第四章 冷却塔
白熱病の子は、トマという名の六つの男の子だった。
名前は母親がこっそりつけたのだという。帳面には書けない名前だ。
トマの額は、触れた指が跳ねるほど熱かった。唇の色が抜け、白く乾いている。息は浅く、速い。胸の奥で湿った音がした。
「熱が下がらんまま、三日目じゃ」
ガランが言った。
「上の療院でも、もう打つ手がないと。この夏だけで、風溜まりから七人が死んだ」
灰原はトマの枕元に膝をついた。
風の見える目で、子どもの吐く息を見た。白い線の中に、うっすらと灰色が混じっている。ぬめりのある、重たい灰色だ。
その色に、見覚えがあった。
◇
灰原はネリに、白熱病が出た家を全部教えてくれと頼んだ。
昼間のことがあったせいか、ネリはしばらく返事をしなかった。それでも結局は、集落じゅうを案内した。灰原は野帳に地図を描き、病人が出た家に印をつけていった。
十一軒。
印は、集落の西側にかたまっていた。崖に近い側だ。
灰原は崖を見上げた。
はるか上、聖都の縁に、白い塔が立っていた。風見塔より太く、低い。塔の頭から、白い霧が絶え間なく噴き上がっている。霧は崖を伝って、ゆっくりと谷底へ降りてきていた。
風の見える目で見ると、その霧は灰色にぬめっていた。トマの息に混じっていたのと、同じ色だった。
「あれは何だ」
「聖泉塔。上の聖都の水を冷やす塔。教会の神域だよ。霧は、ありがたい聖なる水なんだって」
ネリは肩をすくめた。
「霧が下りてくると涼しいから、みんな喜ぶ。夏の夜は、みんなあの霧の下で寝てる」
灰原は目を閉じた。
冷却塔だ。
ビルの屋上で何度も見てきた。空調に使った水を冷やすための塔である。上から水を降らせて、風を当てる。水の一部が蒸発するとき、残りの水から熱を奪っていく。汗が乾くと体が冷えるのと同じ理屈だ。
ただし、温かく湿った水溜まりは、菌にとっての楽園でもある。手入れを怠った冷却塔は、底にぬめりが溜まって菌が増える。その菌を含んだ霧を吸い込めば、肺を病む。年寄りや子どもは死ぬこともある。
だから地球では、塔を定期的に洗う。水に薬を入れる。点検の記録を残す。
「……誰か、あの塔を洗ったことがあるのか」
「洗う? 神域だよ。触ったら死罪」
ネリは当たり前のように言った。
◇
その夜、ガランの家で、灰原は黙って野帳を見つめていた。
ガランが向かいに座り、湯を啜った。
「行く気じゃな」
灰原は答えなかった。
「神域に入って見つかれば、首が飛ぶ。お前さんだけじゃない。手を貸した影働きもじゃ」
「一人で行く」
「道を知らん者が一人で行って、何ができる」
灰原は野帳を閉じた。
地球でも、同じことを考えてきた。
見えない所で、黙って直せばいい。誰の許しもいらない。直ったという結果だけが残る。誰がやったかは、残らなくていい。
それが一番、誰も傷つかない。
そのはずだった。
「……夜のうちに洗って、夜のうちに戻る。見つからなければ、誰も困らない」
ガランは長いこと灰原を見ていた。それから、ふうっと息を吐いた。
「ネリ。ぬめ食いを三匹、桶に入れて持ってこい」
戸口の陰で聞いていたネリが、ぱっと顔を上げた。
「ぬめ食い?」
灰原が聞くと、ガランは土間の隅の桶を指さした。
中で、透き通った緑のゼリーのようなものが、ゆっくりと身をよじっていた。
「風脈の掃除に使う粘体じゃ。汚れとぬめりだけを食う。石も鉄も食わん。わしらの相棒みたいなもんじゃ」
◇
聖泉塔の中は、むっとするほど生臭かった。
ガランの歌に導かれ、三人は風脈を這って塔の根元に出た。そこから整備用の梯子を上がると、塔の中ほどに大きな石の水槽があった。
懐中電灯の光を落とす。水は茶色く濁っていた。表面に、虹色の膜が浮いている。水槽の壁には、指で押せば沈むほど厚いぬめりがへばりついていた。
