過剰摂取
パソコンのキーを叩く音が、静かな部屋に一定のリズムで響いていた。
志島市歴史保存会、出版部の活動拠点。──といえば聞こえはいいが、実際は祖父の家の一角にある、こじんまりとした一室だ。
蛍光灯の白い光の下、古い資料をデジタル化する作業が続いている。
「……志島大に入ろうかな」
キーボードから指を離さないまま、ぼそりと声が出た。
隣で作業していた須藤が、ぴたりと手を止める。聞こえなかったふりはしてくれないらしい──明るい顔色で、須藤はコーヒーを片手に身体ごとこちらへ向き直った。
「おー、どうした急に。いいじゃん、応援するぞ」
「……冗談です。無理でしょ」
「なんで? 今から頑張れば可能性がないわけじゃないだろ」
「……卒業、三年後ですよ」
少し間があった。
「……そっちか」
須藤は苦笑いして、肩をすくめる。
「あのな、社会に出てから学び直しで大学に入る人もいるだろ。歳なんてそこまで気にしなくてもいいんじゃないか」
「でも、遅いんですよ、それじゃ」
「遅い? なにに?」
答えなかった。
答えられるわけがない。
パソコンの画面を見つめたまま、もう一度だけキーに指を置く。須藤は首を傾げていたが、それ以上は聞いてこなかった。
液晶の中で、志島市についての記録が無機質に並んでいく。年代、地名、社寺名、寄進、焼失、再建。
手元では淡々と文字が整理されていくのに、頭の中だけが少しも整わなかった。
──最近、くだらないことばかり考える。
志島第二高校の夜間部は四年制だ。
たとえ三年後、高校を卒業して志島大に入学できたとしても、そのころにはもう彼女は卒業している。きっと、志島市にすらいないだろう。
どうやったって間に合わない。
それでもときどき考える。
──もし、同じ大学に通えたら。
正面から名前を呼び、
正々堂々と話しかけられたのなら。
正攻法で、嘘の裏側からではなく親しくなることだってできたんだろうか。
指が止まる。打ち込んだ内容の間違いに気づき、Deleteキーを押す。消した文字の分だけ空いた空白に正しい文字を入力していく。
──都合のいい想像の行き着く先は、いつも同じだった。
出会い直す術なんて、どこにもない。
もし、自分の人生がストレートに進んでいれば、本来は一学年しか差はなかったのに。
けれど、そうであれば、そもそも彼女に出会えてはいない。
ルートから逸れ、遠回りをして、志島市に戻ってきたからこそ。あの日、あの春、彼女のアカウントを見つけることができたのだから。
古い資料を見続けた目が疲れてきていた。作業を切り上げ、データを上書き保存した。
マウスを操作し、新規作成をクリックする。次号の発行に向け、冊子の後書きも作成しておきたい。まっさらな液晶と向き合った。地名や用語の補足を入力していく。
はじめは、あの水面を守りたかっただけだ。
ただ、油膜が混じるのを見ていられなかった。
それだけだ。
そこに嘘はなかった。
けれど今は、どうだ。
誤魔化してみたところで、これはもう──
目が合ったときの顔。
笑ったときの、やわい声。
近づいたとき、ふと揺れる髪の香り。
かすかに触れる袖。
一緒に飲むお茶の、あの特別さ。
なによりも、忘れようがないその名前。
──知りすぎた。
これでは明らかに、度を越している。
気づいたときには、もう遅かった。
どこまでなら引き返せるのか、自分でももうわからない。
画面の中の文字列は増えていくのに、思考は入力している内容からどんどん遠ざかる。
先日の会話が、ふと蘇る。
「思い出してもらえるのは、いいね」
あれは、誰に向けた言葉だったのか。
彼女にか、自分にか。その場では曖昧にやり過ごしたくせに、今になって胸の奥へ沈んでくる。
彼女は、はじめて会った日のことを覚えていないようだった。
でも、思い出してほしいとも思っていない。
今こうして接していることも、取るに足らない出来事として、彼女の記憶に残らなくていい。残らなくていいはずだ。
彼女がときどき、飲み込む言葉があることを知っている。それをいいことに、自分もまた、言わない言葉をいくつも抱えている。その卑怯さも、知っている。
だから、わきまえているつもりだ。
期待していない。
求めていない。
そこまで卑しいつもりはない。
ただ、見ていられたら、それでいい。
「おーい?」
須藤の声に、はっと顔を上げる。
「止まってる止まってる。どうした?」
「あー……すみません」
「いや、謝んなくていいけど。今日はこの辺にしとくか? デジタル化のほうはけっこう進んだんだろ」
「……そうですね」
答えながら、カーソルの点滅を見つめる。
打ち込んだ文字列を読み返すと、なにかがしっくりこなかった。どこか言葉が足りない。
『名前をつけて保存』を押しかけて、やめた。
──また書き直そう、はじめから。
画面の中なら、それができる。
パソコンの電源を落とす。
濃灰色の画面に自分の顔がぼんやり映った。
自分の居場所ぐらいは、わかっている。
──俺は、水面の向こう側へはいけない。




