遇恵而開
第3話:遇恵而開
どれほどの時間が経ったのだろうか。
息を吸うたび、折れた肋骨が軋むように脇腹が痛んだ。
恵太は薄く目を開けた。頬の下に冷たい泥の感触がある。右腕を動かそうとして、肩から走った激痛に思わず息を詰めた。
見上げる頭上に、山道の懐中電灯の灯りは影も形もなかった。
「……先生……」
呼んだつもりだった。だが声は掠れ、岩肌を伝う微かな雨だれの音に消えた。
顔を横へ向ける。
倒木の先で、岩山が巨大な口を開けるように大きく抉れていた。崩れた土砂の奥深くに、異彩を放つ何かが立っている。
鳥居だった。
黒漆の如き石を組み上げた、見上げるほどの巨大な鳥居。その二本の柱には、恵太の見たこともない古代の文字が深く刻まれていた。溝を満たす淡い燐光が、濡れた石肌に不気味に浮かんでいる。
鳥居の向こうには漆黒の横穴が続き、その最深部を巨大な両開きの鉄扉が固く塞いでいた。
幾重にも厳重に巻きつけられた太い鉄鎖。扉の継ぎ目を隙間なく覆う、無数の古びた呪符。
その頭上に掲げられた扁額には、三つの文字が禍々しく刻まれていた。
――伏魔殿。
近づいてはいけない。魂の奥底で警鐘が鳴った、その時だった。
『……痛いよ……っ』
恵太は弾かれたように顔を上げた。
『暗いよ……恵太くん……助けて……!』
間違いない、ゆきの声だった。
あの分厚い鉄扉の、まさに「奥」から聞こえた。
「ゆきさん……!? なんで……」
返事の代わりに、押し殺したすすり泣きが響いた。その向こうから、さらに別の声が重なる。教室で聞き慣れた、当番を押し付けてきた同級生たちの声。
恵太は鉄扉を食い入るように見つめた。
ゆきは道の上に引き上げられたはずだ。教師の手が、確かにその手をつかんでいた。
なぜ、こんな暗闇の奥にいる。
『お願い……早く……息が、できない……』
何かがミシミシと軋む音に、生徒たちの悲鳴が重なった。
上でもまた、大規摸な土砂崩れが起きたのか。
恵太は左肘を泥に力任せに突き立てた。身体を引き寄せた瞬間、脇腹に激痛が走り、視界が真っ白に染まる。
息を吐き出しながら、しばらく動けなかった。
『恵太くん……っ!』
また、悲痛な声で呼ばれた。
恵太は顔を上げ、鉄扉へ向かって泥を這った。
爪の間に濡れた土が深く入り込む。折れた右腕を身体の下に庇いながら、左手一本で地面を掴み、身体を引きずる。何度も動きを止め、そのたびに声が途切れていないか耳を澄ませた。
ようやく扉にたどり着いた時には、息は完全に乱れきっていた。
「ここにいる! 聞こえるか、ゆきさん!」
血の滲む左手で分厚い鉄板を激しく叩いた。
「先生は!? 誰か、他に一緒にいないのか!?」
『開けて……お願い、ここを開けて……!』
恵太は太い鎖を掴み、力任せに引いた。
重い金属音が横穴の洞窟内に虚しく響くだけだった。
鍵穴を探して、滑り落ちる指先を鉄扉の上で滑らせる。擦りむけた掌から赤黒い血が滲み、扉に貼られた呪符の端へと付着した。
――じゅっ。
肉を焼くような小さな音がした。
恵太は思わず手を引いた。
血のついた符が一枚、まるで生き物のように黒く縮れあがっていく。火の気などどこにもない。それなのに、焦げた穴が生き物のようにじわじわと広がっていく。
ジャラ……と、巨大な鎖が鳴った。
恵太は息を呑んで動きを止めた。
扉の脇に、ひっそりと佇む細い石碑があった。泥に覆われていたその表面から、泥が滑り落ち、四つの文字が血のような赤で鮮明に浮かび上がった。
『遇恵而開』
――恵に遇いて開く。
「恵……」
自分の名前の一字だった。
なぜ、こんな人里離れた古跡に、俺の名がある。
だが、混乱する頭のなかで『開』という文字だけが鮮烈に浮き上がった。
(俺なら……俺の手なら、開けられるのか……?)
