で、雨音が強くなる。

 一定のリズムで、屋根を叩き続けている。


 警察に、相談する?

 でも、何をどう言えばいいのだろう。

 自分の投稿の言葉が、知らないアカウントに混ざっている。写真まで使われている。

 それは気味が悪い。怖い。


 けれど、それだけだ。

 なにも起きていない。


 ──でも。

 陽菜はプロフィール右上のメニューを開く。


 指先が震えて、うまく押せなかった。

 もう一度やり直す。


 もともとこうするつもりでプロフィール画面へ飛んだのだ。ブロックを押すのに抵抗はなかった。


『ブロック済』と切り替わった文字を見つめる。


 それでも怖さは消えそうもない。


 すぐに自分のアカウント設定を開いた。

 公開範囲──非公開にする。


 もう大げさだとは思えなかった。


 鍵を、かけた。


 アカウント名の横に鍵のマークがつく。


 陽菜はスマホを机に伏せ置いて、布団にくるまった。すぐにまた机の上に手を伸ばしてしまいそうで、目をぎゅっと閉じる。

 もう寝てしまいたい、考えたくない。


 なのに──確認したい。

 確認して、どうしたらいいのかもわからないのに。


 窓の外では、雨が降り続いていた。


#探しています

#ベージュのスニーカー

#志島大オープンキャンパス

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