箱にしまう言葉
外は、雨が降っていた。
空きコマができた昼下がり、陽菜と凛花は学食の端の席に並んで座っていた。
テーブルの上には、買ったばかりの小さな菓子パンと紙コップが並んでいる。
スマホが震えた。
陽菜は画面を見て、思わず声を上げる。
「凛花、見て!」
「ん? なに?」
凛花が身を寄せてくる。陽菜は、公式アカウントの通知画面をそのまま見せた。
「おー。いいねついてるじゃん。あ、リポストも」
「そうなの。あ、エアリプもあった。谷見町出身の人なのかな」
喜びがそのまま声に出る。
何気なく投稿したというには──ずっと考えて、言葉を選んで載せた内容だった。誰かに届いたことが素直に嬉しい。
「良かったじゃん。なんて投稿したの?」
そう聞かれて、陽菜は一瞬だけ手を止めた。
「……これなんだけど。どう思う?」
少しだけためらってから、投稿一覧を開いてスマホを渡す。
一つ目は、谷見南瓜についての投稿だった。
小ぶりで甘みが強いこと。地元の直売所で扱われていること。祭りでは、南瓜を使った菓子も出るらしいこと。
二つ目は、谷見獅子について。
一度途絶えた活動を、町内の青年会と歴史保存会が中心になって再開したこと。年始には奉納も行われること。
綺麗なネイルをした凛花の指先が、するすると画面をスクロールしていく。
「へぇ〜。南瓜に獅子舞……私、県内出身だけど、ぜんぜん知らなかったかも」
その言葉に、陽菜は胸が軽くなるのを感じた。凛花はスマホに目を落としたまま続ける。
「まぁ、地味だけど」
「うっ」
思わず変な声が出た。凛花は眉を下げながら吹き出して、言葉を付け足した。
「いや、でもそこがいいと思う。なんでも映え狙いなのも、どうかと思うから」
「そうかな」
「うん。バズり目的っていうの? ああいうの、見てるとちょっと怖いし。SNSってトラブルとか炎上もつきものだしさ」
スマホを陽菜の手に返しながら、凛花は続ける。
「陽菜の投稿は目を引きにくいけど、アプローチは堅実だし、信用できるからいいと思う。実際、響く人には届いてるんだし」
「そっか、ありがと」
言いながら、陽菜は小さく息をついた。
凛花はまた笑って頷き、それから──ふと別のことを思い出したように自分のスマホを取り出した。
「これとか見てよ。推し活用のアカに流れてきたんだけど……」
指先を動かし、何かを探すみたいに目線を滑らせ、「あったあった」とスマホをこちらへ向けた。
テキスト系SNSの画面だった。
陽菜の指先がぴくりと揺れる。
──あの、捜索ポストだ。
「なんかさ、このハッシュタグが意味不明なんだよね。ほら、ここ」
陽菜は、自分の心臓が嫌な跳ね方をしているのを感じながら、凛花の指さす文字を目で追った。
#探しています
#ベージュのスニーカー
その次に、見慣れないはずの、けれど見過ごせない文字があった。
#志島大オープンキャンパス
「……え」
声にならない息が漏れる。
「オープンキャンパスの時期でもないし、なんなんだろうな、って。捜索情報とも繋がりあるのかわからないし、信憑性もないっていうか……なんていうの? こういうのもバズり狙いっていうのかな」
志島大オープンキャンパス。
その文字を見ているうちに──数秒遅れて、高校生の頃の記憶が浮かんだ。
入学前、まだ志島大に来ることが特別だった頃。
オープンキャンパスの日に、そのタグをつけてSNSで投稿するとノベルティがもらえる、ささやかなキャンペーンがあった。
陽菜も、『せっかくだから』と軽い気持ちで参加した。たいしたことのないグッズを受け取って、それで終わったはずの。
──今まで、ほとんど忘れていたくらいのことだ。
なのに。
どうして。ここで、そのタグが出てくるのだろう。
どうして、それが。私のアカウントから抜き出たように思えてしまうのだろう。
心臓の音が急に大きくなる。
その音に押し上げられるみたいに、言いようのない気味悪さがせり上がってきた。
「なーんかもう既に、何人かの志島大生が反応しちゃってるんだよねぇ。こういうの、安易に乗るのは良くない気がするんだけど」
凛花の声が、少し遠く響く。
陽菜は、凛花のスマホ画面をもう一度見た。
ハッシュタグは、陽菜が見ていた頃からほとんどが置き換わっていた。はじめからその情報はなかったことにされたみたいに。
オープンキャンパスと書かれたこのタグも、また一時のものなのか──ただの偶然と処理していいのかは、わからない。
