第六章 作業員名簿
扉の前に立っていたのは、槍を持った衛兵が二人。
そして、その間に細身の女が一人いた。
三十をいくつか過ぎたくらいか。灰色の外套に、記録院の紋章である羽根筆の刺繍。胸に分厚い帳面を抱え、腰には墨壺と筆を差している。女は病棟を見回し、天井から降りてくる風に気づいて、わずかに眉を上げた。
「記録院、第三書記官のエルナ・ロウエンです」
硬い声だった。
「療院の還気の封が破られました。風見塔の硝子にも、神域で風を見る者の形がはっきり映っています。封を破った方は、どなたですか」
「俺だ」
灰原は前に出た。
エルナは灰原を上から下まで見た。泥の作業着。腰袋。擦り切れた指先。
「お名前を」
「ない」
「ない?」
「名前はない。俺一人でやった。ほかの者は関係ない」
エルナの視線が、灰原の背後へ移った。ネリと、ボルクと、キト。三人は工具と桶を抱えて、壁際に固まっていた。
「その方々は」
「道具を運ばせただけだ」
「そうですか」
エルナは帳面を開いた。羽根筆に墨を含ませる。
「では、道具を運んだ方のお名前も記します」
「待て」
灰原の声が、思ったより大きく出た。病棟の子どもが何人か、びくりとこちらを見た。
「書くな。書かれたら、罰を受けるのはそいつらだ」
言いながら、喉の奥がざらついた。
図面に名前を書いた葉山が、すべての責めを負った。名前のある者が、名前のない者の分まで裁かれる。灰原はそれを、この目で見てきた。
エルナは筆を止め、灰原を見た。
「名前を書くのは、責めるためだけではありません」
「じゃあ、何のためだ」
「何をしたかを、残すためです」
エルナはネリの前に立った。
「お名前は」
ネリは、灰原を見た。灰原は首を横に振った。
ネリは、それでもエルナに向き直った。
「……ネリ」
小さな、掠れた声だった。
「家の名は」
「ない。影働きだから」
「では、風溜まりのネリ、と記します」
エルナの筆が、帳面の上を滑った。
さらさらと、紙をこする音。病棟の中で、その音だけがやけに大きく聞こえた。
ネリは、筆先を見ていた。
自分の名前が、墨の線になっていくのを。
桶を抱える腕が、小刻みに震えていた。唇を噛んでいた。目の縁が赤くなっていた。泣いてはいなかった。泣くのをこらえて、一画一画を目に焼きつけようとしていた。
「風溜まりのボルク。風溜まりのキト」
エルナは二人の名も書いた。ボルクは帽子を握りしめ、キトは何度も帳面を覗き込んだ。
「……俺の名前、そうやって書くのか」
「ええ。これがあなたの名前です」
キトは、自分の名の字を指でなぞるような仕草をした。触れはしなかった。
◇
地球の現場にも、似た帳面があった。
作業員名簿。その現場に入る職人全員の名前と生年月日。血液型と緊急連絡先。持っている資格と保険の加入状況。それらを書き連ねた書類だ。誰がいつ現場にいたのか。何かあったとき、誰に知らせればいいのか。名前を書くのは、縛るためではない。何かが起きたときに、その人を守るためだ。
灰原はそれを知っていた。
知っていて、名前は責めを負わせるための道具だと思い込んできた。
「最後に」
エルナは帳面の末尾に、自分の名を書いた。
記録者、記録院第三書記官、エルナ・ロウエン。
灰原は、その筆の動きを見ていた。迷いのない、真っ直ぐな字だった。
「記録は、書いた人が名乗るから信じられるのです」
エルナは帳面を閉じた。
「私が名乗った以上、この記録のせいで彼らが罰を受けるなら、私も同じだけ受けます。それが記録院の書記の決まりです。少なくとも、私の決まりです」
灰原は何も言い返せなかった。
この女の字は、自分の野帳の字よりずっと強い、と思った。自分の字は、誰にも見せない字だった。
手前の寝台で、さっきの女の子が身を起こしていた。
