第五章 試運転
「あの線を引いたのは、あなたね」
風溜まりの広場に、場違いな白い外套の女が立っていた。
五十を少し過ぎたくらいか。髪をきつく後ろでまとめ、袖口に薬草の染みがついている。女は灰原の手元の墨壺を見て、それから煙突の上に載った板の屋根を見上げた。
「聖都の縁から見えたのよ。この谷の煙突だけ、煙が真っ直ぐ立ってる。そして、どの屋根も同じ角度で組んである。聖泉塔の壁の線と同じ、迷いのない手」
灰原は墨壺を腰袋にしまった。
逃げようとは思わなかった。女の目に、責める色がなかったからだ。
「療院長のベルタよ。礼を言いに来たの。それと、お願いを」
ベルタは灰原の前に膝をついた。白い外套の裾が、泥に汚れた。
周りで見ていた影働きたちが、ざわめいた。上の人間が、影働きの前に膝をつく。そんな光景は、誰も見たことがなかった。
「療院の病棟が、暑くて仕方ないの。白熱病の子は減った。でも、熱で弱った子が今度は暑さに負けていく。息吹炉が、年々弱っているのよ」
「息吹炉」
「病棟に風を送る大きな箱。二年前に総監様の封工が入ってから、とくにひどくなった」
総監。封。
灰原はガランを見た。ガランは何も言わず、ただ顎を引いた。行けとも行くなとも取れる仕草だった。
「……見るだけなら」
灰原は言った。
◇
聖都ルーメへ上がる昇降機は、鉄の籠だった。
崖に沿って太い鎖が張られ、籠の底では青く光る石が回っている。風石だ。石が回るたびに籠の下から風が噴き出し、鎖をたぐって少しずつ上がっていく。
影働きは乗れない決まりだという。だから灰原は、ベルタの荷物持ちとして乗った。ネリと、集落の若い男が二人ついてきた。ボルクとキト。工具と、ぬめ食いの桶を担いでいる。
籠が崖の上に出た。
灰原は息を呑んだ。
白い街だった。石畳も家の壁も、どこまでも白い。広い通りを、色鮮やかな服の人々が行き交っている。通りの先に、結晶の尖塔を持つ巨大な聖堂がそびえていた。尖塔の先は、天蓋の網目に届きそうなほど高い。
空気が違った。香の匂いと、蝋の匂い。そして、むっとする熱。
風の見える目で見ると、街の上には赤い線が厚く層を成していた。熱が、逃げていない。
「暑いでしょう」
ベルタが言った。
「昔は、聖都の夏はもっと涼しかったの。私が子どもの頃は、夏至の祭でも外套を着ていたくらい」
すれ違う人々は、誰も灰原たちを見なかった。目が素通りしていく。影働きの灰色の布は、この街では見えないことになっているらしい。
ネリが小声で言った。
「ね。いない者でしょ、あたしら」
◇
療院の病棟は、大きな石の部屋だった。
寝台が四十。そのほとんどが埋まっている。窓は閉め切られ、汗と薬草の匂いがこもっていた。子どもが多い。白熱病からは持ち直したものの、熱でぐったりした顔が並んでいた。
看護の女たちが、濡れた布で子どもたちの額を冷やして回っている。布は、すぐに乾いた。
灰原は天井を見上げた。
天井の隅に、古い木の蓋があった。
「営繕の者が使っていた蓋よ。今はもう、誰も入らない」
ベルタが梯子を持ってこさせた。
蓋を押し上げる。熱気が顔に吹きつけた。五十一度の夜を、体が勝手に思い出した。指先が一瞬、梯子の段を強く握った。
灰原は天井裏へ這い上がった。
石の梁の間に、それはあった。
大人の背丈ほどの石の箱。息吹炉だ。中には大きな羽根車があって、底の風石の力で回っている。羽根車の前には、細い銅管が何十本も折り返して並んでいた。管の中を、聖泉塔から引いた冷たい水が通っている。この管に空気を当てて冷やし、病棟へ送る仕組みだ。
地球の空調機と、何も変わらない。
灰原は箱の周りを這い回り、目を凝らした。
羽根車の手前に、厚いフェルトの敷物が張ってある。空気の埃を濾し取る布だ。それが灰色に固まって、板のようになっていた。銅管の隙間には、綿埃がびっしり詰まっている。これでは風が通らない。
そして、もう一つ。
息吹炉は部屋の空気を吸い込み、冷やしてまた吐き出す。吸い込む口と吐き出す口が、必ず一組ある。病棟の空気を炉へ戻す道を、還気という。