「陽菜?」
凛花の声に、はっとして顔を上げる。
「ごめん、なんでもない」
笑って返したつもりだったが、うまく笑えた気がしなかった。
◇
午後、会議室へ向かう。凛花と別れてからもなお、胸の奥のざらつきは消えないままだった。
#志島大オープンキャンパス。
あの文字列が、頭にこびりついて離れない。
偶然かもしれない。
気にしすぎかもしれない。
けれど、どこにも、誰にも、確かめようがなかった。
◇
会議室のプロジェクターは話題が次々切り替わる。
色鮮やかなチラシの案、協賛企業・店舗についての資料、不足している備品の一覧。
ひととおり話が落ち着いたところで、西村が手を叩く。
「じゃ、SNSのほうも見ていこうか」
最初に映されたのは、陽菜が作ったテキスト系の投稿だった。谷見南瓜と谷見獅子のこと。祭りそのものだけではなく、町のことも知ってほしい──そんな気持ちで投稿した文面だ。
画面が切り替わってすぐ、短い沈黙のあと、西村が「あー」と声を漏らす。
「まあ、悪くはないんじゃない?」
否定でも、手放しの肯定でもない。判断を保留したような、曖昧な言い方だった。
「私は、いいと思うわよ。町の人間として嬉しいもの」
土橋がすぐに口を挟む。向かいの席から嬉しそうな顔で陽菜を見ていた。陽菜も思わずそっちを見る。
ほんの小さく、頷きあうみたいな間があった。
西村は「うんうん」と軽く相槌を打ってから、香音の方を向く。
「じゃ、インスタのほうも見せて」
香音が「はーい」と返して画面を切り替える。
やわらかな加工がかかった過去の祭りの様子、学生たちの写真、きりりちゃんのイラストに文字が載せられた画像。その最新の投稿文の下に──陽菜の目が釘付けになる。
#名残切り
#志島大オープンキャンパス
#志島大
息を、吸い忘れた。
「……香音ちゃん」
すぐ横にいる香音を呼びかける。
乾いた喉から、少しだけ上ずった声が出た。
「ん?」
「このタグ……#志島大オープンキャンパス、って」
香音は画面を見て、あっさりと答えた。
「ああ、なんか今、流行ってるタグっぽかったからつけたの。うちの大学だし、平気じゃない?」
陽菜は口を開いて、言葉を探した。
──そうなんだ、と流せない。
理屈ではないところで焦っている自分がいた。
「まあまあ」と西村が間に入る。
「オープンキャンパスでも、地域連携プロジェクトのことは展示があるみたいだし──いいんじゃない? 盛り上がるんなら」
言い返したくても、言葉が浮かばなかった。
陽菜のこのタグへの不安は、個人的な感情に過ぎない。
タグを外すべき理由も根拠も、自分の中で定まっているわけではなかった。
「……そうですね」
結局、そんな曖昧な返事しかできなかった。香音は「どうせだから、話題に乗れるといいな〜」と気楽に笑い、会議室はすぐにまた別の話へ移った。
陽菜だけが、そこに取り残されたみたいに俯いていた。胸の奥のざらつきだけが、どこにも行かないまま募っていった。
◇
会議が終わり、椅子を引く音が続いて鳴る。
資料をしまい、パソコンを閉じながら、陽菜はまださっきのタグのことを考えていた。
「陽菜ちゃん」
顔を上げる。大輝が立っていた。
「さっきの、タグのことなんだけど……心配なら、念のため大学側にも聞いてみようか?」
陽菜は慌てて首を振った。
「ちがうんです。ごめんなさい、私、そういうつもりじゃなくて……」
先輩は目を丸くしてから、「あはは」と声を上げて笑う。
「違う違う。怒ってるわけじゃなくて。なんていうか、切実そうだったからさ。気になっただけ」
「すみません……」
先輩はまた笑って、片手に持っていたペットボトルを差し出した。甘いフルーツティーだった。
「これ、まだ開けてないから、よかったら飲んで。あと、投稿文。陽菜ちゃんらしくて俺はよかったと思うよ」
「ありがとうございます」
お礼を言って、陽菜はペットボトルを受け取った。
「まあ……タグのことは、正直難しいよね。どう盛り上がるか、どう拾われるか分かんないし」
その言い方に、陽菜の心臓がまた嫌なふうに跳ねた。そのとき。
「白石さーん」
呼ばれて振り向くと、入口近くに立っていた上級生が、扉の外を親指で示しながら近づいてくる。
「なんか外で、男の子が待ってるよ」
先輩越しに扉のほうを覗き込む。
黒い帽子の影が見えた。
──あれ?
