もう見えない
それから二週間、映像は一度も来なかった。
瞬きは瞬きに戻った。目を閉じて開く。暗転があって、目の前の風景が戻ってくる。ただそれだけの、当たり前の生理現象。
日常が戻ってきた。
仕事を再開した。撮影の依頼がいくつか入っていた。ファッション誌の案件と、企業のウェブサイト用のポートレート。どちらもキャンセルせずに待っていてくれたクライアントだ。ありがたい。
田辺と久しぶりに撮影に出た。下北沢の古着屋の前。あの日と同じ場所だ。十一月の光は十月よりも低く、影が長い。
「神谷さん、なんか雰囲気変わりましたね」
田辺がアシスタントの手を動かしながら言った。
「そうか?」
「なんていうか、撮り方が変わった。前はもっとガツガツしてたというか。今は……じっくり見てから撮ってる感じがする」
言われてみれば、そうかもしれない。
以前はシャッターチャンスを逃すまいと、とにかく数を撮っていた。百枚撮って、その中から最高の一枚を選ぶ。量が質を担保するスタイル。
今は違う。
被写体を見る。光を見る。影を見る。そしてその一瞬がいつ来るのかを、待つ。
零コンマ数秒の映像を読み取り続けた三週間が、俺のカメラマンとしての目を研ぎ澄ましたのかもしれない。あの経験を通じて、一瞬を捉える感覚が鋭くなった。
皮肉な話だ。殺人鬼の視界を覗き見ることで、カメラマンとしてのスキルが上がった。
撮影を終えて、田辺と別れた。
駅に向かう途中で、瀬戸からメッセージが来た。
『お疲れさまです。榎本被告の件で、少しお話ししたいことがあります。お時間ありますか?』
近くのファミレスで待ち合わせた。前と同じ、窓際の席。ドリンクバーのコーヒーとウーロン茶。
「映像の件です」
瀬戸が切り出した。
「映像は完全に止まっているんですか」
「ああ。逮捕の夜から一度も来ていない。瞬きしても何も見えない」
「そうですか」
瀬戸が少し考え込んだ。
「榎本被告の方も、同じことを言っています。拘留されてから、覗き窓が見えなくなったと。彼はそれを、かなり残念がっています」
「残念がってる?」
「ええ。唯一の観客を失ったと言って」
気味が悪い。だが、予想通りでもある。榎本にとって俺は作品の理解者だった。視界リンクを通じて自分の「芸術」を共有できる唯一の人間。それが失われたことは、榎本にとっては刑務所の壁よりも辛い断絶なのかもしれない。
「もうひとつ」
「何だ」
「榎本被告が、あなたに伝えてほしいと言っている言葉があります」
「……何て」
「『あの覗き窓が、なぜ開いたのかはわからない。だが、あれが開いたのが俺とお前の間でよかったと思っている。お前以外の人間には、俺の目を通して見る世界の美しさはわからなかっただろう』」
俺は何も言えなかった。
美しさ。
あの血まみれの手を、あの死体を、美しいと言うのか。
だが否定しきれない自分がいる。零コンマ数秒の映像の中で、俺は確かに何かを感じていた。壁紙の質感。光の角度。花の色。その一瞬の中に、恐怖とは別の感覚があった。
カメラマンとして、あの映像の構図を美しいと感じた瞬間が、一度もなかったと言い切れるか。
言い切れない。
だから余計に気持ちが悪い。
「瀬戸さん」
「はい」
「俺は、あいつの共犯者なのか」
「何を言っているんですか」
「視界を共有していた。あいつの映像を見ていた。美しいと感じた瞬間があった。それは共犯と同じじゃないのか」
瀬戸がテーブルの上で両手を組んだ。まっすぐ俺を見た。
「違います。あなたは見たものを元に、犯人を止めようとした。あなたがいなければ、三人目、四人目の被害者が出ていたかもしれない。あなたは共犯者じゃない。目撃者であり、協力者です」
「でも——」
「神谷さん。見ることと、行動することは違います。あなたは見ただけじゃなく、行動した。それがすべてです」
瀬戸の声は静かだったが、揺るぎなかった。
ファミレスを出て、駅まで歩いた。
「最後にひとつ」
瀬戸が改札の手前で立ち止まった。
「視界リンクが完全に消えたことを確認するために、しばらく経過を見させてください。定期的に連絡を取り合いましょう」
「わかった」
「それと——お願いがひとつ」
「何?」
「今度、飲みに行きませんか。仕事の話じゃなくて」
瀬戸が少しだけ笑った。半年前に約束した飲みの話。あのときは実現しなかった。
「いいよ。日程はそっちに合わせる」
「ありがとうございます」
改札を通って、別々のホームに向かった。
電車の中で、窓の外を見た。
夕暮れの空。オレンジから紫に変わっていく空のグラデーション。ビルのシルエット。電線の曲線。
きれいだな、と思った。
シンプルに。何の含みもなく。
きれいだ。
スマホを取り出して、カメラを起動した。電車の窓越しに夕焼けを撮った。
ぶれていた。電車が揺れているのだから当然だ。だがそのぶれた夕焼けの写真が、なぜか気に入った。
完璧じゃない一瞬。ぶれて、ぼやけて、形が崩れた光。
それでもきれいだった。
それだけで十分だった。