見上げると、水を降らせるための石の板が何十枚も並んでいる。地球の冷却塔なら、充填材と呼ぶ部分だ。水を薄く広げて、風に当てる面を増やすための板である。その表面は、白い粉の殻で覆われていた。水に溶けていた石の成分が、蒸発のたびに残って固まったものだ。
「……ひどいな」
灰原は低く言った。
「何百年、誰も洗ってないの?」
ネリが鼻をつまみながら聞いた。
「たぶんな」
灰原は水槽の底を探った。冷却塔には、必ず底に水を抜く口がある。掃除のために。造った人間がまともなら、そこへ向かって底に傾きをつけているはずだ。
水平器を壁の縁に当て、底の傾きを読む。ネリが掲げる油灯の明かりを頼りに、傾きの下る先へ手を伸ばした。
あった。
石の栓。千年分のぬめりに埋もれて、ほとんど見えなくなっていた。
灰原は腰袋からドライバーを抜き、栓の縁をこじった。ネリが棒で手伝う。二人がかりで体重をかけると、栓が鈍い音を立てて動いた。
茶色い水が、渦を巻いて抜けていく。
灰原は桶を傾け、ぬめ食いを水槽に放した。緑の粘体は、壁のぬめりに張りつくと、音もなくそれを飲み込み始めた。通ったあとに、白い石の肌がのぞく。
ネリが小さく息を呑んだ。
「……石って、こんな色だったんだ」
ネリは水槽の縁に身を乗り出し、ぬめ食いの通ったあとを指でなぞった。指先が白い石に触れる。冷たい。すべすべしている。
「あたし、風脈の掃除なら何百回もやったよ。でも、ぬめ食いを放して終わりだった。どこが汚れてて、どこがきれいになったかなんて、誰も見ないから」
「見ないと、直ったかどうか分からない」
「……見てもいいの? 神域だよ」
灰原は答えなかった。答える代わりに、懐中電灯をネリに渡した。
ネリは光を受け取り、水槽の隅々を照らしていった。その手は、少しだけ震えていた。
灰原は充填材の石板に取りかかった。白い殻を、ドライバーの柄で叩いて割る。割れた殻を、ブラシ代わりの束子で落とす。一枚。また一枚。指先がすぐに擦り切れて、血がにじんだ。
ネリが黙って隣に来た。灰原の手つきを見て、同じように叩き始めた。
ガランは梯子の下で見張りに立ち、低い声で歌っていた。足音が近づけば、歌が止まる。そういう約束だった。
夜が深くなるにつれ、塔の中の匂いが変わっていった。
生臭さが消え、冷たい石と水の匂いになる。
最後に灰原は、ガランから借りた墨壺の糸を水槽の壁に張った。ぴんと弾く。壁に、真っ直ぐな黒い線が一本残った。水を張ったとき、水面がこの線と平らに揃えば、塔は傾いていない。水の入り方にも偏りがない。
給水の弁を開けた。澄んだ水が、水槽を満たしていく。
水面が、墨の線にぴたりと揃った。
「……よし」
灰原は、それだけ言った。
◇
三日後、トマの熱が下がった。
五日後には、西側の十一軒すべてで、咳が止まり始めた。
聖泉塔から降りてくる霧を、灰原は風の見える目で見上げた。白かった。ぬめりのない、ただの白だった。
集落の誰も、何が起きたのか知らなかった。神様が機嫌を直したのだと言う者もいた。トマの母親は、聖泉塔に向かって何度も頭を下げていた。
「誰がやったか、誰も知らん」
ガランが、灰原の隣で言った。
「それでええのか、お前さんは」
「ああ」
灰原は答えた。
本当に、それでいいと思っていた。
ネリだけが、少し離れた場所から、灰原の擦り切れた指先を見ていた。何も言わなかった。
◇
同じ頃。
聖都の療院長ベルタは、一人で聖泉塔の梯子を上がっていた。
この十日ほど、療院に運び込まれる白熱病の患者が、はっきりと減っていた。理由が分からなかった。分からないものを、ベルタは放っておけない性分だった。
塔の水槽を覗き込んだ彼女は、しばらく動けなかった。
石が、白い。
千年、誰も触れてはならなかった神域の水槽が、誰かの手で洗われていた。
そして壁に、見たこともない印が残っていた。
真っ直ぐな、一本の黒い線。水面と寸分違わず平らな線。
ベルタはその線に、そっと指を這わせた。
「……誰?」
答える者はなかった。
ただ、洗われた石の匂いだけがしていた。




