夜の山道と冷めたつぶやき
第2話:夜の山道と冷めたつぶやき
秋の林間学校、二日目の夜だった。
雨は弱まっていたが、山道には重苦しい霧が残っていた。濡れた制服が背中に貼りつき、一歩踏み出すたびに冷気が体温を奪っていく。
夕方からの局地的な豪雨で、キャンプ場の通路には水があふれかえっていた。本部のプレハブ裏では、斜面から濁った水が激しく流れ出していた。
教師たちは施設の職員と協議の末、生徒たちを一時的に避難小屋へ移すことに決めた。小屋はキャンプ場より一段高い、沢筋と急斜面から離れた安全な場所にある。
そこへ通じるのは、かつて林業に使われていた狭い作業道だった。
「前の人と離れないで! 足元をしっかり照らして歩いてください!」
先頭から教師のダミ声が届く。
列の後ろでも別の教師が生徒を急かしていたが、歩みは一向に上がらなかった。踏み重ねられた濡れ落ち葉の下で、靴底がずるりと滑る。懐中電灯の束ねられた光が、足元と不気味な木立の間を細かく揺れ動いていた。
恵太の三歩前を、隣のクラスのゆきが歩いていた。
小さな段差を越えるたび、彼女の持つ灯りが跳ねた。
「きゃっ……!」
光が大きく横へ流れた。
ゆきが道の外側へ傾き、そのまま吸い込まれるように姿を消した。朽ちた柵の横木が抜け落ちていた箇所だった。
「ゆきさん!」
恵太は迷わず列を離れた。
「待て、下りるな! 恵太!」
背後で教師の制止する声が響いた時には、恵太はすでに急斜面へ足を踏み入れていた。
靴底が泥を噛まず、一気に滑った。恵太は腰を低く落としたが止まれず、湿った土と大量の落ち葉を巻き込みながら斜面を滑り下りた。鋭い低木が頬を打ち、袖に引っかかった棘が腕の皮膚を切り裂く。
数メートル下で、太い木の幹に足を引っかけてようやく止まった。
ゆきはそのすぐ下にいた。片足を歪な方向に投げ出し、太い木の根にしがみついている。
「大丈夫か!? 頭、打ってないか!?」
「分かんない……っ、足が、痛くて……」
恵太が這い寄ると、ゆきは涙に濡れた顔を上げた。
懐中電灯を握りしめた手が激しく震え、二人の間で光がめまぐるしく揺れた。
「立てそうか?」
ゆきは足を動かそうとして、うめき声を上げて息を詰めた。
「足首……ひねったみたい……」
恵太は迷わず彼女の腕を引き寄せ、自分の肩へ回させた。
「俺につかまって。上がるぞ」
「恵太くん、上……!」
ゆきが指し示した上を見上げると、道の縁にいくつもの光が集まっていた。
「二人とも動くな! 今ロープを持っていく、そこで待ってろ!」
上から教師の怒鳴り声が降ってくる。
だが、ゆきの足元の土砂が、サラサラと音を立てて崩れ始めていた。
「……待てない。手遅れになる」
恵太はゆきの身体を力任せに支え直した。道までは、あと少し手を伸ばせば届きそうだった。
「少しだけがまんしろ。上に戻るぞ」
ゆきの身体を必死に支えながら、ぬかるむ斜面を登った。
一歩踏み出すたびに濡れた土がごっそりと削れ落ちる。恵太は剥き出しの木の根にしがみつき、ゆきが身体を引き上げるのを下から全身で押した。
道の縁まであと数十センチのところで、上から教師が必死に身を乗り出し、手を伸ばした。
「手を出せ! つかめ!」
ゆきが片手を伸ばす。
恵太は背中を幹に強く押しつけ、彼女の腰を下から全力で押し上げた。
「もう少し……上がれ!」
「でも、足が――」
「いいから行けっ!」
ゆきの手首を、教師の力強い手がガチリとつかんだ。
同時に別の教師の手が彼女の上着を掴み、力任せに引っ張り上げる。
ゆきの身体が、恵太の腕から離れた。無事に上へ引き上げられたのだ。
「よし、次は恵太――」
教師の手が、再び下へ向かって伸びかけた、その瞬間だった。
恵太の足元の土台が、ごっそりと根こそぎ崩れ去った。
身体が宙に浮く。恵太は反射的に幹へ手を回そうとした。
指先が湿った樹皮を空しくかすめる。
メリメリと、巨大な土砂が裂ける音が夜の山に響いた。
「恵太ーーっ!?」
上空で、教師たちの悲鳴のような絶叫とゆきの悲鳴が重なった。
視界から、道の光が遠ざかっていく。
背中から岩場へ激突し、肺の中の空気が吐き出されて息が止まる。身体が横跳びに回転し、肩と肋骨に激しい衝撃が走った。
すがる思いで伸ばした腕は空を切り、折れた枝と泥ばかりが爪の間に入り込んだ。
懐中電灯の光は完全に消え去り、視界は漆黒に染まった。
強烈な痛みのなかで、意識が急速に遠のいていく。
それでも、恵太の頭に最後に浮かんだのは、自分の身の危険ではなく、木の根元で泣いていたゆきの姿だった。
あの足首――明日には、歩けないほど腫れ上がるはずだ。
(……手当、ちゃんとしてもらえよ……)
声にはならなかった。吐き捨てた言葉は、冷たい風に消えた。
次の瞬間、足場そのものが完全に消失した。
身体が、底のない暗闇へと投げ出される。
その下に口を開けていたのは、人間たちの常識が届かない深淵。
――伏魔殿。
彼を呼ぶ狂おしい叫びも、山道の捜索の灯りも、その闇の底までは二度と届かなかった。




