第八章 勾配
「濡らした布を、吹き出し口の前に吊るせ」
翌朝、療院の病棟で灰原は言った。
看護の女たちが顔を見合わせた。ベルタが腕を組んで、灰原を見ている。昨日、黙って封泥を塗った男を、まだ許していない目だった。
「水は聖泉塔のを使う。上から少しずつ垂らして、布がいつも湿ってるようにする」
「それで、何になるの」
「風が布を通るとき、水が乾く。乾くときに、熱を持っていく」
夏の夕方、庭に水を撒くと涼しくなる。打ち水だ。汗が乾くと体が冷えるのも同じ理屈である。還気の口は封じられた。炉は吸えない。なら、吐き出される風の通り道で、少しでも熱を奪うしかない。
灰原は天井裏に上がり、吹き出し口の手前に木枠を組んだ。キトとボルクが、洗った布を何枚も枠に掛けていく。ネリが、聖泉塔から引いた細い水の管を、枠の上に通した。管には錐で小さな穴を並べて開けてある。水が、ぽたりぽたりと布に落ちる。
吹き出し口から降りる風の温度が、下がった。
劇的ではない。昨日の還気の口を開けたときの、半分にも届かない。
それでも、看護の女が額に手を当てて、小さくうなずいた。
「さっきより、いい」
灰原は梯子の上で、その声を聞いた。
息を吐いた。それから、封じられた還気の口のある方を見た。白い空白は、昨日と同じ場所にあった。
逃げ道を作っただけだ。根本は何も直っていない。
◇
その日の午後、ベルタが灰原たちを院長室に呼んだ。
机の上に、小さな革袋が四つ並んでいた。
「療院付きの営繕として、あなたたちを雇います。一日いくら、という形で」
ボルクとキトが、ぽかんと口を開けた。
「影働きは、上の仕事で金をもらえないんだよ」
ネリが言った。
「ええ。だから営繕の雇い人として、私の名で払うの。名簿は、記録院のエルナが作ってくれることになってる」
ベルタは革袋を一つ取り、ネリの手に載せた。
ネリは袋を握りしめた。中で、硬貨が小さく鳴った。
しばらく、何も言わなかった。
「……あたし、これ、何に使えばいいのか分からない」
「好きに使いなさい。それが給金っていうものよ」
ベルタが笑った。昨日から初めて見せた笑顔だった。
灰原は自分の革袋を手に取らなかった。ベルタはそれを見て、何も言わずに灰原の分を机の端に寄せた。
◇
療院の営繕になって最初の大仕事は、聖都の下段区だった。
聖都の南側、崖へ向かって段々に下る貧しい街だ。天蓋の内側では、ときどき細かな雫が降る。天蓋の結晶の裏についた水滴が、重くなって落ちてくるのだ。天の雫と呼ばれ、聖都の人々はこれを恵みとありがたがる。
ところが下段区では、この雫が降るたびに家が水に浸かった。
「去年、教会の石工が溝を造り直したの。大設計書のとおりに。それから、ひどくなった」
案内の女が、膝まで泥の跡がついた戸口を指さした。
灰原は、通りの脇の溝にしゃがんだ。水平器を、溝の底に置く。
気泡が、坂の上の方へ逃げた。
もう一度。場所を変えて。
同じだった。
「逆だ」
「逆?」
「水は低い方にしか流れない。この溝は、下る方が高くなってる。流れずに溜まって、溢れて、家に入る」
排水の溝や管には、一メートル進むごとに一センチ以上下がる坂をつける。百分の一の勾配。少しでも足りないと、水は途中で止まる。逆になれば、溜まる一方だ。
灰原は溝の底の石を一枚ずつ外し、下の土を削り、石を据え直していった。水平器を当て、気泡を見て、また削る。ボルクとキトが石を運ぶ。ネリが、灰原の真似をして水平器を覗き込む。
「ねえ、泡が真ん中から少しずれたとこで止まればいいの?」
「この目盛りのところだ」
「ふうん……あ、ずれた。もうちょい削る」
ネリの手つきは、日に日に良くなっていった。
三日目の夕方、天の雫が降った。
下段区の人々が、戸口に立って空を見上げていた。いつもなら、ここから水が溢れてくる。
雫は通りに落ち、溝に集まり、そのまま坂を下って崖の方へ流れていった。