頬に、少しだけ赤みが戻っている。女の子は灰原を指さして、隣の看護の女に何か囁いた。看護の女が笑って、灰原の方へ歩いてきた。
「この子が、天井のおじさんの名前を教えてほしいって」
灰原は口を開いた。
閉じた。
「……天井のおじさんでいい」
看護の女は困ったように笑い、寝台へ戻っていった。女の子は唇を尖らせ、それから天井の吹き出し口に向かって小さく手を振った。
風に向かって。
名前のない誰かに向かって。
灰原の耳の奥で、九十一歳の老女の声がした。直してくれた人の名前、知りたかったねえ。
灰原は目を伏せた。腰袋の紐を、指が勝手に探していた。
エルナが、そのやりとりを黙って見ていた。帳面を抱える指先に、わずかに力がこもっていた。
◇
「待ってちょうだい」
ベルタが割って入った。
「封を破るよう頼んだのは、療院長の私よ。病棟の子どもの命に関わることだった。療院の緊急の処置として記録して」
「承知しました。そのように記します」
エルナは帳面を開き直し、一行を書き加えた。
「ただし、封のことを裁くのは記録院ではありません。総監様です。この封の処分は、総監様の検分を待ちます。それまで、ここにいる方々を連行はしません」
衛兵が顔を見合わせた。エルナは振り向きもしなかった。
それから彼女は、腰の革袋から一巻きの紙を取り出した。
「もう一つ。封の位置を確かめたいのです。これは大設計書の写しです。療院の区画の」
「大設計書?」
「造り手様が遺された聖典です。天蓋も風脈も、この書のとおりに造られたとされています。教会と記録院だけが、写しを持つことを許されています」
エルナは紙を広げた。
灰原は、紙を覗き込んだ。
そして、目を見開いた。
線があった。寸法があった。部屋の名前と、管の太さを示す細い数字があった。息吹炉の形。病棟への吹き出し口。
図面だった。
見慣れた、あまりにも見慣れた種類の紙だった。
灰原は指で線をたどった。息吹炉から病棟へ、風を送る管。それは描いてある。だが、炉に戻ってくる管がない。いま灰原が開けた還気の口が、どこにも描かれていない。
それだけではない。管の通り道も違う。梁の向こうを大きく回り込んでいるはずの管が、この紙では一直線に引かれていた。
灰原は、ついさっき這い回った天井裏を思い出した。梁を避けて曲がる管。高さを変える継ぎ目。図にはない、還気の口。
「……これは、設計図だ」
灰原は呟いた。
「設計図?」
「造る前に描く図だ。こう造るつもりだ、という図だ。でも造るときには、必ず変わる。実際の天井の中は、この図のとおりになっていない」
エルナが、灰原の顔を見た。
「竣工図はどこにある」
「しゅんこう、ず?」
エルナはその言葉を、初めて聞く外国語のように繰り返した。
ベルタも首を傾げた。ネリも、ボルクも、キトも。病棟の誰一人として、その言葉を知らなかった。
「造り終わった後に、実際に造ったとおりに描き直した図だ。何年も後に天井を開ける人は、それを頼りにする」
「実際に造られた、とおりの……記録」
エルナが、ゆっくりと繰り返した。
灰色の目が、わずかに光った。記録院の書記として、何かが胸のどこかに刺さったような顔だった。
「そんなものは、聞いたことがありません。この国にあるのは、大設計書だけです」
灰原は紙から目を離せなかった。
千年。この世界は千年、設計図だけを頼りに生きてきたのか。
だとしたら、どれだけの天井の中で、どれだけの管が図と違う場所を通っているのか。
そのとき、窓の外が急に騒がしくなった。
鐘の音が変わった。警告の三連打ではない。高く澄んだ、祝いの鐘だ。広場から、歓声が波のように押し寄せてくる。
ネリが窓から身を乗り出した。
「なに、あれ。人がいっぱい」
衛兵の一人が、背筋を伸ばして言った。
「総監様だ。封の総監様が、お越しになった」