立ち上がるのは、自分でも驚くくらい早かった。
廊下の先、壁際に立っていたトウヤは、こちらに気づいて小さく肩をすくめる。
「トウヤくん、どうしたの」
声を落として聞くと、トウヤは視線を逸らした。
「ごめん……ここで出てくるのを待ってるつもりだったんだけど。誰を待ってるのって聞かれて……。あー、その……時間、大丈夫なら。今ちょっと話せる?」
彼が言い終わる前に、陽菜は首を縦に振った。
「大丈夫。下に行く?」
エレベーターの方へ足を向けかけたとき、後ろから声が飛ぶ。
「陽菜ちゃん。鞄、忘れてるよ」
先輩が笑いながら、鞄を持ってきてくれた。
「あ!」
「資料と飲み物、鞄の中に勝手に入れちゃったけど大丈夫?」
「すみません、ありがとうございます」
「じゃ、またね」
軽く手を振る先輩に「はい、また」と小さく頭を下げる。にこやかな先輩の視線が、そのままトウヤのほうへ滑った。なんとなく、その視線が長いような気がした。
◇
二階の談話スペースには、やはり人がいなかった。
自販機の低い唸りだけが空間に響いている。
トウヤは自販機の前へ歩いていく。硬貨を入れ、こちらを振り向かずに言った。
「いつものでいい?」
また奢らせてしまう、と気付いた陽菜は咄嗟に返事をした。
「トウヤくん、待って。私、これあるから大丈夫」
振り返るトウヤに、陽菜は鞄からペットボトルを取り出して見せた。会議室で先輩にもらったものだ。
トウヤの視線が、ラベルにじっと留まった。
「珍しいね」
「え?」
「それ、甘いやつだから」
「あ……さっき、先輩がくれたんだ」
「へぇ」
短くそう返して、トウヤは自分の飲み物だけを買った。自販機の光を受けた横顔が、ほんの少し笑っているように見えた。
「こっちと交換する?」
向かい合った席に腰を下ろしながら、トウヤが問う。
陽菜が内容を理解するより早く、彼は「冗談だよ」と言って言葉を続けた。
「受け取ったんだから、飲まないとね」
トウヤが椅子の背に軽く身を預ける。机の下では同じベージュのスニーカーが向き合っていた。
「……今日は急にごめん。このあと、予定とか大丈夫だった?」
心配そうな顔に慌てて首を横に振った。
「ううん。図書館に寄ろうかなと思ってたから……」
寄ろうと思っていた理由を、考えかけて──やめた。
祭りの資料を探したいというより、トウヤがいるかもしれないから──図書館へ向かう理由にそういう気持ちがあることに、陽菜は自分でうっすら気づいていた。
「そうだ、話って?」
振り切るように本題を口にする。
トウヤはペットボトルの蓋に指をかけたまま、少しだけ間を置いた。
「あー……あのあと、『困りごと』はどうなったのかなと思って。……前に話してたやつ。ミュートしたって言ってたでしょ」
「あ……」
#志島大オープンキャンパス の文字が、また頭の中に浮かぶ。
トウヤは視線を陽菜に向けたまま、それ以降黙った。なにも急かさず、ただ、静かに待っていた。
陽菜はペットボトルを両手で握る。中の液体の冷たさが、妙に現実的だった。
「……実は」
軽く息を吸う。視線を上げて、トウヤを見返した。
「春に人探しの投稿を見かけて。私、何度かリポストしてるの。でもいろいろ気になって……それが、ミュートしたアカウント。でも、また変なことが起こってる気がしていて」
トウヤは頷きもせず、目線だけで先を促した。その待ち方が穏やかで、陽菜には話しやすかった。
「さっき、凛花──友達が見せてくれたんだけど。そのアカウント、今、学内で少し話題になってるらしくって。変なハッシュタグがついてるんだ」
「うん」
「#志島大オープンキャンパス、って」
そこまで言ってから、陽菜は自分の手元へ視線を落とした。
「私、高校生の頃に、志島大のオープンキャンパスに来たことがあって。その時、同じタグをつけて投稿するキャンペーンがあったの。投稿画面を見せたら大学名入りのグッズがもらえる、よくあるやつ」
指先が、ペットボトルのラベルをこする。
