第九章 窒素置換
亀裂、五箇所。すべて内向きに百分の一。吸い込みあり。間隔、およそ六拍。
灰原は野帳にそう書いて、閉じた。
誰にも言わなかった。
言えば、どうなる。総監の封工が、ただの割れ目ではなく、何かの口を塞いでいるかもしれない。そう口にすれば、蛭間と真正面からぶつかる。教会とも、ぶつかる。営繕の仕事は取り上げられ、ネリたちの給金も消える。
確かめてからでいい。
そう自分に言い聞かせて、灰原は野帳を胸ポケットの奥へ押し込んだ。
◇
その頃、風溜まりでは年寄りが倒れ始めていた。
熱だった。白熱病ではない。ただの暑さだ。天蓋の下は、年々暑くなっている。谷底の風溜まりには、上の街で行き場をなくした熱が溜まって沈んでくる。
「去年は三人。今年はもう五人じゃ」
ガランが言った。
「年寄りは、暑さに気づかん。気づいたときには、もう立てん」
灰原は、自分の最後の夜を思い出した。
汗が止まった瞬間のことを。
「冷やす部屋を造る」
灰原は言った。
「一部屋でいい。倒れた者を運び込んで、体を冷やせる部屋だ」
仕組みは療院の息吹炉と同じだ。聖泉塔の冷たい水を細い銅管に通し、そこへ風を当てる。冷えた風を部屋に送る。今度は、還気の口も最初から造る。封じられる前に、使い切ってしまえばいい。
問題は、銅管だった。
風溜まりには、古い銅管の切れ端がいくらでも転がっていた。風脈の修繕で出た屑だ。だが短い。何十本もつながなければ、部屋を冷やせるだけの長さにならない。
つなぐには、ろう付けがいる。
銅管と銅管を差し込み、継ぎ目を炎で熱して、銅よりも低い温度で溶ける金属を流し込む。溶けた金属は、毛細管の力で隙間に吸い込まれ、冷えると管同士をしっかり結ぶ。はんだ付けの、もっと強いものだと思えばいい。
そして、ろう付けには一つ大事な手順がある。
◇
「焼くと、管の中が黒くなる」
灰原は、焚き火で炙った銅管を半分に切って見せた。
外側は赤銅色に光っている。だが内側は、黒い煤のような膜にびっしり覆われていた。
「銅は熱いと、空気と結びついて黒い皮を作る。この皮が、あとで剥がれる。剥がれた欠片が、管の中を流れていく。細いところで詰まる。炉が止まる」
「じゃあ、どうするの」
ネリが、黒い断面を覗き込んだ。
「中の空気を、燃えない気体に入れ替えてから焼く」
地球では窒素を使う。窒素ボンベから細い管で、焼く銅管の中にゆっくり流し続ける。管の中から空気を追い出してしまえば、いくら焼いても黒い皮はできない。窒素置換と呼ぶ作業だ。手間がかかる。見えない内側のことだから、省く職人もいる。
そして、省いたことは、何年も後に炉が止まるまで誰にも分からない。
「燃えない気体なら、眠り沼にある」
ガランが言った。
風溜まりの奥の洞窟に、底から泡の湧く沼があるという。その泡を吸うと、獣も人もうとうとと眠くなる。松明を近づけると、炎がふっと消える。
「昔から、近づくなと言われとる場所じゃ」
灰原は、うなずいた。
炎が消えるなら、燃えない気体だ。
◇
眠り沼の泡は、豚の膀胱で作った袋に溜めた。
口に細い葦の管をつなぎ、袋を足で踏むと、気体がゆっくり押し出される。灰原はそれを、銅管の片方の口に差し込んだ。
「袋を踏む強さは、このくらいだ。強すぎると、継ぎ目から気体が吹き出して、ろうが流れない。弱すぎると、空気が戻る」
「このくらい?」
「もう少し弱く」
ネリが袋を踏む。葦の管から、ほとんど感じないくらいの風が、銅管の中を抜けていく。
炎は、風石で炭火を吹き上げる火吹き筒を使った。鍛冶屋が使う道具を、キトが借りてきた。青い炎が、銅管の継ぎ目を包む。
問題は、ろうだった。
銀を多く含んだろうが一番いい。だが風溜まりに、銀などない。
ネリが、腰の革袋を外した。
ベルタから初めてもらった給金の袋だった。
