生辰綱の影と、反逆の軍師
第13話:生辰綱の影と、反逆の軍師
青柳志郎が葦ヶ原の砦を去ってから、数週間が過ぎていた。
彼が山陰州の州都へと足を進めたのは、かつて目指していた軍籍への復帰を正式に願い出るためだった。
だが、総督府の重厚な門が視界に入る手前、賑やかな路地の口で彼の足は固まった。
路地の陰で、二人組の州兵が幼い子供の細い腕を強引に掴み上げていた。もう一人の兵が、怯える子供の胸元から小汚い布包みを力任せに引き抜いている。
弾け飛んだ包みから、固く乾いた小さな餅が数個、泥のついた石畳へ転がり落ちた。
「返してください……お母ちゃんの、薬を買うお金なんだ……っ」
子供が涙を流して屈み込もうとした。
非道な州兵の重い靴底が、躊躇なくその小さな手を踏みつけた。
「……やめろ」
青柳は低く澄んだ声をかけた。
兵士たちが鬱陶しそうに振り返った。
「あぁ? 何だお前は。旅の浪人が州兵の執務に口を挟む気か」
「……その子供から手を放せ」
一人の兵士が不快そうに腰の刀の柄へ手をかけた。
青柳は咄嗟に子供を背後へ庇い、自身は刀を鞘から抜かぬまま、柄頭で兵士の抜かれかけた刃を上から鋭く押さえつけた。
「なっ……何だと!?」
もう一人の兵士が横から青柳の腕を腕力で掴みかかってきた。
振りほどこうとした瞬間、青柳の胸の奥で『天暗星』の不吉な熱が激しく跳ね上がった。
――ガツンっ!!
怒りに任せて振り払った鞘の先が、兵士の胸元を直撃した。
青柳自身は加減したつもりだった。だが、天暗星の凶力が乗った一撃は、分厚い胸当ての上から兵士の肋骨を数本粉砕した。
ズシン、と重い音を立てて兵士が白目を剥いて卒倒し、地面へ倒れ伏した。
青柳は蒼白になり、すぐに膝をついて倒れた男の脈を探った。
「おい……目を開けろ……っ!」
返事はなかった。息はあったが、自力では起き上がれない重症だった。
背後で、助けられた子供がその過絶な威力に息を呑み、怯えて逃げ出していった。
青柳は震える己の手を見つめた。
自分に宿った「力」が変質していることは知っていた。知っていてなお、咄嗟の瞬間に制御しきれなかったのだ。
*
その後の裁きにおいて、青柳の「子供を助けるためだった」という弁明が認められることはなかった。
助けた子供の姿は州都の街から疾風のように消え去り、現場に残されたもう一人の兵士は「突然、凶暴な浪人に理由もなく襲撃された」と虚偽の証言を重ねたからだ。
青柳は罪人として、沿岸の過酷な塩田が広がる遠山浦の採掘場へと送られた。
重い労役の日々が続くなか、彼を特別に呼び出したのが、地方官としてその地を治める梁田であった。
梁田は青柳の元・剣道部としての素朴な筋の良さと、過去の軍歴、そして今回の事件の歪な記録を密かに調べ上げていた。
執務室で木剣を使った立ち合いを試された後、青柳は役所の一室へと通された。
「極秘の護送の仕事がある」
梁田が机上の羊皮紙の文書を示した。
「山陰州総督・高田閣下の生誕を祝うための献上品――『生辰綱』だ。民から集めた金銀財宝や極上の美術品を、州都まで無事に届けてもらいたい」
青柳は示された文書に目を走らせた。
護送責任者の欄に、明確に『青柳志郎』の文字が刻まれていた。
「この任務を無事に成功させれば、私が総督閣下に直接取りなし、お前の軍籍への復帰を約束しよう」
「……復帰の条件と、任務完了後の処遇についても、この文書に明確に記載していただきたい」
梁田の細い眉がぴくりと動いた。
青柳はまっすぐに梁田の眼光を見据え、一歩も引かなかった。
「口約束だけでは……お受けできません」
口の端を歪めた梁田は、しばらくして書記を呼び、詳細な契約文書を作成させた。
青柳は差し出された文面を、一字一首すみずみまで熟読した。
前金の支給額。護送中の指揮権。任務完了後の正式な任用手続き。
青柳は今度こそ、自らの目で真実を確かめた。
それでも……彼に提示された選択肢が、最初からこれ一つしかなかったことに変わりはなかった。
「……お引き受けいたします」
梁田は満足そうに首肯した。
「荷を一つでも失うことは許されん。生辰綱は、命に代えても州都へ届けろ」
*
同じ頃、葦ヶ原の砦では、激しい雨で傷んだ屋根や木柵の不眠不休の修繕作業が続いていた。
恵太たちは、まだ砦の住民全員から心から歓迎されているわけではなかった。
物部大角の死を直接咎める者は少なかったが、前首領を刺殺した林田が近くを通ると、住民たちがすっと会話をやめて視線を落とす空気は残っていた。
林田は何も言い返さず、唇を噛み締めながら運び込まれた重い木材を無言で肩に担ぎ続けた。
その日の夕方、智也が一行を大広間へと集めた。
使い古された卓の上に、一枚の山陰州の細密な地図が広げられた。
「高田総督への極秘の献上品……巨大な輸送計画がある」
智也の冷徹な声が響いた。
「この地ではそれを『生辰綱』と呼ぶらしい。高田の誕生日に合わせて、各地の地方官が搾取した金銀財宝や糧食を一度に送るものだ」
智也の指先が、地図上の一点を鋭く指し示した。
「十日後、この切り立った崖と難所が続く『黄泥岡』を護送隊が通過する予定だ」
