清瀬川の拳と、血に濡れた破戒僧
第8話:清瀬川の拳と、血に濡れた破戒僧
大野の案内のもと、一行は山陰州の巨大な水泊に浮かぶ廃城――『梁山泊』を目指して歩を進めていた。
その道中、最低限の食糧と薬草を求めるために立ち寄った宿場町・清瀬川の喧騒の中で、智也が足を止めた。
石造りの辻の掲示板に、一枚の手配書が貼られていた。
『州軍御用商人殺害の下手人。身の丈六尺余り。剃髪し、粗末な法衣を着用』
その文字の下に、歪な炭で描かれた人相書きがあった。
「……これ、花田じゃないか」
智也の低い声に、篠田がひょいと顔を寄せた。
「和人か!? 隣の組の、柔道部のやつか!?」
恵太も身を乗り出して絵を見つめた。
丸い頭と太い首。粗い描線ではあったが、中学校の道場で何度も見かけた、生真面目な同級生の顔に間違いなかった。
「でも……殺害だなんて、何かの間違いよ……」
葵が絶句しかけた、その時だった。
――ガシャーンッ!
路地の奥で積み上げられた竹籠が盛大に崩れ落ちる音が響いた。
「いたぞ! 逃がすな!」
「回り込め! 包囲しろ!」
悲鳴を上げて散っていく町人たちの隙間から、法衣を纏った異様に大柄な少年が、路地の泥を蹴って飛び出してきた。
頭には自分で刃を当てたらしい不揃いな剃り残しが残り、首元の法衣には痛々しい乾いた血がこびりついている。片方の袖は肩口から豪快に引き裂かれていた。
花田和人だった。
「来るなっ……! 来るなと言ってるだろっ!」
背後から襲いかかった州兵の一人が、花田の肩を掴もうと手を伸ばした。
花田が恐怖に引きつった顔で、鬱陶しそうに腕を軽く一振りした。
――ドゴォンっ!
強烈な衝撃波とともに、掴みかかった兵士の巨躯がまるで紙くずのように宙へ吹き飛び、背後にいた兵士二人を巻き込んで石壁へ激突した。壁に生々しい亀裂が走る。
花田は、自らの血に汚れた太い掌を見つめ、ガタガタと全身を震わせた。
「来るな……触るなっ……!」
「花田!」
恵太が思わず踏み出そうとすると、大野が横から太い腕を伸ばして制した。
「待て。今のあいつは力の加減を完全に失っている。安易に近づけば吹き飛ばされるぞ」
花田は壁際で呻く兵士たちを、血走った目で見下ろしていた。
恵太の叫び声すら、パニックを起こした彼の耳には届いていないようだった。
「殺すつもりじゃ……殺すつもりなんて……なかったんだ……っ」
嗚咽混じりの震える声が、花田の口から漏れ出た。
「俺は……ただ、止めようとしただけで……っ」
この見知らぬ異界の町へ弾き飛ばされた時、花田には行くあても頼る者もなかった。
飢えと恐怖のなか、食べ物を与え、寝床を貸してくれたのが、州軍へ食肉を納めている裕福な商人だった。
力仕事を手伝う代わりに店に置いてやる。そう言われ、花田は懸命に働いた。
だがその数日後、男が旅芸人の親子を店の奥へ無理やり引きずり込んだ時、花田は初めて、その店が裏でどんな非道を行っているかを知った。
返せない借金のカタだと言って、親から幼い子供を引き剥がそうとする商人。父親が必死で我が子を庇うと、男は笑いながら太い鉄角棒を振り上げた。
花田は夢中で割り込み、その腕を掴んで制止した。
『やめろって言ってるだろっ!』
振り払われ、もう一度止めようとして、商人の鉄角棒が花田の胸を突いた。
その瞬間、花田の胸の中で『天孤星』の禍々しい熱が爆発した。
夢中で突き出した、たった一発の拳。
ドンっ、と肉が弾けるような鈍い音が響き、商人の巨体は壁まで吹き飛んで動かなくなった。即死だった。
花田は震える手で商人の肩に触れた。手にねっとりとした血がついた。
父親の陰からこちらを見ていた幼い子供が、花田と目が合った途端、悲鳴を上げて顔を覆い、化け物を見る目で縮こまった。
それから先の記憶は、途切れ途切れだった。
追われる身となり、刃物で無理やり髪を削ぎ落とした。道連れになった哀れんだ旅の老僧から古い法衣を譲り受け、これを着て顔を隠せば見つからずに済むと信じた。
それでも、州兵の追手は牙を剥いてやってきた。
「俺……人を、殺しちゃったんだ……」
花田が絞り出すように呟いた。
通りの向こうから、追撃を知らせる甲高い笛の音が響き渡った。
大野が速やかに篠田と葵へ視線を投げた。
「追手をこの路地へ近づけるな。だが深追いは厳禁だ」
