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伏魔の恵〜異世界水滸伝〜  作者: 水前寺鯉太郎


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大東寺の妖僧と、隷属の金輪

第9話:大東寺の妖僧と、隷属の金輪

 大東寺(だいとうじ)の重厚な鐘楼には、山陰州軍の黒い軍旗が不吉にはためいていた。

 水泊の廃城『梁山泊』へ向かう唯一の街道は、この大東寺の境内に隣接する要衝の関所を通っていた。寺の門前には甲冑を纏った州兵が居並び、行き交う旅人や民の荷を容赦なく改めている。

 大野は一行を制し、街道から大きく外れて山道へと誘導した。

 日が完全に落ちるのを待ち、寺の裏手に広がる鬱蒼とした林を抜けて裏手へ回る。

 傾斜に沿って古い石垣が幾重にも重なり、その下には広大な薬草畑が広がっていた。だが、作業を終えたばかりの痩せこけた農民たちは、兵たちの粗暴な怒声と鞭に追い立てられるようにして暗い作業小屋へと押し込められていく。

「……かつては、こんな悪所ではなかった」

 大野が木立の陰から低く掠れた声で言った。

「ここは本来、山で傷ついた者や病人に薬草を分け与える救済の寺だった。私自身、昔ここで何度も傷薬を分けてもらったことがある」

 だが今や、強固な門が閉ざされ、薬草畑と小屋の間を剣呑な州兵たちが巡回していた。

 恵太は痛む右腕をそっと制服の上着へ寄せ直した。

「俺の怪我の薬なら、後で――」

「お前一人の身体の話ではない」

 大野は外套の左脇、今なお血が滲む腹の傷口を力強く押さえた。

 智也は崩れかけた石垣の切れ目から寺の境内部を冷静に窺った。

「全員で正面から踏み込むのは愚策だ。まずは薬草や薬酒が保管されていそうな蔵の位置を確かめよう」

 篠田が小さく頷き、身を低くして先陣を切った。

 葵も天殺星の力を気配に潜めながら、その後に続く。

 しかし、花田だけは石垣の陰に残り、自らの大きな両手を泥の上に引き据えたまま凝視していた。

 清瀬川の町を逃げ出してからも、時折、太い指先が理由もなく激しく強張った。

 仲間たちの肩へうっかり触れそうになるだけで、あの商人の骨が砕けた生々しい感触が脳裏に鮮烈によみがえるのだ。

 恵太は自分を拒絶せず、あの路地で静かに手を差し出してくれた。

 けれど、その差し出された手を、いつか自分が制御不能な力で握り潰してしまうのではないか――その不吉な予感が、花田の心をじわじわと蝕んでいた。

「……その手の震えを、永遠に止めたいとは思わんか」

 花田は息を呑み、弾かれたように振り返った。

 いつの間に接近したのか、石段の上に一人の老いた法師が佇んでいた。深編笠の奥から、歪な眼光が花田を見下ろしている。

 花田が反射的に後ろへ跳び退こうとすると、老法師は両手を静かに広げて見せた。

「兵を呼ぶつもりはない。安心するがよい……清瀬川の手配書ならば、わしも見ている」

 花田の足が、ピタリと固まった。

「……だったら……」

「人を殺めたと書いてあったな。だが……いまのお主は、誰も害そうとしてはおらん。ただ、己の恐ろしい手ばかりを怯えて見つめている」

 老法師の半眼が、花田の震える太い指先へ落ちた。

「その内に潜む荒ぶる力が……また大事な者を傷つけるのが、怖くてたまらんのだろう」

 花田は何も言い返せなかった。痛いところを直接抉られたようだった。

 少し離れた裏手で、篠田が小声で智也と会話している音が聞こえる。

 仲間はすぐ目と鼻の先にいた。大声で呼べば届く距離だった。

「わしの寺には、その荒ぶる狂気を封じ、平穏をもたらす秘宝がある」

 老法師は黒い袖の中から、金色のくすんだ金属の輪を取り出した。

表面には、複雑怪奇な呪術の文字が細かく刻み込まれている。

「大東寺に代々伝わる『緊箍(きんこ)の輪』だ。まずは、その手で触れてみるがよい」

「……何なんだよ、それ……」

「お主のその溢れ出る破壊の力を、優しく縛り、抑え込むための輪だ」

 花田は仲間たちのいる塀の方角を一瞬だけ見た。

相談すべきだった。勝手な行動をしてはいけないと、頭では分かっていた。

だが――目の前に掲げられた金色の輪から、視線を離すことができなかった。

「……触るだけで……本当に、楽になるのか……?」

 老法師が静かに頷いた。

 花田はおそるおそる、太い指先を伸ばした。

 ひやりとした金属の冷気が肌に触れる。

 その瞬間――不思議なことに、あれほど止まらなかった指先の激しい震えが、すっと和らいだ気がした。

 花田は息を呑んだ。

「これ……っ」

「頭へ戴けば、お主を苛むその禍々しい力は完全に抑え込まれる」

「もう……自分の意志と関係なく……暴れたり……しなくなるのか……?」

「そうだ。己一人でその重荷を背負う必要は、もうないのだよ」

