赤土坂の陽炎と、奪われた誇り
第14話:赤土坂の陽炎と、奪われた誇り
生辰綱奪取の作戦会議から九日目の夕刻、葦ヶ原の砦に意外な来訪者が現れた。
門の見張りからの急報を受けて大広間へ駆け込んだ恵太は、そこに立つ人物の姿を目にして思わず足を止めた。
「長谷川……先輩!?」
「恵太っ!」
大柄で締まった体躯の少年が、弾かれたように立ち上がった。
一学年上で、中学校の野球部で主将を務めていた長谷川蓋人だった。
長谷川は恵太の無事を確認し、さらに傍らに立つ智也と葵の顔を見止めると、安堵の溜め息を大きく吐き出した。
「生きてたか……! 無事だとは信じていたが、本当に良かった……」
「長谷川先輩まで、どうしてこんな場所に……?」
「その話は後でゆっくりしよう。俺も、お前たちがこの砦にいるとは夢にも思わなかった」
長谷川は振り返り、広間の入口に佇む二人組の同行者へ目を向けた。
見知らぬ泥と汗に汚れた脚絆を巻き、重い背負い籠を背にした大人たちだった。
「道中で知り合った行商人たちだ。高田の兵の非道な徴発から逃げてきた者を、一緒に保護して歩いていたんだ」
智也が速やかに席を勧め、使い込まれた細密な地図を卓の上に広げた。
長谷川はその地図の一点を鋭く見つめ、顔を上げた。
「……お前たち、生辰綱を狙っているのか」
「何かご存知なんですか、先輩」
「明日、生辰綱の護送隊が黄泥岡へ上る赤土坂を通過する。同行してくれた商人が、州都へ向けた大規模な荷運び人足の手配を直接目撃しているんだ」
智也が静かに首肯した。
「僕たちの掴んでいた情報とも完全に合致した。決行は明日だ」
窓の外では、夕闇のなか屋根の補修に使う重い木材が黙々と運ばれていた。
雨が上がってから、数日が過ぎていた。
*
翌日、赤土坂の上には、視界が歪むほどの苛烈な日差しが容赦なく照りつけていた。
赤土の道路は極限まで乾ききり、一歩踏みしめるたびに細かな赤い砂埃が立ち上る。周囲の松の枝葉はぴたりと動かず、風の一吹きすら存在しない蒸し風呂のような熱気だった。
坂の下から、重い足取りで上ってくる護送の列が見えた。
極上の財宝や金銀を詰めた重厚な木箱を、二人かがりで担ぎ上げる大勢の人足たち。その前後を、殺気立った州兵たちが刀を手に固めている。
崖上の密林の茂みから様子を伺っていた恵太の肩へ、智也がそっと触れた。
「……護送責任者が見えたぞ」
恵太も身を乗り出し、目を凝らした。
列の先頭を歩く少年の、右頬の痛々しい青あざ。
恵太の息が止まった。
「……青柳……!」
智也は答えなかった。
坂の途中で、青柳が歩みを止め、列全体を制した。暑さで倒れかけた荷運びの男へ何か温かい声をかけ、自分の竹水筒を渡している。
だが、列の後方から走ってきた州兵の班長が近づき、険しい顔で先を指し示した。
二人の押し問答の声が、激しく大きくなっていく。
この距離からは具体的な言葉までは聞き取れなかったが、護送の遅れを気にする兵と、人足の体力を気遣う青柳との間で不和が生じているのは明白だった。