『もう、だめ……つぶされる……!』
扉の向こうで、ゆきが金切り声を上げて泣いた。
確かめるべき疑問は、山ほどあった。
ゆきたちがなぜそこにいるのか。この禍々しい扉が何を閉じ込めているのか。
けれど、恵太は迷わなかった。血に濡れた左手を再び持ち上げた。
「待ってろ。今、出すから!」
石碑に刻まれた文字へ、血に染まった掌を力強く押し当てた。
ジュワッ、と掌の下が激熱を帯びた。
それを合図に、扉全体を覆っていた無数の呪符が、端から一斉に黒く変色し、灰となって崩れ落ちていく。巻きついていた太い鎖が引きちぎれるように張り詰め――バチィン! と爆音を立てて一本、また一本と石床へ崩れ落ちた。
恵太は咄嗟に身体を引いた。
両開きの重厚な鉄扉の隙間に、一筋の細い闇が生まれた。
ギギギ、と地鳴りのような軋み音とともに、扉が内側へと大きく開いていく。
「ゆきさんっ!」
叫びながら覗き込んだ奥に、人影は存在しなかった。
床すらも、存在しなかった。扉のすぐ先は、光の一切届かない巨大な縦穴が漆黒の口を開けているだけだった。
『助けて』
すぐ耳元で、吐息が聞こえた。
紛れもない、ゆきの声だった。
だが――その声の終わりに、禍々しい別の響きが混ざり込んだ。
地底から這い上がるような低い声。耳を裂く甲高い声。何十、何百という異形の声が重なり合い、全く同じ音節を狂おしく繰り返した。
『助けて。助けて。助けて。助けて。助けて』
「な……っ!?」
恵太は総毛立ち、扉から離れようと泥を蹴った。
遅かった。
縦穴の底が、爆発するように目も眩む光を放った。
次の瞬間、禍々しい三十六の黒炎と、眩悪な七十二の金色の燐光が、奔流となって噴き上がった。
「うあぁぁぁっ!?」
すさまじい衝撃波に吹き飛ばされ、恵太は泥の上を何度も転がった。頭上の岩盤が雷鳴のような音を立てて砕け散る。頭を覆おうとした右肩に激痛が走り、悲鳴を上げた。
裂けた岩盤の隙間を縫って、百八の光芒が咆哮とともに夜空へと解き放たれていく。
その絶大なエネルギーの軌跡を追うように、周囲の空間そのものにバリバリと亀裂が走った。
裂けた空間の向こうに、一瞬だけ、見覚えのある山道が映し出された。
揺れる無数の懐中電灯。互いの腕を必死に掴み合うクラスメイトたち。
「全員、その場から離れろ――!」
叫ぶ教師の声が、途中で金物のように歪んだ。
次の瞬間、空間の亀裂の向こうで、無数の生徒たちの悲鳴が砕け散るように吹き飛んだ。
「先生! みんな……っ!」
恵太は破滅していく景色に向かって手を伸ばした。
だが、山道も、灯りも、馴染みある世界そのものが、ガラスが粉々に砕けるように掻き消えた。
風が変わった。
濡れた木々と土砂の生臭い匂いが一瞬で吹き飛び、見たこともない、乾いた異国の土の匂いが強烈に鼻腔を突いた。
肌を刺す風の温度も、空気の重さも、すべてがすり替わっていた。
恵太は荒い息を吐きながら、ゆっくりと顔を上げた。
そこには、雨雲などどこにもなかった。
見たこともない星座が静かに蠢く夜空の真ん中に、巨大で禍々しい、赤銅色の月がポッカリと浮かんでいた。
恵太はしばらくの間、血のような月を呆然と見上げていた。
それから、ゆっくりと首を巡らせ、開かれたままの伏魔殿の扉へ目を戻した。
ぽっかりと口を開けた闇は、何も答えなかった。
ゆきの助けを求める声も、同級生たちの泣き声も、もう世界のどこからも聞こえない。
「……どこだ……」
恵太は乾いた異国の土を、血のついた指先で強く掴んだ。
「みんな……どこに、いるんだよ……っ!」
夜風が吹き抜けるだけで、返事はなかった。
もう一度、あの一心不乱に伸ばした手に応える声を聞こうとした。
だが、静寂のなかに聞こえるのは、自分自身の虚しく乱れた息遣いだけだった。




