軍師と豪傑、闇を下る
第4話:軍師と豪傑、闇を下る
避難の列の前方で、悲鳴が上がった。
「松江とゆきが落ちたぞ!」
「後ろへ下がれ! 道の端に寄るな!」
教師の怒鳴り声が、暗い山道に響き渡った。
列の中ほどにいた黒木葵は、前の生徒の肩越しに崩落箇所を凝視した。懐中電灯の光が集まり、その光の渦から泥まみれの女子が生徒と教師の手で引き上げられている。
ゆきだった。
続いて、メリメリと足下の斜面が広範囲に崩れる不穏な音が響いた。
「恵太くん……!」
引き上げられたゆきの悲鳴を聞いた瞬間、葵は身体が動いていた。人の隙間を縫って走り出す。
「ゆきは上がった! 松江は下だ、全員そこから離れろ!」
教師が制止の叫びを上げるのも構わず、葵は崩れた道の縁へ肉薄した。
「恵太――っ!」
下は漆黒の闇だった。光を向けても、濡れた枝葉と重い霧が浮かび上がるだけだった。
「黒木、下がれ!」
強引に上着の背をつかみ引き戻された。
振り返ると、同じクラスの呉原智也が立っていた。眼鏡のレンズに細かな水滴がついている。彼は葵の顔ではなく、彼女の足元を鋭い眼光で見つめていた。
「そこ、亀裂が入ってる」
葵の靴のすぐ脇を、歪な亀裂が走っていた。
「離してっ、恵太が下におんのよ!」
「だからって、お前まで落ちてどうする!」
智也が力任せに上着を引いた。
葵は斜面へ向けていた足を戻そうとした。
その瞬間、足下の土砂全体が牙を剥くように崩落した。
「あ――」
足場が完全に消えた。
葵の身体が滑落の勢いに傾く。上着をつかんだままの智也も連鎖的にぬかるみに足を取られ、体勢を崩した。
「しま――」
上から伸ばされた教師の手が、二人の間の空間を空しく切った。
濡れた枝が容赦なく顔を打ち、泥が視界を奪う。
葵はとっさに地面に手をつこうとしたが、掌ごと泥がすべり落ちた。智也の肩が強くぶつかり、二人の身体が離れる。
何かにつかまろうと手繰り寄せた指先を、棘のある草木が切り裂いた。
直後、腰に強烈な衝撃が走った。
肺の中の空気が吐き出される。
葵は横向きに倒れたまま、かろうじて目を開けた。すぐ鼻先で、パラパラと小石が途切れた縁の向こうへ落ちていく。
間一髪、崖の途中に突起した狭い岩棚だった。
「呉原……!?」
わずか一メートル下で、智也の身体が斜面を滑り落ちかけていた。
葵は身を乗り出して腕を伸ばした。彼の制服の袖を必死に掴み、力任せに引き寄せる。
「動かないで!」
「動いて……ない、動けるかこんな場所で……!」
智也は歯を食いしばり、岩の突起に肘をかけた。
葵は泥に膝を立てて踏ん張り、彼が完全に岩棚へ身体を乗せるまで、決して袖を離さなかった。
二人とも、しばらくは荒い息を繰り返すことしかできなかった。
葵は脇腹の鈍痛に顔をしかめながら、どうにか身体を起こした。
「……立てる?」
「たぶん……お前は?」
「痛いけど、骨は折れてない」
智也は曲がった眼鏡を押し上げ、片脚ずつ入念に動かして確かめた。それから、二人が落ちてきた漆黒の斜面を見上げた。
山道の灯りは遥か頭上、生い茂る木々に遮られて届かない。
「先生ーっ!」
葵が叫んだが、返事は風の音にかき消された。
代わりに――岩棚のさらに遥か下、地底の暗門から地鳴りのような音が響いた。
「待ってろ……」
細い掠れ声が下から届き、葵はハッと顔を上げた。
「恵太……!?」
岩棚のさらに下には、崩れた土砂と倒木が不気味に積み重なっていた。その先の岩壁に、あり得ないものが立っている。
禍々しい、黒漆の巨大な鳥居。
柱に刻まれた古代文字が、血のような赤と淡い燐光を放っていた。
「……何だ、あれは……」
智也が息を呑んで呟いた。
鳥居の奥に続く横穴の入口で、人影が動いていた。
泥と血にまみれた制服。地を這うような痛々しい姿。
「恵太ーっ! やめなさい、戻ってきて!」
葵が叫んだ。だが恵太は振り向きもしなかった。吸い寄せられるように、巨大な鉄扉――『伏魔殿』へ手を伸ばす。
直後、横穴の奥で血のような赤光が爆発した。
太い鉄鎖が次々と弾け飛ぶ重音。
智也が葵の肩を掴み、岩棚の奥へ力任せに引き倒した。
「黒木、伏せろっ!」
穴の奥から、破滅の光芒が噴き上がった。