一滴も、家に入らなかった。
「……流れてる」
誰かが呟いた。
それから、誰かが笑った。子どもが溝の脇を走って、流れていく水を追いかけた。年寄りが、溝の縁にしゃがみ込んで、流れを指でなぞった。
案内の女が、灰原の手を両手で握った。泥だらけの手だった。
「あんた、名前は」
灰原は首を振った。
「営繕の者です」
女は少し不満そうな顔をして、それでも手を離さなかった。
◇
評判は、灰原が思っていたより速く広がった。
療院の営繕が、下段区の水を止めた。影働きの男が、溝を直した。
数日後、聖都の上段に館を持つ子爵家の使いが療院に来た。暖炉の煙が逆流して、夜会の客が咳き込んで帰ってしまうという。半年前、総監の封工で館の隙間を全部塞いでもらってから、ずっとそうなのだと。
使いは、影働きの灰色の布を見て露骨に顔をしかめた。
「穴蔵の者に、館の床を踏ませるのは気が進まんが」
灰原は何も言わず、道具をまとめた。
館の暖炉は、風溜まりの家々を直したのと同じ理屈で直った。床の近くに給気の口を一つ開ける。それだけで、煙は真っ直ぐ煙突へ吸い込まれていった。
夜会の当日、子爵は客の前で胸を張り、自分の館の暖炉がいかに素晴らしいかを語ったという。直したのが誰かは、口にしなかったそうだ。
ただ、館の召使いたちが、厨房の裏口からこっそり療院に菓子を届けてきた。
「旦那様には内緒で」
ネリはその菓子を、ボルクとキトと三人で分けて食べた。灰原の分も、ちゃんと取ってあった。
◇
灰原は、営繕の朝に一つ決まりを作った。
作業を始める前に、全員で集まる。そして、今日の仕事で危ないところを、一人一つずつ言う。
「梯子の三段目、ぐらぐらしてる」
「下段区の溝の、角の石が割れかけてる」
「聖泉塔の水の管、継ぎ目から漏れてた。下が濡れて滑る」
言った危険を、全員で指さして確かめる。それから仕事にかかる。
地球ではこれをKYと呼ぶ。危険予知の頭文字だ。毎朝の朝礼で、何百回とやってきた。形だけになっている現場も多かった。だが、灰原は嫌いではなかった。言葉にすれば、見える。見えれば、避けられる。
ガランも、ときどきこの朝の輪に顔を出すようになった。
「わしも言うてええか」
「どうぞ」
「年寄りは、腰が危ない」
皆が笑った。ガランも笑った。笑いながら、灰原だけを見ていた。
「お前さん、自分の危ないところは言わんのじゃな」
灰原は、聞こえないふりをした。
◇
休みの日、灰原は一人で風脈の上の層へ登った。
天蓋の根元が、崖の頂と接する場所だ。巨大な結晶の板が石の梁に嵌め込まれ、その継ぎ目が、網の目になって空へ伸びている。
継ぎ目の何箇所かに、細い裂け目があった。
蛭間が言っていた、天蓋の亀裂だ。手のひら一枚ほどの幅で、継ぎ目に沿って細長く口を開けている。すでに白い封で塞がれたものもあった。まだ塞がれていないものもあった。
灰原は、塞がれていない亀裂の一つに近づいた。
癖だった。何かの口を見つけると、底に水平器を当てずにはいられない。
気泡が、片側へ寄った。
目盛りを読む。百分の一。内側へ向かって、下っている。
灰原は眉を寄せた。
隣の亀裂へ移る。当てる。
百分の一。
その隣。百分の一。
五つ目で、灰原は水平器を下ろした。
割れ目というものは、勝手な方向に走る。勝手な深さで口を開ける。同じ傾きで同じ方向へ律儀に下っていく割れ目など、灰原は見たことがなかった。
こんな律儀な傾きをつけるのは、人間だけだ。
水を流したい人間だけだ。
そのときだった。
風の見える目の端で、何かが動いた。
亀裂の口に、周りの空気が吸い寄せられていた。細い白い線が何本も何本も、口の奥へと流れ込んでいく。
すう、と吸って。
少し止まって。
また、すう、と吸う。
灰原は、亀裂の前に膝をついたまま動けなかった。
規則正しかった。
まるで、息をしているように。