「その情報は確実なのか?」
大野が腕を組んで尋ねた。
「砦へ塩を運んでくる闇商人から情報を買った。別のルートからも、宿場で腕利きの荷運び人足が大勢集められている裏を取り終えている。ただ……正確な警護の人数と、護送責任者の正体までは掴めていない」
篠田が身を乗り出し、野性味のある目を光らせた。
「……で、その生辰綱とやらを、俺たちで強奪するって話だな?」
「そうだ」
智也は迷いなく頷いた。
「今の葦ヶ原砦は、食糧も医薬品も資材も圧倒的に不足している。高田への献上品を丸ごと押さえれば、当面の物資と資金を完璧に確保できる」
「だが、それだけで高田の支配が倒れるわけではないぞ」
大野が静かに釘を刺した。
「分かっている。だが、地方官が高田へ送るはずの巨額の富を奪われ、面目を潰されるというダメージは大きい」
恵太が地図を見つめながら呟いた。
「……その生辰綱を運んでいるのは、一体誰なんだ?」
「護衛の州兵と、金で雇われた一般の荷運び人足たちだ」
「……その人たちを、俺たちが襲うのか?」
「荷を強奪する以上、無傷というわけにはいかない」
智也の無機質な回答に、林田が咄嗟に顔を上げた。
「これは、無辜の旅人の路銀を奪う山賊行為とは違う! 相手は総督府の不正な金だ!」
「だが、現地で運んでいる人間にとっては、突如襲撃されることに変わりはない」
恵太の静かな一言に、林田の声が大きくなった。
「高田の手にあの金が渡れば、また俺たちを潰す兵力になるんだぞ! 美羽だって……ほかのみんなだって、その間に何をされるか分からないんだ!」
「宗一郎」
花田が重々しい声で制した。
林田は言葉を飲み込み、息を詰めた。
花田は卓の木目をじっと見つめたまま言った。
「……生辰綱を取る話なら聞く。だが……また人を殺して解決するような話には絶対にするな」
「……俺は……そんなつもりじゃ……」
「俺には、そう聞こえた」
広間がしんと静まり返った。
林田は悔しそうに顔を背けた。
「……分かったよ……」
葵が地図の端を指で押さえながら尋ねた。
「智也。奪ったお金は、全部武器や防具に使うつもり?」
智也が彼女を見た。
「必要な軍備には使う」
「この砦でご飯を減らして苦しんでるのは、私たちだけじゃないわ。子供たちもいるのよ」
篠田が力強く頷いた。
「そうだぜ。高え武器だけ買っても、飯が食えなきゃ守る前に餓死しちまうからな」
智也は眼鏡を押し上げ、少し思案した。
「食糧の確保と屋根の修繕を最優先にする。奪える金額の全貌が見えない以上、配分までは今決められないが……使った金の記録は残す」
「元々、領民から搾り取った金なら……困っている人たちに返せないか?」
恵太が尋ねた。
「誰からいくら奪った金なのかの特定は不可能だ。返す方法も模索したいが、今すぐ全額を民へ還元できるとは保証できない」
智也は恵太の目をまっすぐ見つめた。
「だから……僕らは『正義の味方ごっこ』をしているわけじゃない。僕らが生き残るために使う金を、僕らの判断で他者から強奪する。その悪名と責任は、永久に残る」
恵太は黙り込んだ。
林田の激情よりも、智也のその冷徹な真実の重みが胸に刺さった。
大野が地図を見やった。
「奪えば、総督府の大捜索が始まる。ここへ追手が及ぶリスクもある。砦の住民たちにも事前に説明を通さねばならん」
「砦の人たちに『勝手に決めた』と言われるのは、もう二度と避けたい」
恵太が力強く言った。大野も頷いた。
智也は地図から静かに手を離した。
「この作戦に賛成できないなら、今この場で言ってくれ」
恵太は仲間たちの顔を順番に見渡した。
「……俺は、護衛の兵も荷運びの人も、できる限り傷つけたくない。上からの命令で運んでいるだけの人たちを、高田と同類扱いには絶対にできない」
「敵を傷つけずに巨額の荷を奪うなど、生半可な難しさではないぞ」
大野が厳しく言った。
「分かってる。だから……智也、誰も殺さずに奪う方法を考えてほしい」
智也は静かに首肯した。
「了解した。まずは現地・黄泥岡の下見だ。計画に破綻があれば、実行は中止する」
「……生辰綱、奪うんだな」
林田が最終確認するように尋ねた。
恵太は静かに地図を見つめ直し、答えた。
「奪う。高田には絶対に渡さない」
そして、力強く付け加えた。
「その後に何が起きても……奪った責任は、俺たち全員で背負う」
*
遠山浦の港で、青柳志郎は護送する荷の箱を一つずつ入念に検分していた。
強固に封印された木箱。頑丈な運搬用の担い棒。道中の長旅に耐えうる大量の水と食糧。
荷運びに雇われた貧しい男の一人が、痛む手で上手く結べない縄の結び方を尋ねてきた。
青柳はその隣に腰を落とし、丁寧に縄を結び直してやった。
「これが緩むと荷が落ちる。途中で落とせば、お前自身の足を傷つけることになるぞ。気をつけてくれ」
男は驚いたように、真面目な青柳の顔を見つめた。
青柳は立ち上がり、延々と続く護送の列を静かに見渡した。
今度こそ、与えられた務めを完璧に果たす。
人間も、預かった荷も、誰一人失うことなく州都へ届ける。
運命の地――黄泥岡を通過するのは、十日後だった。