 老法師が輪を持ち上げた。

 花田はその場に、吸い寄せられるように膝をついた。

 頭の片隅で警鐘が鳴っていた。怖くないわけではなかった。

 けれど――次に恵太たちの手を握ったとき、万が一にも力を暴走させて仲間を殺してしまうかもしれない。その絶望的な恐怖のほうが、今の花田には何倍も恐ろしかったのだ。

かちり、と冷たい音が響いた。

金色の輪が、花田の頭部にぴったりと嵌め合わされた。

花田は顔を上げた。

「……これ、外したい時は……自分で外せるんだよな……?」

 老法師は答えなかった。

代わりに、手に持った黒い念術の念術珠を、ジャラリ……と重々しく鳴らした。

「……立ち上がれ」

老法師が低い声で命じた。

次の瞬間、花田の巨躯が、まるで目に見えない糸で引き揚げられたようにスッと垂直に立ち上がった。

自分自身で足を動かした感覚は、一切なかった。

背筋に凍りつくような冷気が駆け抜けた。

「な……何なんだよ、これっ!?」

 花田はパニックになり、頭の金輪へ両手をかけて強引に引き抜こうとした。

――ギチチチチっ!!

その瞬間、脳の髄を直接万力で締め上げられるような強烈な激痛が走った。

視界が真っ赤に染まり、耳奥で耐え難い金属音が鳴り響く。花田はその場に崩れ落ち、頭を抱えて呻いた。

「ぐあぁぁぁっ……! 外せ……っ! 外してくれぇっ!」

「手を離せ」

老法師が念珠を一粒繰ると、花田の両手は自分の意志を完全に無視して、金輪からベリベリと引き剥がされた。

離したくなかった。もう一度輪を掴もうとしても、腕の筋肉が固直してピクリとも動かない。

「恵太――っ! 助け――っ!」

 花田の必死の悲鳴が裏庭に響き渡り、塀の向こうの足音がピタリと止まった。

「花田っ!?」

 恵太が叫びながら飛び出してきた。

 葵、智也、篠田がそれに続き、最後に大野が老法師の異様な姿を目にして足を止めた。

「大東寺の密教術……! 老僧、その少年に何をした!」

 老法師は返事の代わりに、手の中の念珠をジャラリと繰り寄せた。

すると、花田の巨躯がゆっくりと起き上がった。

金輪が不吉な紫光を放ち、花田の胸の奥で眠る『天孤星』の凶暴な力が、本人の意志とは無関係に強制的に汲み上げられていく。

「恵太……来るな……っ! 離れろっ!」

 花田は涙を流しながら絶叫した。

だが、彼の太い右腕はグググ……と引き絞られ、一撃で人を砕く殺戮の拳の構えを取った。

「俺……動かしてない……っ! 体が勝手に……っ!」

 恵太が制止しようと一歩踏み出した。

 花田の肩が極限まで引き絞られる。

恵太の命を奪うための、完璧な一撃の予備動作だった。

「花田! 聞こえているな!?」

恵太は叫んだ。

「聞こえてる……! だから逃げろって言ってるだろぉぁぁっ!」

智也の天機星の眼が、老法師の手元を捉えた。

「大野さん、あの老僧の念珠だ! 念珠の動きと花田の動きが連鎖している!」

「分かっている!」

大野が竹棒を構えた、その時――薬草畑の周囲の影から、無数の州兵たちが現れた。作業小屋の扉が一斉に開き、長槍を構えた兵たちが逃げ場を塞ぐ。

篠田が三節棍を構えて激しく舌打ちした。

「くそっ、最初からハメる気だったのかよ!」

老法師が、冷酷な目で念珠の一粒を強く押し潰した。

「その者どもを殺せ。我が傀儡となれ」

ドガァァンっ!

花田の足が地面を激しく削り、弾丸のような速度で恵太たちへ突進した。

「花田っ!」

恵太が名前を叫ぶ。

死の拳が、恵太の顔面へ肉薄した。

花田は頭の中で狂ったように叫び続けていた。腕の全筋肉に死に物狂いで意識を集中させる。止まれ、止まってくれ、動くな!

脳を焼き切るような痛みが走る。視界の端が暗転していく。

それでも――目の前で自分を信じて立っている、あの路地で手を差し出してくれた少年の顔だけは、決して消えなかった。

「避けてくれぇぇぇぇーーーっ!!」

花田の絶叫とともに、振り下ろされた巨大な拳の軌道が、ミリ単位でわずかに下方へと歪んだ。

「恵太っ!」

葵が超人的な反応速度で恵太の襟首を掴み、後ろへ強引に引き倒した。

――ズドォォォォンっ!!

地響きとともに、爆発のような粉砕音が響き渡った。

花田の天孤星の拳は、恵太たちの足元の厚い石畳を完璧に粉砕し、巨大なクレーターを穿っていた。

老法師の表情から、余裕の笑みが消えた。

立ち込める砂埃の向こうで、花田は砕けた地面に拳を突き刺したまま、肩を激しく上下させていた。

その太い腕を伝って、ボロボロと大粒の涙が石畳を濡らしていた。

「……聞こえてる」

 恵太は立ち上がり、砂埃を拭いながら静かに言った。

 そして、智也、葵、篠田、大野の方を力強く振り返った。

「花田の心は……まだあいつの届く場所にある! 壊されてなんかいない!」

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