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瞬きの中の殺人鬼  作者: なは
最終章:決着

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15/15

それから

 十二月。


 東京は冬になっていた。街路樹の葉が落ちて、イルミネーションが代わりに枝を彩っている。コートの襟を立てて、カメラバッグを肩にかけて歩く。吐く息が白い。


 事件から二ヶ月が経った。


 日常は、少しずつ形を変えながらも、続いていく。


 仕事は順調だ。ファッション誌の仕事が増えた。あと、意外なところからポートレートの依頼が来た。小説の著者近影。文芸誌の連載を持っている作家の写真を撮ってほしいという話。


 作家のスタジオに行って、一時間ほど撮影した。穏やかな人だった。五十代の男性。書斎の窓際に座ってもらって、自然光で撮った。


「カメラマンさんの写真、独特ですね」


 撮影後にコーヒーを出してもらいながら雑談した。


「何が独特ですか」


「光の捉え方が。一瞬しか存在しない光を、ぴったりのタイミングで掴んでいる感じがする。訓練されたものとは違う、何というか……体験から来ている感じ」


 図星だった。


 零コンマ数秒の映像を読み取り続けた三週間が、俺の目を変えた。以前は見えなかったものが見えるようになった。光の微妙な変化。影の角度が動く一瞬。人の表情が変わる刹那。


 あの経験がなければ、この目は手に入らなかった。


 代償は大きかったが。


 スタジオを出て、駅に向かって歩いた。十二月の空は低くて灰色だ。ときどき小雪がちらつく。


 スマホが震えた。瀬戸(せと)からのメッセージ。


『今夜、飲みに行きませんか。この前の約束の件です』


 返信した。


『行く。場所と時間を送って』


 夜七時。新宿の居酒屋。


 瀬戸は仕事帰りのスーツ姿で来た。前に会ったときより少し疲れた顔をしている。


「お疲れさま」


「お疲れさまです。ビールでいいですか」


「ああ」


 生ビールを二つ注文した。枝豆と焼き鳥も。


 乾杯して、ビールを一口飲んだ。苦い。冷たい。うまい。


 しばらく仕事の話をした。瀬戸の刑事としての日常。俺のカメラマンとしての日常。事件とは関係のない、普通の会話。


 二杯目に入ったところで、瀬戸が少し声を落とした。


「ひとつ、報告があります」


「何だ」


「視界リンクについて、もう少し調べたいと思って、私なりに文献を探してみたんです。オカルトじゃなくて、脳科学や神経学の論文で、似たような現象の報告がないか」


「見つかったのか」


「直接的なものはありません。でも、ミラーニューロンの研究で面白い論文がありました。他者の行動を観察するときに、自分の脳内でもまるでそれを経験しているかのような神経活動が起きるという現象。通常は視覚に限らず、運動や感覚全般に及びますが、ごく稀に、他者の視覚情報そのものが自分の視覚野に干渉するケースがある、と」


「それが視界リンクか」


「仮説にすぎません。でも、もし二人の人間の脳が何らかの理由で強い同期状態に入ったとしたら、一方の視覚情報がもう一方に『漏れ出す』ことがあり得るかもしれない、と論文は示唆しています」


「なぜ俺と榎本(えのもと)だったんだ」


「わかりません。地理的な近さか、脳の構造的な類似性か、あるいは完全に偶然か。もしかしたら、誰にでも起こり得ることなのかもしれません。ただ、ほとんどの人は一瞬の映像を幻覚だと思って無視してしまうから、気づかないだけで」


 俺は枝豆を口に放り込んだ。


 偶然。


 あの現象が偶然だとしたら、世界中のどこかで今この瞬間にも、誰かが知らない誰かの目を通して世界を見ているのかもしれない。そしてそのほとんどは、ただの幻覚として処理されて、忘れ去られている。