「……あいつらが今、下へ引き返せば、今日の奪取の機会は完全に潰れる」
智也が冷徹に呟いた。
「だが……相手が青柳だと分かった。作戦を中止し、決め直すことも可能だ。どうする、松江」
恵太は坂道の護送列をじっと見つめた。
梁山泊で待つ、衰弱した林田と美羽。今にも空になりかけている砦の穀物袋。次に高田の大軍が押し寄せた時、守り切れるか分からないあの木門。
そして――その苛酷な現実の間に、まっすぐに仕事を果たそうとする青柳の青あざのある横顔があった。
「……作戦は、続ける」
恵太は絞り出すように言った。
「生辰綱を取った後も……俺たちは誰一人として殺さないし、見捨てない」
智也が静かに頷いた。
*
「……次の木陰まで行くぞ。そこまでがんばってくれ」
青柳は、汗だくの荷運びの男へ言った。
男は感謝しつつ水筒を返した。
「そこまで行けば……本当に日陰で休めるんですね……?」
「ああ。私が保証する」
青柳は答えた。
だが、列の後ろから追いついてきた州兵は、あからさまに不満を露わにした。
「青柳殿! ここで度々休憩を挟めば、刻限に遅れます! 梁田様からは『一日でも遅れたら処罰する』と固く命じられているのですぞ!」
「猛暑で倒れた者を担いで山道を歩くほうが、遥かに遅くなる」
青柳が静かに遮った。
兵は忌々しそうに口をつぐんだが、納得した顔ではなかった。
前方の大きな松の木の木陰に、数人の旅人の人影があった。
酒や水を詰めた大きな木樽を下ろし、木陰で涼をとっているようだった。
「やあ、重そうな荷だな! 暑い中、ご苦労なことだ」
笠を被った男の一人が、親しげに声をかけてきた。
青柳は即座に列の前へ踊り出た。
「……我らは総督府の護送隊だ。そのまま通り過ぎる。こちらへ近づくな」
笠の男たちは顔を見合わせ、ただの道連れを装って肩をすくめると、樽の前へ腰を下ろした。
その時だった。酷い喉の乾きに耐えかねていた後方の州兵たちが、青柳の制止を無視して列を勝手に離れ、木陰の樽へと押し寄せたのだ。
「おい、その酒……いや水でもいい、売ってくれ! 喉が引き裂けそうだ!」
「あ、これかい? 冷たい清酒と清水があるが……」
「飲むな! 列に戻れ!」
青柳の制止の声と、休ませろという兵たちの怒声が荒く重なった。
灼熱の陽炎のなか、指示が完全に列の端まで届かなくなった。兵たちと人足が、我先にと樽の水や酒を汲み、喉へ流し込んでいく。
変調が起きたのは、彼らが喉を潤してわずか数十秒後だった。
ガラガラと音を立てて、荷運びの一人が膝から崩れ落ちた。
「おい……どうした……?」
呼びかけた州兵自身も、舌がもつれ、視界がぐるりと回った。
青柳はハッと樽を見やった。
「くっ……離れろ……! 毒だ……っ!」
青柳は叫び、腰の刀の柄へ手を伸ばした。
だが――その指先に、全く力が入らなかった。
全身の関節から一気に感覚が吹き飛び、立っていることすらできなくなる。目の前の赤土の景色が、ぐにゃりと大きく横へ傾いた。
(……痺れ薬……仕組まれたのか……!)