葵は両腕で顔を覆った。灼熱の嵐が頬を打ち、岩棚全体が地震のように激しく振動する。
砕け散った岩の破片が、すぐ耳元をかすめて飛び散る。
三十六の黒炎と、七十二の金色の燐光。
百八の光芒が、二人の頭上を切り裂き、夜空の雲を突き破って放たれていく。
智也は腕の隙間から、眼開けてその壮絶な光景を追った。
「……くそっ、何なんだあれは……! ん……?」
智也の視線が凍りついた。
「……こっちに、来る……!」
空へ飛び立ったはずの光芒のうち、二つの光が空中を旋回し、意志を持った矢のように向きを変えていた。
逃げる隙など一瞬もなかった。
一筋の黒炎が智也の胸の中央へ穿ち、もう一筋の金色の燐光が葵の胸を直撃した。
【天機星】
【天殺星】
「――つぐっ!?」
葵は胸を両手で強く押さえた。
心臓の奥底で、巨大な何かが爆発した。全身の血液が灼熱の炎に変わり、骨の髄まで駆け巡る。激痛ではない。圧倒的な「力」と「破壊の奔流」が肉体を内側から造り変えていく感覚に、息を吐くことすらできなかった。
隣で智也が膝をつき、頭を押さえて呻いていた。彼の瞳の奥で、恐ろしいほどの冷徹な光と幾千の計算式が明滅しているのが見えた。
「呉原……っ」
葵は手を伸ばしたが、指先は彼に届かなかった。
岩棚も、鳥居も、夜空も、すべてが眩しい白光の中に溶けて消えた。
*
葵が目を開けると、頬に乾いた砂のザラついた感触があった。
雨の音が、跡形もなく消えていた。
腕を地面について身体を起こす。先ほどまで激痛が走っていたはずの脇腹にも、全身の擦り傷にも、不思議なほど痛みがなかった。体に力が満ちあふれている。
掌を見た。泥と血の汚れだけが、くっきりと残っていた。
「呉原!」
智也はすぐ目と鼻の先に倒れていた。
「呉原、起きてっ!」
肩を揺らすと、彼は大きく息を吐き出し、ゆっくりと目を開けた。
「……黒木……?」
智也は葵の顔を見て、それから自分の手と地面を凝視した。曲がった眼鏡を指で押し上げ、静かに周囲へ視線を巡らせる。
見慣れたスギ林は、どこにもなかった。
自分たちが滑落した岩棚も、崩れた山道もない。
乾いた荒野が地平線の彼方まで広がり、見上げる空には血のように赤々とした月が浮かんでいた。
「ここ……どこよ……」
葵の怯えた問いに、智也はすぐには答えなかった。
胸元にそっと手を当て、制服の上から自分の脈拍を確かめている。その眼光には、いつもの彼以上の異常な冷徹さが宿っていた。
「……さっきの光だ。何かが体内に入り込んだ」
「私にも……胸が熱くなって……」
「身体の異変は?」
「痛みが……全部消えてる。むしろ、力が湧いてくる感じ」
智也は薄い唇を一層硬く結んだ。
「僕もだ。頭の中が恐ろしいほど冴えている……」
葵は弾かれたように立ち上がった。踏み出した足には不思議なほどの軸の強さがあった。
少し離れた荒野の真ん中に、ぽつんと腰を落としている人影があった。
恵太だった。
乾いた赤土の上に座り込み、虚ろな目で周囲を見回している。折れた右腕を身体に寄せたまま、左手だけで泥混じりの地面を押していた。
「恵太ーっ!」
葵はなりふり構わず駆け寄った。
恵太がゆっくりと顔を上げた。
唇がわずかに動いたが、声にはならなかった。
「動いちゃダメ! ひどい怪我じゃない……っ」
葵がその前に膝をつくと、恵太はすがるように葵の制服の袖をつかんできた。
「ゆきさんは……」
カサカサに乾いた、掠れた声だった。
「ゆきさんは……上にいたよな……? 先生が……引っ張り上げて……無事だったよな……?」
「いた! 私、この目で見たわ! ゆきちゃんはちゃんと上に引き上げられて無事だった!」
恵太の指が、ピタリと止まった。
追いついてきた智也が、恵太の青ざめた横顔を上から静かに覗き込んだ。
「松江。ここで、一体何があった」
恵太はゆっくりと二人を見上げた。
それから、自分の血に染まった左手へ、絶望を孕んだ目を落とした。
「……聞こえたんだ……」
「何がだ」
「ゆきさんの……助けてって声が……あそこから……」
葵と智也は、思わず周囲を見渡した。
見渡す限りの見知らぬ荒野に、ほかの生徒や教師の姿は影も形もなかった。




