葦ヶ原の砦と、血塗られた試練
第11話:葦ヶ原の砦と、血塗られた試練
雨が上がった泥道の先に、果てしない葦原が広がっていた。
湿った風にそよぐ群青の穂の向こうへ、無数の水路が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。その迷宮のような水路を縫う土手道の突き当りに、崩れかけた木造の物見櫓がそびえ立っていた。
水泊に浮かぶ廃城――かつて山陰州の歴史に名を刻み、今は『葦ヶ原の砦』と呼ばれる反逆者たちの秘匿地だった。
「止まれ! それ以上進めば射ち下ろす!」
櫓の上から、数本の弓が力任せに引き絞られた。
大野が進み出て一行を制し、血のついた両手を静かに掲げて見せた。
「首領に取り次いでもらいたい。かつて山陰州軍に所属していた、大野進だ」
見張り台の男たちが不審そうに顔を見合わせ、一人が慌ただしく梯子を下りて奥へと走った。
待たされている間、智也は細い眼光で足元の土手道を冷徹に観察していた。左右へ一歩でも外れれば底なしの泥沼。門へ接近する者は、櫓からの射撃を遮る遮蔽物が一切存在しない。まさに天然の要害だった。
やがて、重厚な木門がギギギと軋み、内側から粗暴な声が響いた。
「入れ。ただし、刀に手をかけたら即座に叩き殺すぞ」
大野が静かに首肯し、一行は狭い門をくぐった。
砦の内側には、恵太たちの予想を超える多くの人々が身を寄せていた。
破れた網を黙々と繕う老人。かまどで薄い粥をかき混ぜる身窄らしい女。折れた槍の柄を削る手負いの男。
積まれた薪の陰から、泥と血に汚れた恵太たちを、不安と警戒の混ざった目で見つめる二人の幼い子供の姿もあった。
本来は兵の殺戮の拠点であった場所に、行き場を失った弱き人々が肩を寄せ合って暮らしていた。
ただ――炊事場に雑然と積まれた穀物の袋は、あまりにも寂しく底をつきかけていた。
*
砦の大広間の最奥に、物部大角が豪壮に腰掛けていた。
首領の椅子だけは立派な漆塗りだったが、肘掛けの美しい彫刻は無残に欠け、背もたれには無骨な補修板が当てられていた。
「高田の軍勢に追われているようなお尋ね者を、七人もまとめて転がり込ませろと言うのか」
物部は大野から、背後の少年たちへ鋭い視線を巡らせた。
林田の左頬に刻まれた、罪人の黒い烙印のところで、物部の目がピタリと止まった。
「しかも……流刑の途中で護送兵を襲って逃げた重罪人まで混ざっておるではないか」
「事情はすべて話す」
大野が重々しく答えた。
「激しい戦いで深傷を負った者もいる。まずはしばらくの間、ここで暖を取り、身を寄せさせてほしい」
「ふん、ここも慈善事業でやっておるわけではないのだ。口減らしに頭を痛めておる時に、余計な飯食いを増やす余裕などない。それに、高田の犬どもをかくまったと知れれば、総督府が本気で大軍を討伐に寄せるぞ」
あまりに正論な拒絶に、誰もすぐには反論できなかった。
物部の脇に立っていた古参の幹部が、おそるおそる口を開いた。
「ですが首領、戦える男手が増えれば、物見の番を増やせます。水路の荷揚げにも人手が足りておりませぬ」
「……タダで置くというなら、先にその忠誠と覚悟を示してもらおうか」
物部が大着に椅子へ座り直した。
「三日以内に、街道に出て旅人から路銀を奪ってこい。その金をすべて砦の蓄えとして納めよ」
恵太が思わず顔を上げた。
「……奪うって、誰からですか」
「決まっているだろう。街道を通る旅人だ。富裕な商人ならなお良い。金を持っている者を選んで襲え」
「……もし、差し出すのを断られたら?」
物部は蛇のような目で恵太を冷たく見下ろした。
「お前たちは何をしにここへ来たのだ。頼めば恵んでくれるような甘い世の中なら、ここにいる連中も苦労はしておらんわ。血を流させてでも奪い取るのだ」
広間の入口で、見学していた誰かが息を呑んだ。
腕に包帯を巻いた若い男だった。物部と目が合うと、恐怖で小さく首をすくめた。
