呪縛の破壊と、雨中の義兄弟
第10話:呪縛の破壊と、雨中の義兄弟
――ズドォォンッ!
花田の天孤星の拳が、石畳からゆっくりと抜け出た。
砕けた石の破片がパラパラと穴へ落ちていく。
恵太は葵に身体を力強く支えられながら、砂埃の中で涙を流す花田の顔をまっすぐ見つめていた。
「花田。聞こえてるな」
「逃げろって……逃げろって言ってるだろぉぉっ!」
花田の太い右腕が、本人の意志を無視して再びギギギと持ち上がった。
老法師のしわがれた指先が、殺意を込めて念珠を一粒繰り寄せる。その不気味な手の動きに完全と同調して、花田の巨躯が前へ踏み出そうとする。
「大野さん!」
智也が背後から低い叫びを上げた。
「あの老僧の手を止めてください! 花田が動く前、必ず念珠を繰っている!」
大野の鋭い眼光が、石段の上の老法師を射抜いた。
だが、その間には凶暴な力を滾らせる花田が立ち塞がり、さらに薬草畑の向こうからは槍を構えた州兵の群れが距離を詰めてきていた。
「篠田、兵たちを任せるぞ!」
「長くは持たねえぞ、急げっ!」
篠田が三節棍を疾風のように振り回し、前衛の槍を強烈に弾き返した。葵も恵太から静かに手を離し、天殺星の力を拳に込めて篠田の隣へと跳んだ。
恵太は、自分に向けられた花田の恐ろしい拳から目を逸らさず、大声で叫んだ。
「花田! 俺を見るな! 声だけを聞け!」
花田の太い肩が、びくっと激しく震えた。
「身体を動かされたら、方向を教えてくれ! 俺が……俺たちが必ず避けるから!」
「そんな……そんなの、できるわけねえだろ……っ!」
「さっき、避けられた! お前の声があったからだ!」
老法師が、血走った目で念珠を力任せに握り込んだ。
花田が歯を食いしばり、必死のうめき声を漏らした。
「無駄な抗いをやめよ! 殺せ、叩き潰せ!」
花田の右足が、石畳を強烈に削って踏み出された。
花田は脳を焼き切られるような痛みに耐えながら、死に物狂いで首をねじった。
「右っ……! 右から来る……っ!!」
恵太は迷わず左へ身体を大きく投げ出した。
折れた肋骨に激痛が走り、泥の上に膝を突いたが、死の拳の風圧が恵太の髪を激しく揺らして頭上を空しく通過した。
――今だ!
その一瞬の隙を見逃さず、大野が進み出た。
旋風のように花田の振り下ろされた腕の下を潜り抜け、石段の上の老法師の手元へ、一尺の竹棒を閃電の如く打ち込んだ。
――バシィンっ!!
「ぐはっ!?」
骨の砕ける音とともに、老法師の指から念珠が弾き飛んだ。
転がり落ちる念珠を拾おうと老法師が必死に手を伸ばしたが、大野の重厚な靴底がその手首を石段へ容赦なく踏みつけた。
「智也っ!」
念珠の支配が絶たれた瞬間、花田の巨体がぐらりと大きく傾いた。
頭部に食い込んでいた金色の『緊箍の輪』が、不吉な紫光を失い、かすかに緩んで浮き上がった。
智也の天機星の眼が、その一瞬の構造の歪みを見逃さなかった。
「黒木、輪だ! 今、締め付けが緩んだぞ!」
葵が弾かれたように振り返った。
篠田が襲いかかる三人の兵の槍を三節棍で力任せに押し返し、叫んだ。
「こっちはいいから行けっ! 早く外せ!」
葵は花田の眼前へ跳び込んだ。
「触るよ、花田!」
花田は涙に濡れた顔で、力強く頷いた。
葵は天殺星の力を込めた両手の指先を、金輪の隙間へ強引に滑り込ませた。
まだ金属自体に締め付けようとする呪力が残っていたが、葵の超人的な怪力がそれを力任せに押し広げていく。
花田が歯を食いしばり、耐え難い摩擦の痛みに耐えた。
――ガチィンっ!