「へっ、分かってるよ!」
篠田が三節棍を構えて前線へ飛び出し、葵が力強い踏み込みでその脇を固めた。
智也はすかさず横手の狭い路地へ視線を走らせた。
「荷車が一台通れる幅がある。奥の裏通りへ抜けられるぞ。松江、説得に時間はかけられない!」
恵太は力強く頷いた。
「花田! 俺だ! 松江恵太だ!」
花田の顔が、ゆっくりと動いた。
「……恵太……?」
「そうだ。黒木も、呉原もいる! 篠田もいる!」
花田は涙に濡れた目で、一人ひとりの顔を確かめるように見やった。
そして、自分の両手を見つめ、血のついた法衣の袖をぎゅっと固く握り締めた。
「来るなよ……っ!」
恵太はピタリと足を止めた。
「……分かった。近づかない」
「触ったら……俺、また……力が入って、誰かを……っ」
「触らない。約束する」
背後の大通りから、篠田の三節棍が兵士の刃を弾き返す激しい金属音が響いた。
花田の巨躯が、びくっと跳ね上がった。
「俺が……俺が山の底で扉を開けたんだ」
恵太は静かに、まっすぐ花田を見つめて言った。
「そのせいで、みんながこんな世界に巻き込まれた。だから――」
「殴ったのは俺だっ!」
花田が恵太の言葉を強引に遮った。
「お前じゃない! 拳を出したのは俺なんだよっ! 俺が……俺の手で人を殺したんだ!」
恵太はそっと口を閉じた。
花田の大きな目から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ち、泥を濡らした。
「助けようとしたんだ……っ! 小さな子が泣いてたから……! なのに……その子にまで、化け物みたいに怖がられた……っ!」
袖を握りしめる太い指先が、白くなるほど強く折れ曲がった。
「俺だって怖いよ……っ! 自分の手なのに……どこまで力を入れたら壊れないのか、全然分からないんだよ……!」
恵太は、涙を流す花田の太い手を見つめた。
そして、自分自身の左手へ目を落とした。そこには、伏魔殿の扉で擦りむいた、消えきらない乾いた血の跡があった。
「……今、大丈夫だなんて、気休めは言えない」
恵太は静かに、けれど力強く言った。
「お前が体験したことも、その苦しみも、俺はまだ全部を知っているわけじゃない」
花田が絶望に顔を伏せた。
「……でも、話を聞くことはできる。一緒に来てくれ、花田」
「……俺は人を殺した罪人だぞ!?」
「聞こえたよ」
恵太は真っ直ぐに答えた。
「聞こえたから……お前の本当の声を、もう少し話してほしいんだ」
「松江! 潮時だ、囲まれるぞ!」
智也の切迫した叫びが飛ぶ。
篠田が襲いかかる兵士の刀を強引に押し返し、大野が横から滑り込んでその腕の関節を正確に挫いた。
別の路地の奥からも、カチカチと鎧が触れ合う足音が刻一刻と近づいていた。
「今、行く!」
恵太は血のついた左手を、そっと正面へ差し出した。
花田の身体には触れず、ただ空間に手を置いた。
「……歩けるか」
花田は、目の前に差し出された恵太の掌をじっと見つめた。
法衣の布地で自分の太い掌を何度も拭いた。血はすでに乾いているというのに、手袋をはめるように何度も、何度も拭き続けた。
それでも、花田はおそるおそるも手を伸ばせなかった。
恵太は腕を下ろさず、ただ静かに待ち続けた。
やがて――震える大きな指先が、恐るおそる恵太の掌へ触れた。
恵太は逃がさないように、その大きな手を力強く握り返した。
「こっちだ!」
智也が速やかに狭い路地へ滑り込んだ。
葵が二人の前に躍り出て前方を警戒し、篠田と大野が背後を固める。
花田は、恵太の手の温もりに引かれるように、重い一歩を踏み出した。
天孤星の荒ぶる力は静まっていたが、その指先の震えはまだ止まっていなかった。
「……もし、また……」
恵太の耳にしか届かないほどの、消え入るような声だった。
「また俺が抑えきれなくなって……誰かを殴っちゃったら……どうする……?」
恵太はすぐには答えなかった。
路地の出口で、智也が手招きしているのが見えた。
恵太は花田の手をもう一度ぎゅっと握り直し、前を見つめた。
「それを……これからみんなで、一緒に考えよう」
恵太の言葉に、花田の太い手から、ほんの少しだけ余計な緊張が抜けた。
背後で、追撃の警笛が再び清瀬川の空へ甲高く鳴り響いた。




