壁のない部屋と一枚の似顔絵
第1話:壁のない部屋と一枚の似顔絵
松江恵太の部屋には、飾られた感謝状が一枚もなかった。
警察署長名義の表彰状。地域の民生委員からの感謝状。市章が金箔押しされた立立派な台紙。それらは床の隅に置かれ、あるいは分厚い百科事典の隙間に挟まれたまま、埃を被っている。
粗末にするつもりはない。ただ恵太は、受け取った後の扱いに無頓着なだけだった。
十四歳になった秋も、部屋の様子は変わらない。
だが、文机の上の壁にだけは、一枚の似顔絵が画鋲で留められていた。
子どもがクレヨンで描いた、恵太と少女の絵だ。二人は手をつないで笑っている。裏には、拙いひらがなで『けいたおにいちゃんありがとう』と書かれていた。
二年前の秋。城下町の路地で、その少女は一人で泣いていた。
恵太が交番まで連れていくと言って手を差し出すと、少女はようやくその小さな指を絡めてきた。
すぐに届けるつもりだった。
ところが、交番の赤い灯が見えるところまで来ると、少女はぴたりと足を止めた。
「まだ、あるきたい」
つないだ手にぐっと力がこもる。恵太が入口を指すと、少女は拒絶するようにまた泣き出した。
警察へ連れて行かなければならない。親が探しているはずだ。正論は頭の中にあった。けれど、いまこの手を振り払えば、少女は一人で暗闇に取り残される。
もう少し落ち着いてからでいい――そう自分に言い訳をして、恵太は道を戻った。
松江城の堀沿いを歩き、少女がぽつりぽつりと話し始めれば立ち止まって耳を傾けた。日が落ち、風が冷たくなっても、歩調を早めることはしなかった。
交番に着いたのは、少女を見つけてから二時間ほどが過ぎた頃だった。
連絡を受けた母親は、狂ったような様相で駆け込んでくるなり、娘を激しく抱きしめた。
「どこにいたの。ずっと、どこに……!」
何度も髪を撫で、顔を確かめる。その手は激しく震えていた。
やがて母親は、血の引いた顔で恵太を睨みつけた。
「どうして……どうして、すぐに連れてきてくれなかったの!」
詰問に恵太が答えを躊躇したとき、視線を感じて少女を見た。
母親の腕の中から、小さな手がまっすぐこちらへ伸びていた。
「おにいちゃん、ありがとう」
恵太がその手にそっと触れると、少女は溢れた涙のまま、満面の笑みを浮かべた。
激しく胸を撫でおろしたのは、その時だった。
警察官からは、迷子を見つけたら何よりも先に知らせるよう厳しく諭された。母親がどれほど生きた心地がしなかったかも説明された。
恵太は黙って首を垂れた。
それでも、交番の前で泣き出した少女の手を解くことが、本当に正しかったのかは分からなかった。
後日、家にあの似顔絵が届いた。
恵太はそれを机の前に留めた。母親に叩きつけられた怒声は、その後も時折思い出したが、紙を裏返すたびに、あの少女の笑顔のほうが色鮮やかによみがえった。
松江恵太は、雲州松勝家の血を引いている。
かつて奥出雲でたたらの炉を焚き、鉄師として絶大な財を築いた一族だった。山を切り崩し、水で土砂を流して砂鉄を採る鉄穴流し。その事業がもたらした巨富とともに、松勝の名は家と土地に深く根を張ってきた。
生まれた時から、暮らしに不自由はなかった。
ただ、武家屋敷の面影を残す本邸で、父は幼い恵太にも、家の将来を担う者としての冷徹な判断を求めた。
「全員を救えん時もある。そこで何を切り捨てるか決める者が、責任を負うんだ」
父は厳格な声で言った。
「お前が一人に手を貸せば、その間に別の誰かを待たせる。助けた相手のことだけ考えていて、済むとは限らん」
言われている理論は分かった。
だが、目の前で誰かが泣き始めると、父の教えは途端に遠くなった。
今、ここで自分が手を離してしまえば、その相手は一人になる。
恵太には、そちらのほうが耐え難い恐怖だった。
その日の放課後も、恵太は教室に残っていた。
十四歳、中学二年生。
雑談の輪から少し離れた窓際の席で、日誌の最後の欄を埋めている。
教室のガラガラという引き戸の音が響いた。
「恵太、まだいたのか。今日の当番、お前じゃねえだろ」
腐れ縁の同級生だった。帰るところだったらしく、片手に鞄を提げている。
恵太はペンを止めた。
「当番のやつ、塾のテストがあるって焦ってたから」
「それで引き受けたのかよ」
「あと少しだし」
「お前が毎回やってたら、当番決める意味ねえだろ」
恵太は、日誌に目を戻した。
「毎回じゃない」
「そういう話じゃなくてさ。断れないって思われたら、次も頼まれるぞ」
「頼まれたわけじゃない。俺がやるって言ったんだ」
同級生は何か言いかけ、口を閉じた。
廊下から、部活動へ向かう生徒たちの威勢のいい声が聞こえた。
「……お前は、それでいいのか」
恵太は最後の一行を書き終え、ペンに蓋をした。
「これで、あいつはテストに間に合うから」
「お前の話をしてるんだけどな」
同級生は大きくため息をついたが、先に帰ろうとはしなかった。
恵太が鞄を肩にかけるまで、戸口でじっと待っていた。
二人で職員室へ日誌を届け、校門を出た。
途中の分かれ道で同級生と別れると、恵太は堀沿いの道へ入った。
水面に夕空が揺れている。宍道湖のある方角には、まだ鮮やかな赤みが残っていた。風が吹くと、制服の袖口から冷気が忍び込んだ。
恵太は歩きながら、教室での同級生とのやり取りを思い返した。
当番を代わったのは、自分で決めたことだ。困っていた相手は間に合い、自分も日誌を書き終えた。誰一人、損はしていないはずだ。
何がいけなかったのか。
考えても、はっきりとは分からなかった。
堀の向こうで、家々の明かりが一つ、また一つと灯り始めていた。
目の前で困っている人間を、そのままにして立ち去らない。
恵太は、これからもそうするつもりだった。
――その手が届かなかった場所で、誰が取り残されるのか。
まだ、彼は知らない。
やがて百八の運命を巻き込む惨劇は、誰かを救おうとする、その純粋な選択から始まる。




