第七章 元請
「どこだ。封を破った馬鹿は」
声が先に来た。
灰原の背中が、勝手に強ばった。
この声を知っている。朝礼の拡声器越しに、何百回も聞いた声だ。工程表を丸めて机を叩くときの声。缶コーヒーを図面に置くときの声。
病棟の扉が開き、人の群れが割れた。
「総監様!」
「封の総監様、ありがとうございます。うちの通りの天井、もう落ちてきません」
「総監様の現場で、息子が働かせてもらってます」
療院の廊下にまで、人々が押し寄せていた。年寄りが手を合わせ、子どもが背伸びをして覗き込んでいる。誰もが、一人の男の名前を呼んでいた。
白い長衣の男が入ってきた。
髪は白く、背中は少し丸くなっていた。それでも、肩の張り方は変わらない。歩くときに顎を突き出す癖も。長衣の胸元には、溶けた蝋を象った金の紋章が光っていた。
男は病棟の天井を見上げ、吹き出し口から降りてくる風に眉をしかめた。それから、梯子の脇に立つ灰原に目を留めた。
時間が、一拍止まった。
「……設備屋」
蛭間剛志は、ゆっくりと言った。
「お前、まだ天井裏にいたのか」
灰原の喉が、ひとりでに動いた。
「……所長」
周りの者たちが顔を見合わせた。総監様が、影働きの男と言葉を交わしている。ベルタが目を細めた。エルナの筆が、帳面の上で止まった。
蛭間はすぐに顔を戻した。驚きを、どこかへしまい込むような速さだった。
「全員、外へ出ろ。この男と話がある」
◇
療院の裏の回廊は、日陰でも暑かった。
蛭間は柱にもたれ、長衣の襟をくつろげた。首の後ろを、癖のように指でこする。地球では、そこに安全帯の跡があった。いまは何もない。
「いつ来た」
「ひと月前です」
「そうか」
蛭間は短く言った。それ以上は聞かなかった。
「所長は」
「知らん。気がついたら聖堂の床に寝てた。坊主どもが周りで蝋燭を立てて、何か唱えてた。降臨の儀とか言ってな。それきりだ」
蛭間は、灰原の手首をちらりと見た。
「お前の手をつかみ損ねた。そこまでは覚えてる」
灰原は自分の手首を見下ろした。
あの夜、蛭間の指先がかすった場所だった。
「……向こうは、どうなったと思います」
灰原が聞くと、蛭間は少しだけ黙った。
「知るか。考えたって、工期は縮まらん」
蛭間は長衣の袖から、小さな布切れを出した。色の褪せた、薄桃色のリボンだった。指先でつまんで眺め、すぐにしまった。
「娘の式の招待状についてたやつだ。現場が押してて、出られなかった。作業着の胸ポケットに入れっぱなしだった」
灰原は何も言えなかった。
蛭間に娘がいたことすら、知らなかった。何年も同じ現場を回っていて、一度も聞いたことがなかった。
「坊主どもは、千年祭が終われば褒美をくれると言ってる。何でも一つ、願いを叶えるそうだ」
蛭間は天蓋を見上げた。
「だから俺は、工期を守る」
「こっちで何をしてるんですか」
「仕事だ」
蛭間は顎で、回廊の外を指した。
白い街の向こう、天蓋の網目が見える。その継ぎ目の何本かに、白い筋が走っていた。蝋を流したような、太い筋。
「天蓋の亀裂を塞いでる。千年もたってるからな。あっちこっちにひびが入ってる。放っておけば崩れる。外の灰も流れ込む。それを片っ端から塞ぐ。大封工だ」
蛭間の声に、誇りに似たものが混じった。
「俺が来てから、崩落は一度も起きてない。灰の流入もない。現場の死人も、ゼロだ」
「ゼロ」
「職人には日当を倍払ってる。教会の金だがな。無事故で工期を守れば、全員に祭の日の褒美も出る」
灰原は黙っていた。
嘘ではないのだろう、と思った。蛭間はそういう男だった。工期には鬼だが、下請けの日当を値切ったことは一度もない。事故を出した業者は、二度と使わない。
ただ、その全部を工期という一本の鞭で縛る。
◇
病棟に戻ると、蛭間は迷わず梯子を上がった。