「せっかくだから、って軽い気持ちで投稿したのを思い出して……。それだけなんだけど。特別な投稿でもないし、今までほとんど忘れてたのに……でも同じタグを、そのアカウントが使ってるのが変に引っかかって」
一度、そこで言葉が切れる。
自分でも何をどう言えばいいのか分からなくなって、陽菜は小さく息をついた。
「……それに。ついさっき会議で知ったんだけど、プロジェクトのSNSの担当者が、公式インスタで同じタグを使っていて。話題に乗れるといいなって」
「……そう」
短い返事だった。いつもより少しだけ低い声。
「そもそも私の気にしすぎかもしれないし、単なる偶然って思うんだけど──でも、なんか、嫌で」
「嫌、っていうのは」
トウヤが顔を傾ける。訝しむでも、責めるでもない表情だった。
「……うまく言えないんだけど、自分とも関係がある気がするし……近づいてきてる、みたいな感じがして……」
トウヤはしばらく陽菜と目を合わせたまま黙っていたが、やがて机へと視線を移した。
「前は、ミュートでいいと思ったけど」
一拍。
「ブロックでもいいかもしれないね」
「ブロック……」
その言葉を口の中で転がす。
前に彼にそう言われた時、陽菜は結局ミュートにとどめた。ブロックは、相手へ明確に線を引く感じが、かえって関わりを持つような気がして、躊躇があった。
でも、もう、さすがに。
自分が落ち着かない。
陽菜は黙ってペットボトルを握り直した。
「そうして、みる」
「うん。すぐに、とは言わないから。考えてみて」
トウヤが頷くのを見て、陽菜はゆっくり息を吐いた。
「……なにが正しい対処になるのかは、分からないけどね」
トウヤは少し間を置いてから、小さく言った。
それからペットボトルの蓋を開け、中身をひとくち飲む。
そして何でもないように「今日の会議、他はどうだったの?」と聞いてくれた。
話題を変えられたことに、陽菜は少しだけ救われた。気を張ったまま同じ話を続けるのは、もう疲れていた。
「南瓜とか獅子舞の投稿──悪くないんじゃない、って感じで……でも土橋さんは、喜んでくれたかな」
言うと、トウヤの口元がほんの少し緩んだ。
「そう。よかったね」
「うん。それに、ほら、これ」
陽菜はスマホを取り出し、公式アカウントの通知画面をトウヤに向けた。一呼吸置いてから、トウヤはすっと頭を寄せて画面を覗き込む。
「……あ、いいねがついてる」
「そうなの!」
ぱっと顔を上げる。前髪が触れそうな距離に気づいて、陽菜はそっと身を引いた。
「えっと……あの……私、嬉しくて。その人のホームに飛んだら、リポストのすぐあとに『地元だ、懐かしい』って投稿もあって。調べて、投稿して、よかったなって……」
照れを誤魔化すように言葉を紡ぐ。
トウヤは軽く咳払いをしてから「そっか」と言った。それから、少し間を置いて呟く。
「……思い出してもらえるのは、いいね」
陽菜はペットボトルを傾け、甘い紅茶をひとくち飲んだ。甘さが、少しだけ喉に残る感じがした。
トウヤの手元にある無糖の紅茶へ、目がいく。
──やっぱり、あっちのほうがいいな。
談話スペースを誰かが通り過ぎ、エレベーターの駆動音が鳴った。
陽菜は甘い紅茶のボトルを見つめたまま、口を開く。
「今日、来てくれて、ありがとう」
トウヤはすぐには答えなかった。やがて、「いや」と言い──癖なのかもしれない──帽子のつばに触れ、視線を少し外す。
「たまたま、気になっただけ」
──なぜ、と聞きたくなる。
けれどその疑問を、陽菜は箱にしまいこんだ。見えないところへ押しやることで、考えないようにしていた。
トウヤに対して、いくつも同じような箱を抱えている。
学部は?
学年は?
なぜ私の困りごとを聞いてくれるの?
あなたのことを教えて。
でもどれも曖昧なまま、触らないでおく。
今、この時間が心地よかったから。
「……そっか。話、聞いてもらえてよかった」
そう返すと、トウヤも「うん」と小さく頷いた。
ふたりのあいだに沈黙が落ちる。
けれど、それはやはり、気まずいものではなかった。
#探しています
#ベージュのスニーカー
#志島大オープンキャンパス