そう悟った時には、青柳自身の両膝がズシンと地面へ落ちていた。
「荷を……荷を守れ……っ!」
州兵の一人が必死に立とうとしたが、そのままうつ伏せに泥へ倒れ込んだ。
笠を被っていた男たちが、静かに立ち上がった。
だが、彼らが抜いた刃は一枚も存在しなかった。
彼らは手際よく、意識を失って倒れた人足や兵たちを直射日光の当たらない深い木陰へと運び出し、放置された木箱の頑丈な縄を解き始めた。
青柳は、脂汗の浮かぶ額を赤土の地面へ擦り付けた。
指先一つ満足に動かない身体を引きずり、這ってでも生辰綱の箱の前へ出ようとした。
「……あ……青柳……」
頭上から、聞き覚えのある掠れた声が降ってきた。
青柳は必死で顔を上げた。
笠を脱ぎ捨てた恵太が、複雑な眼光で自分を見下ろして立っていた。
その背後を、智也が指示を出しながら静かに通り過ぎていく。
青柳の霞む目が、二人を死に物狂いで追った。
「……お前……たち、か……」
恵太は静かに首肯した。
「……この生辰綱は、高田には渡さない」
青柳は、嘲笑うように唇の端を歪めようとした。
だが、痺れた筋肉はうまく動いてくれなかった。
「……正しいことを……しているつもりか……? 略奪者どもが……」
恵太は答えられなかった。唇を固く噛み締めるだけだった。
長谷川先輩が重い木箱を力強く持ち上げた。
「恵太! こっちは運び出し終わるぞ――」
言いかけて、長谷川は恵太と青柳の壮絶な空気を感じ取り、言葉を切った。
長谷川は箱を仲間の手へ渡すと、すぐ近くで倒れている荷運び人足の傍らへ素早く屈み込んだ。
「葵、この人たちをもっと風通しのいい奥の日陰へ運ぶぞ!」
「うん!」
葵が超人的な身体能力で人足たちを二重三重の日陰へ手際よく抱えて運び、篠田は三節棍を手に坂の下の追手を警戒し、大野は意識の戻りかけた兵の呼吸を入念に確かめていた。
極上の財宝を詰めた生辰綱の箱が、次々と手際よく山道へと運び出されていく。
作戦は、何の一傷も出さずに完全なる成功を収めていた。
ただ……護送責任者である青柳だけが、それを止めることができずに赤土の上で泥に塗れていた。
「……今度は……今度こそ……確かめたんだ……」
青柳が、血の味のする唾を吐き出しながら絞り出せる限りの声で呟いた。
恵太はたまらず、その横に膝をついた。
「……梁田との……約束も……文書も……自分で隅々まで読んだ……。荷も……人も……一人も失わずに……州都へ届けるつもりだったんだ……っ!」
恵太は一度地面へ目を落とした。
けれど、逃げることなく青柳の瞳を正面から見つめ直した。
「……もし、お前が護送責任者だと知っていたら……別の方法を……」
「知っていても……お前たちは……取っただろう……」
青柳の問詰めの言葉に、恵太の呼吸が止まった。
二人の間に、灼熱の陽炎だけが揺れる長い沈黙が流れた。
「……ああ」
恵太は、静かに、けれど逃げずに答えた。
「……知っていても、俺たちは奪った」
青柳の切れ上がった目が、細く哀しげに閉じられた。
怒りや憎しみよりも先に、彼の中で生きるための何か強い情熱が、スッと引いて消えていくのが見えた。
恵太はおそるおそる手を伸ばした。
「ここは陽が当たりすぎて危険だ。奥の木陰へ――」
「……触るな」
それは、消え入るような小さな声だった。
それでも、絶対に越えられない壁のような拒絶が込められていた。
恵太の手は、空間で固まった。
しばらくして、大野が静かに恵太の隣へと歩み寄ってきた。
恵太は無言で場所を空けた。
青柳は大野の太い腕に静かに支えられ、深い松の木の陰へと運ばれていった。
青柳は最後まで、恵太の方を二度と振り返ろうとはしなかった。
*
生辰綱のすべての搬出作業が終わっても、恵太たちはすぐにはその場を去らなかった。
痺れ薬から意識を取り戻しつつある荷運び人足たちの状態を一人ずつ確認し、十分な量の清水と干し肉を彼らの傍らに置いた。
智也が、松の木を見上げる恵太の隣に立った。
「……生辰綱は完璧に確保した。砦の食糧と資材はこれで数年は保つ」
「……うん」
「砦へ戻ったら、僕たちが今日何をしたのか……隠さずに住民全員へ話す」
恵太は力強く頷いた。
深い松の木陰で、青柳志郎は力なく顔を伏せていた。
一度だけ……彼の震える手が、空っぽになった木箱の残骸へ向かって空しく伸びた。
だが、そこには守るべき荷など何も存在しないと悟ると、その手は力なく赤土の上へと落ちていった。
恵太は、青柳のその悲痛な背中の動きを、胸を抉られるような思いで最後まで見つめ続けていた。