「これ、銀貨でしょ」
「……それは、お前の」
「何に使えばいいか分からないって言ったら、好きに使えって言われた」
ネリは革袋の口を開け、銀貨を一枚つまみ出した。
「あたしは、これに使いたい」
灰原は、何も言えなかった。
銀貨は炭火で溶かされ、細い棒に延ばされた。ネリはそれを指先に挟み、炎の中の継ぎ目に当てた。
銀が溶けた。
溶けた銀は、するりと継ぎ目の隙間に吸い込まれていった。まるで、そこが自分の居場所だと知っているように。
炎を離す。継ぎ目が、赤から黒へ、黒から銅色へと冷めていく。
灰原はその管を、継ぎ目の真横で鋸で切った。
断面を覗く。
内側は、赤銅色に光っていた。黒い皮は、一つもなかった。
「……きれい」
ネリが呟いた。
「中、きれいだよ。おっさん。誰も見ないとこなのに」
「誰も見ないとこだから、きれいにする」
灰原は言った。
言ってから、その言葉が自分の喉に引っかかった。誰も見ないところを、きれいにする。それは正しい。だが誰も見ないところで、誰にも言わずに何かを済ませることは正しいのか。
胸ポケットの野帳が、急に重くなった気がした。
◇
七日目、エルナが風溜まりに下りてきた。
昇降機ではなく、崖の細道を歩いて来たらしい。灰色の外套の裾が、泥で汚れていた。
エルナは灰原の前に立ち、一枚の紙を差し出した。封蝋教会の紋章が押してあった。
「今朝、教会から布告が出ました」
声が、硬かった。いつもの硬さとは違う。何かをこらえる硬さだった。
「無名の者に名を与えるは、造り手の秩序への冒涜である。記録院が作成した営繕の作業員名簿は、これを無効とする」
ネリの手が止まった。
「名簿にある影働きの名は、すべて抹消されます。私は……私はそれを、自分の手で消すよう命じられました」
エルナは帳面を開いた。
風溜まりのネリ。風溜まりのボルク。風溜まりのキト。
その三つの名の上に、一本ずつ、墨の線が引かれていた。
真っ直ぐな線だった。迷いのない線。エルナの字と同じ線だった。だからこそ、残酷だった。
「ごめんなさい」
エルナは頭を下げた。
「私の名で書いたのに。私の名で、消してしまった」
ネリは帳面を見ていた。
自分の名前の上に引かれた、黒い一本の線を。
長い時間、見ていた。
それから、黙って炎の前に戻った。火吹き筒を握り、次の継ぎ目に炎を当てた。銀の棒を、継ぎ目に添える。銀が溶けて、隙間に吸い込まれていく。
ネリの手は、震えていなかった。
灰原は、その背中に何か言おうとした。
何も、出てこなかった。
名前なんかなくてもいい。黙って直せばいい。そう言ったのは、自分だった。
◇
十日後、冷やし室ができた。
風溜まりの崖下の、古い石の倉を改装した部屋だ。天井に吹き出し口。床近くに、還気の口。部屋の奥で、小さな息吹炉が静かに回っている。
最初に運び込まれたのは、倉の隣に住む老婆だった。顔が赤く、目の焦点が合っていなかった。
冷えた風の下に寝かされて、半刻。
老婆は目を開けて、天井を見上げた。
「……涼しいねえ」
それだけ言って、また目を閉じた。今度は、ちゃんと眠っている顔だった。
ネリが、炉の脇にしゃがんでいた。自分がろう付けした継ぎ目を、一つずつ指で触っていた。漏れはない。どれも乾いている。
灰原はその横顔を見た。
何かを言うべきだと思った。だが、言うべき言葉を、二十五年分どこかへ置き忘れてきた気がした。
そのとき、倉の入口に影が差した。
白い長衣の男だった。蛭間ではない。胸に、蝋の紋章を縫いつけた若い男。総監の使いだ。
男は倉の中を見回し、炉を見て、冷えた空気に目を丸くした。それから咳払いをして、灰原に向き直った。
「影働きの営繕の者か。総監様がお呼びだ」
男は言った。
「お前の手を借りたい、と」