「できなければ、叩き出せ。それがうちの『投名状』……入山の掟だ」
林田が悔しそうに唇を強く噛み締めた。
ここまで、血と泥に塗れてようやく辿り着いたのだ。
冷たい雨を凌ぎ、美羽を救出するための拠点を確保しなければならない。仲間たちの体力的にも限界だった。
「……相手を……傷つけずに強奪するだけで済むなら……」
自分から出た弱音に、林田自身がハッと胸を突かれた。
恵太がすぐ隣の林田を見やった。
「林田……」
「分かってる……分かってるよっ!」
林田は絶望的な声を絞り出した。
「でも……また冷たい雨の中を逃げ回るのか!? いつまで隠れて逃げ続ければいいんだ! 美羽は……美羽はその間も、奴らに――っ!」
言葉が喉に詰まった。
恵太は折れた右肩をかばうように庇いながら、真っ直ぐに物部大角を見据えた。
「……その条件は、断る」
物部の目が細く、不吉に吊り上がった。
「ならば話は終わりだ。失せろ」
「食べ物が足りないのは分かった。見張りでも耕作でも何でも働く。でも、関係のない無辜の旅人を襲う約束なんて、絶対にできない」
「ふん、命乞いに来たよそ者が、仕事を選べる立場か?」
「襲われる側の人間だって、選べる立場じゃない!」
恵太の突っぱねた叫びに、物部は肘掛けを激しく叩いた。
篠田が怒りで顔を上げたが、大野が静かに片手を出してそれを抑え込んだ。
花田が、泥のついた自分の太い両手をじっと見つめていた。
「……金を出さない相手を強引に殴って……それで、その人が死んだらどうするんだ」
腹の底から絞り出すような、重く低い声だった。
大広間が、シーンと静まり返った。
「そうやって奪った金を持ってここに戻ってくれば……それで俺たちは『仲間』になれるのか?」
物部は答えず、苦々しく顔を歪めた。
智也が前に一歩踏み出し、冷徹な声で口を開いた。
「首領、あなた方は人手と食糧が必要なんでしょう。なら、警護でも荷運びでも、具体的な労働の割り振りを決めればいいはずだ」
「口を慎め、クソ餓鬼が」
「条件の確認です。砦の存続に必要なのは『金品という結果』なのか、それとも『他人を害したという共犯の証明』なのか。どちらですか」
傍らの幹部が動揺して物部の顔を見た。
物部が怒りに顔を血走らせ、椅子から猛然と立ち上がった。
「貴様……! ここを守り抜いてきたのは誰だ! ここにいる者を食わせてきたのは誰だと思っている!」
「誰もあなたの過去の功績を否定してはいません」
大野が重々しい声で割り込んだ。
「物部殿。若者たちの純粋な労働と力で滞在を認めてほしい。それでは不服か」
物部の凶暴な視線が、ざわめく周囲の人間たちを滑った。
幹部たちは言葉を失って黙り込み、広間の入口には、いつの間にか砦の民たちが大勢集まり始めていた。炊事場にいた女も、子供を抱えた老人も、恵太たちの言葉を固唾を飲んで見守っていた。
「……余計な青臭い言分で、うちの掟を汚す気か……!」
物部が大刀の柄に手をかけた。
「捕らえろ! 逆らう者は叩き殺せ!」
壁際に控えていた殺気立った山賊たちが、一斉に刃を抜いて動き出した。
葵が入口の方角を一瞬で警戒した。
野次馬の子供の姿が、慌てて大人の背後へと隠れるのが見えた。
「……ここで大暴れするのは、周りの人たちに危険すぎるわ」
葵が言った。
花田が重々しく頷いた。
「無抵抗の人間を殺す話なら、俺は絶対に断る」
「へっ、分かってるよ! 叩きのめすのは目の前のクソ野郎どもだけだろ!」
篠田が変質した三節棍を疾風のように構え直した。
林田が覚悟を決め、恵太の前に躍り出た。
大野は一尺の竹棒を低く構えたまま、押し寄せる男たちを静かに見据えた。
「まだやり直せる。丸腰の者に武器を向けるな」
「問答無用! 命令が聞こえんのかっ!」
物部が絶叫した。
先頭の男が凶悪な笑みを浮かべ、殺意を込めた長槍を力任せに突き出した。
その鋭い穂先が、林田の胸元を直線に穿とうと肉薄した――!