 俺のケースが特殊だったのは、相手がたまたま殺人犯だったからだ。


 これが、もっと穏やかな人間だったら。たとえば料理人だったら。パン屋だったら。保育士だったら。


 瞬きの向こうに、パンを焼く手や、子どもの笑顔が見えていたかもしれない。


 そう考えると、少しだけ気が楽になった。


「もうひとつ聞いていいか」


「はい」


「榎本の裁判、いつ始まる」


「来年の春の見込みです。精神鑑定の結果次第ですが、完全責任能力が認められる方向で進んでいます。あなたの証人出廷は、夏頃になるかもしれません」


「わかった。いつでも出るよ」


 証人台に立つ。法廷で榎本と向き合う。瞬きの映像を通じてではなく、生身の目で。


 そのとき、何を感じるだろう。


 恐怖か。怒りか。悲しみか。


 あるいは、何も感じないかもしれない。もう終わったことだから。


 居酒屋を出たのは九時過ぎだった。冬の夜は早く更けて、ネオンの光が歩道を染めている。


「神谷さん」


「ん?」


「この前も聞きましたけど、本当に映像は完全に止まっていますか」


「止まってる。一度も来ない。俺の瞬きは、もうただの瞬きだ」


「……よかった」


 瀬戸がほっとしたように息を吐いた。


 そこで別れた。また飲もうと言い合って、別々の改札に向かった。


 帰りの電車。夜の中央線は空いている。座席に座って、窓の外を見た。


 東京の夜景が流れていく。ビルの窓の明かり。街灯のオレンジ色。線路脇のフェンス。


 瞬きをした。


 何も見えなかった。


 もう一度。


 何も見えない。


 三度目。


 暗転。そして、電車の窓に映った自分の顔が戻ってくる。ただそれだけ。


 俺は少し笑った。


 最寄り駅で降りた。マンションまで歩く。十二月の夜風が冷たい。コートのポケットに手を突っ込んで、白い息を吐きながら歩く。


 マンションのエントランスに入る。鍵を開けて、三階まで上がる。302号室。俺の部屋。


 ドアを開けて、靴を脱いで、部屋に入る。暖房をつける。冷えた体がじわじわと温まっていく。


 リビングのソファに座った。


 テーブルの上にカメラが置いてある。今日の撮影で使った一眼レフ。あの夜、河川敷で犯人を撮ったのと同じカメラ。


 カメラを手に取った。


 ファインダーを覗いた。


 何も映っていない。レンズキャップがついたまま。真っ暗なファインダー。


 俺はファインダーを覗いたまま、瞬きをした。


 暗転。


 そして、暗転。


 ファインダーの向こうは暗いまま。瞬きの向こうも暗いまま。


 二つの暗闇が重なって、区別がつかない。


 俺はカメラをテーブルに戻した。


 レンズキャップを外した。


 もう一度ファインダーを覗いた。リビングの風景が見えた。テーブル。テレビ。窓のカーテン。ソファの肘掛け。


 俺の、日常の風景。


 瞬きをした。


 暗転。


 そしてリビングが戻ってくる。


 何も混じらない。異物は差し込まれない。純粋にこの部屋の、この空間の光景だけが、俺の目に映っている。


 それだけだ。


 それだけでいい。


 俺はカメラを置いて、立ち上がった。冷蔵庫からビールを一本出して、プルタブを開けた。一口飲む。


 窓際に行って、カーテンを少しだけ開けた。


 マンションの前の道路。駐車場。コンビニの看板。向かいのアパートの窓に、いくつか明かりが灯っている。


 誰かが食事をしている。誰かがテレビを見ている。誰かが風呂に入っている。


 知らない人たちの、知らない日常。


 瞬きの向こうではなく、ここにある。


 俺の目の前に、ちゃんとある。


 ビールを飲みながら、しばらく窓の外を眺めていた。


 やがてカーテンを閉めて、ソファに戻った。


 明日は朝から撮影がある。美術館の内装写真。光が入る時間帯に合わせて、七時には現地に行かなければならない。早起きだ。


 シャワーを浴びて、歯を磨いて、ベッドに入った。


 毛布を引き上げて、天井を見る。


 瞬きをした。


 何も見えなかった。


 ただの、温かい暗闇。


 俺は目を閉じた。


 おやすみ、と誰にともなく呟いた。


 眠りは、すぐに来た。


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