六十を過ぎた体とは思えない、慣れた身のこなしだった。天井裏に頭を突っ込み、灰原が開けた還気の口を見つけると、舌打ちをした。
「設備屋。上がってこい」
灰原は梯子を上がった。
蛭間は、還気の口の前で手のひらを広げていた。
「見てろ」
手のひらが、白く光った。
光は溶けた蝋のように指の間からあふれ、還気の口の縁を這っていった。縁から内側へ。内側から奥へ。光が通った場所から、風の線がぷつりと途切れていく。
灰原の目の前で、石の管の口が白い空白に変わった。
見えない。
さっきまでそこにあった口が、風も熱も匂いも、まるごと消えている。
「封だ。俺がこっちに来たときに、何か知らんが身についてた」
蛭間は手を下ろした。
「俺が封じたものは、誰にも見えなくなる。目でも、魔法でも、風見塔の硝子でもな。見えなきゃ、崩れたって誰も気づかん。気づかなきゃ、誰も騒がん」
「騒がないのと、崩れないのは違います」
言ってから、灰原は自分で驚いた。
口答えをしたのは、何年ぶりだろう。
蛭間が、灰原を見た。
「お前が開けたこの口はな、二年前に俺が塞いだ亀裂の一つだ。大設計書のどこにも載ってない。載ってない穴は、亀裂だ。亀裂は塞ぐ。それが教会との契約だ」
「この口から、病棟の空気が炉に戻ってたんです。戻らなきゃ、炉は冷やせない」
「戻らんでも、子どもは死んじゃいない」
「……死にかけてました」
「死にかけてるのと、死んだのは違う」
蛭間は、灰原の言葉をそのまま裏返して返した。
「いいか、設備屋。千年祭まで、あと半年ちょっとだ。それまでに天蓋の亀裂を全部塞ぐ。例外を一つ作れば、百の例外が来る。百の例外を聞いてたら、工期は終わらん」
蛭間は灰原の腰袋から、ドライバーを抜き取った。
そして、柄の方を灰原に向けて差し出した。
「封泥はお前が塗れ。下地だ。お前が開けたんだ、お前が閉めろ」
灰原はドライバーを受け取った。
天井裏の熱が、首筋にまとわりついた。
五十一度の夜と、同じだった。言葉が汗と一緒に乾いていく。
「封破りは不問にしてやる。お前ほどの腕の職人は、こっちには一人もいないからな」
灰原は、桶の封泥に手を伸ばした。
黙って、還気の口の縁に塗り始めた。
◇
梯子を下りると、病棟の空気が、もう重くなり始めていた。
吹き出し口から降りてくる風が、目に見えて弱っている。看護の女たちが、不安げに天井を見上げていた。手前の寝台の女の子は、もう手を振っていなかった。
ベルタが、灰原の前に立った。何も言わなかった。言わないことが、何よりも重かった。
ネリは壁際で、灰原を睨んでいた。
「なんで」
低い声だった。
「なんで、黙って言うこと聞くの。あんたが開けたんでしょ。子ども、冷えてたじゃん」
灰原は答えなかった。
「あいつ、誰なの。おっさんの何なの」
「……元請だ」
「もとうけ?」
「仕事を取ってきて、下に配る人間だ。俺は、あの人の下で働いてた」
大きな工事では、施主から仕事をまるごと請け負う会社がある。それが元請だ。元請は、配管や電気やダクトの仕事を、それぞれの専門の会社に配る。配られた側は、元請の工程と元請の判断に従う。従わなければ、次の仕事は来ない。
地球で、灰原が二十五年いた場所の形だ。
「ここは、あっちじゃないよ」
ネリが言った。
「あたしは、あいつに雇われてない。おっさんもでしょ」
灰原は、何も言えなかった。
エルナが、その様子を少し離れた場所から見ていた。帳面には何も書いていなかった。
◇
蛭間は病棟の扉の前で、一度だけ振り向いた。
白い長衣の裾が、熱い床の上で揺れた。
回廊の向こうで、人々がまだ総監の名を呼んでいる。灰原の名など、誰も知らない。
「設備屋」
蛭間は、あの夜と同じ声で言った。
「見えなきゃ無いのと同じだ。こっちでも、それは変わらん」