その還気の口が、見えなかった。
炉の背中から伸びるはずの管の先が、白く抜けていた。そこだけ、絵の具で塗りつぶしたように何もない。風の線も温度も匂いも、そこで途切れている。
灰原は手を伸ばした。
指先に、硬くなめらかなものが触れた。蝋のような手触り。冷たくも熱くもない。
「……封か」
見えないのではない。見ることを、閉じられている。
炉は、息を吐くことしかできなくなっていたのだ。吸えない炉は、病棟の熱い空気をかき回すだけになる。どれだけ風石を回しても、部屋は冷えない。
◇
灰原はまず、濾し布を外した。
ネリとボルクが天井裏の外でそれを叩く。灰色の煙が、もうもうと上がった。キトが水で洗う。灰原は桶からぬめ食いを出し、銅管の隙間に這わせた。緑の粘体は、詰まった綿埃を音もなく飲み込んでいく。
それから、封の前に戻った。
蓋の下から、ベルタが見上げていた。
「それを破れば、風見塔の鐘が鳴るわ。総監様の封だもの」
灰原は封に手を当てたまま、動かなかった。
天井板の隙間から、下の病棟が見えた。
一番手前の寝台で、五つくらいの女の子が寝ている。額の布が乾いて、ずり落ちていた。看護の女が新しい布を取りに行くまでの、ほんの数秒。女の子は浅い息で、天井を見上げていた。
灰原と、目が合った気がした。
灰原はドライバーを封の縁に当てた。
力を込める。蝋のような表面に、刃先がわずかに食い込んだ。もう一度。
ぴしり、と音がした。
白い空白に、ひびが走った。ひびの隙間から、熱い灰色の線がどっと噴き出してきた。何年も閉じ込められていた病棟の空気だ。
白い空白が、砕けて消えた。
その奥に、石の管の口が現れた。
◇
工事が終わった後、初めて機械を動かして具合を確かめる。それを試運転という。
回してみなければ分からないことは多い。羽根の向きが逆についていることもある。水が漏れることもある。異音がすることもある。だから職人は、最初の一回を息を詰めて見守る。
灰原は濾し布を張り直し、ネリに合図した。
ネリが、炉の底の風石を覆っていた布を引いた。
羽根車が回り始めた。
低い唸り。それがすぐに、なめらかな回転音に変わる。灰原は炉の脇に耳を当てた。軸のこすれる音はない。銅管の継ぎ目に指を這わせる。濡れていない。
還気の口から、病棟の熱い空気が吸い込まれていく。赤い線が炉の中へ流れ込み、銅管の間を抜け――。
青に変わった。
冷たい青の線が、炉の反対側から吐き出され、天井の吹き出し口へ向かっていく。
灰原は蓋から顔を出した。
病棟の天井の吹き出し口から、風が降りていた。
最初に気づいたのは、手前の寝台の女の子だった。
「……つめたい」
小さな声だった。女の子は、顔の上を通る風に向かって、ゆっくりと手を伸ばした。
看護の女が、走ってきた。女の子の額に手を当てた。
手が、止まった。
「院長」
看護の女の声が震えていた。
「冷えてます。額が……熱が、引いてく」
隣の寝台でも、その隣でも、子どもたちが顔を上げていた。乾いた布を手に持ったまま、看護の女たちが天井を見上げている。
風が、病棟の端から端まで渡っていった。
汗と薬草の淀んだ匂いが、ゆっくりと押し流されていく。
ベルタが、口元を押さえていた。
「何をしたの」
「掃除して、口を開けただけです」
灰原は蓋から下りながら言った。それ以上、説明する言葉を持たなかった。
看護の女の一人が、灰原の前で深く頭を下げた。もう一人も。
灰原は、どこを見ればいいのか分からず、天井を見上げた。
そのときだ。
窓の外で、鐘が鳴った。
カン、カン、カン。
風見塔の鐘だった。三連打が、何度も、何度も繰り返される。街じゅうの犬が吠え始めた。
ネリが窓に駆け寄り、顔色を変えた。
「おっさん。風見塔の硝子、人の形がくっきり映ってるって。広場の人がみんな見上げてる」
灰原は自分の目を押さえた。
炉の中の風を、ずっと見ていた。目を凝らして、見続けていた。
療院の正面の扉が、重く叩かれた。
「記録院だ。封を破った者の名を記す」