不吉な金色の輪が、花田の頭部から完全に引き剥がされ、夜空へ弾け飛んだ。
頭を焼いていた激痛が一気に吹き飛び、同時に花田の巨大な身体が崩れ落ちた。
恵太と葵が咄嗟にその巨躯を支えようとしたが、受け止めきれずに三人まとめて泥の上へ膝をついた。
「……あ……あ……」
花田はおそるおそる、自分の太い指先をゆっくりと曲げ伸ばした。
「……動く……俺の意志で……動く……っ」
身体の主導権を取り戻した歓喜と涙が、花田の口から嗚咽となって漏れ出した。
大野が叫び声を上げた。
「出るぞ! 大東寺の警鐘が鳴った、兵が増える!」
篠田が前線から跳び下がり、智也が裏手に続く暗い山道を指し示した。
花田は地面に顔を伏せたまま、涙声で呟いた。
「すまねえ……みんな、俺のせいでまた……」
「謝罪は後だ」
恵太は痛む身体を押して立ち上がり、花田へ力強く告げた。
「今は……一緒にここを出よう!」
花田は、地面に転がっていた金色の輪を見つめた。
葵がそれを受け止め、石段の上へ力任せに投げ捨てた。
カン、と乾いた虚しい金属音が夜の境内に響き渡った。
*
それから数日後。一行はシトシトと冷たい雨が降り続く街道を歩いていた。
花田は、仲間から荷物を受け取ったり渡したりする際、必ずいったん動作を止めるようになった。
太い指をそっと開き、相手の手が完全に離れたことを目視で確認してから、優しく握り直す。
恵太たちも、その不器用で思慮深い所作を決して急かそうとはしなかった。
同じクラスの同級生――林田宗一郎を発見したのも、そんな煙る雨の日のことだった。
前方の街道の曲がり角から、ガチャリ……ガチャリ……と重々しい鉄の擦れる不吉な音が近づいてきた。
州軍の護送列だった。
首輪と重い鉄鎖で一列に繋がれた数人の若者たちを、武装した州兵たちが鞭を振るって歩かせている。
「道を空けろ! 国賊どもの護送である!」
大野の指示で、一行は静かに街道の端の木立へ身を寄せた。
その先頭を歩かされていた囚人が、雨に濡れた顔をふと上げた。
その左頬には、罪人を示す痛々しい黒い刺青の刻印が刻まれていた。
恵太は思わず息を呑んだ。
「……林田……!?」
陸上部で期待のエースだった、林田宗一郎だった。
一瞬、視線が交錯した。
林田の目が驚きに揺れたが、次の瞬間、彼は冷たく視線を落とした。
(気づかないふりをしろ、巻き込まれるな)――その目が強烈にそう語っていた。
「ダラダラ歩くな!」
非道な州兵が、林田の背中に向けて容赦なく鞭を振り上げた。
その瞬間、誰よりも早く動いたのは花田だった。
花田は暴走しかけた拳を、瞬時に自らの意思でガバッと開いた。
振り下ろされる鞭を、その太い掌で力強く受け止め、強引に引き寄せて兵士から鞭を奪い取った。
「……この奴らを……打つな」
兵士が逆上し、腰の刀へ手を伸ばした。
だが横から篠田の三節棍が奔り、その手首を力任せに叩き潰した。
「花田、林田の鍵だ!」
大野が素早く護送列の先頭へ躍り出て兵たちの進路を断ち、葵が後方の追手を牽制し、智也は怯える囚人たちを路傍の安全な場所へ手際よく誘導した。
花田は林田の首を締め付ける重厚な鉄の首輪を見つめた。
鎖へ手を伸ばしかけ――あの苦い経験を思い出して一度手を止めた。
「……鍵はどこだ」
林田が目線だけで、倒れ伏す兵士の腰元を示した。
花田は慎重に鍵束を拾い上げた。太い指先が緊張で細かく震える。
一本目の鍵は合わなかった。
「……焦らなくていい、花田」
雨に濡れた林田が、静かに言った。
「……分かってる」
二本目の鍵を鍵穴へ差し込み、力任せではなく繊細に回した。
ガチャリ、と重い錠前が開いた。
花田は丁寧に首輪を外し、重い鉄鎖をそっと地面へ置いた。
林田が自由になった自分の首元を指で摩った。その間に智也が手際よく鍵束を受け取り、他の囚人たちの拘束を次々と解除していく。
襲いかかってきた州兵たちは、大野と葵の圧倒的な武威に圧され、捨て台詞を残して街道の奥へと逃げ出していった。
救出された囚人たちは深々と頭を下げ、兵たちの逃げた方角を避けるように、それぞれの故郷や深山へと散っていった。
恵太たちもまた、雨を避けるように街道沿いの深い木立へと身を潜めた。
雨音が木々を叩くなか、林田がようやく重い口を開いた。
「……美羽が、まだ捕まっているんだ」
雨粒が林田の鋭い顎からぽたりと落ちた。
「州都へ護送される途中で……総督のドラ息子に目をつけられて連れていかれそうになった。俺が必死で止めて……俺が捕まる時、美羽も俺を庇って……そこで無理やり引き離された」
「どこへ連れていかれたか、心当たりはあるか」
大野が静かに尋ねた。
「分からない……兵どもは総督府の別邸だと言っていたが、本当かどうか……」
林田は悔しそうに頬の黒い刻印に触れた。
「……確かめに戻らないと。美羽を……美羽を助け出さないと……!」
立ち上がろうとした林田だったが、長旅の拷問と疲労で膝が大きく揺れた。
その身体を、花田の太い腕がそっと優しく支えた。
林田はその腕の頑強さに驚きつつ、体重を預けて踏みとどまった。
「……すまない、花田」
「今は休め。無理をするな」
「でも、一刻も早く行かないと――」
「動けなくなったら、助け出せるものも助け出せなくなるだろ」
林田は花田の顔を見上げた。
雨のなか、優しく、けれど絶対に揺らがない瞳がそこにあった。
林田は少しだけ力を取り戻し、地面へ腰を下ろした。
「……お前、そんな落ち着いた言い方をする奴だったか」
花田は自分の太い両手を、愛おしそうに見つめた。
「……俺も、少し前まで自分の力に振り回されて、動けなくなってたからな」
それ以上、花田は多くを語らなかった。林田もまた、野暮な追及はしなかった。
ただ、雨が静かに二人の肩を濡らしていた。
「……花田」
「何だよ」
「……次にお前が自分の力に押し潰されそうになって動けなくなったら、今度は俺が手をお前に伸ばす」
花田がハッと顔を上げた。
「だから……その時は遠慮なく俺を呼べ。今日みたいに、一人で抱え込もうとするな」
「……ふっ。お前こそな、林田」
林田は力強く頷いた。
二人は静かに手を差し出し合った。
花田は一度、自分の指を開いて力の加減を確かめるように小さく曲げた。
それから――雨の中で、林田の手を力強く、けれど温かく握り返した。




