第三章 給気と排気
七年。
灰原は自分の手を見た。爪は伸びていない。髭も、昨夜剃ったままの長さだった。
七年も管の中にいた体ではない。
「覚えとらんのなら、それでええ」
ガランは焚き火に枝をくべた。
「封の中は、時が止まるとも言う。強い封は、見ることも触れることも閉じてしまう。中にあるものは、無いのと同じになる」
無いのと同じ。
灰原の奥歯が、きしりと鳴った。
その言葉を、ついさっき聞いた気がした。五十一度の天井裏の、すぐ下で。
◇
その夜、灰原はガランの家の土間で横になった。
眠れなかった。
隣の家から、子どもの咳が聞こえる。乾いた浅い咳。止んだと思うと、また始まる。反対側の家からも、別の咳が重なった。
灰原は起き上がり、外へ出た。
家々の屋根で、煙突が煙を吐いている。いや、吐けていなかった。風の見える目には、煙突から出た赤い線がすぐに折れ曲がり、屋根の上を這って軒下の隙間から家の中へ戻っていくのが見えた。
灰原は一軒の家の戸口に立った。中を覗く。夕餉の煮炊きをした囲炉裏の煙が、天井近くに灰色の雲となって溜まっていた。母親が、咳き込む幼子の背中をさすっている。
「すまん。少し、見せてくれ」
母親は驚いて灰原を見上げた。影働きの家に、外の者が入ることはないのだろう。
ネリが後ろから顔を出した。
「おっさん、何する気」
「煙が帰ってきてる」
「帰ってくる?」
灰原は家の壁を見回した。窓はない。板の継ぎ目は、泥で塗り込めてある。戸口には厚い布。
「夜になると、崖の上から灰混じりの風が下りてくるの。だから、どこの家も全部塞いでる」
ネリが言った。
灰を防ぐための知恵なのだろう。だが、それで家が息をできなくなっていた。
「空気は、入れたら出す。出したら入れる。片方だけじゃ流れない」
灰原は膝をつき、土間に指で図を描いた。四角い家。上に煙突。
「煙突から煙を出すには、同じだけの空気が、どこかから家に入ってこなきゃならない。入る口がなければ、煙突は吸えない。吸えない煙は、家の中に溜まる」
部屋に空気を入れることを給気、外へ出すことを排気と呼ぶ。どれだけ立派な換気扇をつけても、給気の口がなければ空気はほとんど動かない。台所の換気扇を強く回すと、玄関の扉が重くなる。あれと同じ理屈だ。
もちろん、そこまでは口にしなかった。
「床の近くに、拳二つ分の穴を開ける。入ってくる風は、囲炉裏の熱で温まって上がる。上がった煙は、煙突が吸う」
母親は不安そうに夫を見た。夫は、戸口を見た。いつの間にか、そこにガランが立っていた。
「やらせてみい」
ガランが言った。
◇
夜明けまでに、灰原は三軒の家の壁に穴を開けた。
ただ開けたのではない。穴の外側に、板で小さな庇をつけた。下向きに口を開ければ、上から降る灰は入りにくい。内側には、ネリが探してきた古布を垂らした。風は通るが、灰は布で止まる。
煙突の先にも手を入れた。崖から吹き下ろす風が、煙突の口を上から押さえ込んでいた。だから煙が戻る。灰原は廃材の板を斜めに組み、煙突の頭に小さな屋根を載せた。風が屋根に当たり、煙突の口の前を素通りする。素通りする風が、中の煙を引っ張り出す。
朝の囲炉裏に、火が入った。
灰原は戸口に立って見た。
赤い線が、真っ直ぐ上へ伸びた。煙突の口から外へ抜け、崖の風に乗って遠ざかっていく。家の中の灰色の雲が、少しずつ薄くなる。
「……煙が、目にしみない」
母親が言った。
幼子が、母親の膝の上で目を開けた。咳を一つした。それきり、咳は出なかった。
子どもは不思議そうに天井を見上げて、それから大きなあくびをした。
母親が口を押さえた。肩が震えていた。
隣の家の戸が開き、別の女が顔を出した。その隣からも。
「うちもやっておくれ」
「うちの爺さんも、一年じゅう咳が止まらんのだ」
「釜の煙で、娘の目が赤いままなんだよ」
灰原は、何と答えればいいか分からなかった。
黙ってうなずき、腰袋から巻尺を抜いた。
その日のうちに、さらに五軒。
日が傾くころ、灰原は広場の真ん中に立って集落を見回した。
朝まで淀んでいた灰色の線が、ところどころでほどけ始めていた。直した家の煙突から赤い線が立ちのぼり、崖の風に混じって流れていく。その流れに引かれるように、隣の家の淀みまでわずかに動き出していた。
一軒の息が、隣の一軒の息を引っ張る。
建物も街も同じだ。空気はつながっている。
朝の家の父親が、灰原の前に来た。無口そうな大きな男だった。手に、使い込んだ鋸を一本さげていた。
「うちのだ。持ってけ。板を切るのに、借りてばかりじゃ不便だろう」
灰原は鋸を受け取った。柄が手の脂で黒く光っていた。
「……すまん」
「すまんじゃないだろう」
男は少しだけ笑って、去っていった。
灰原は鋸を握ったまま、しばらく立っていた。
すまんじゃないなら、何と言えばよかったのか。二十五年、現場で一番使わなかった言葉が、喉のどこかに引っかかっていた。
◇
翌日の昼過ぎ、灰原はガランの家の前で、板に墨で線を引いていた。
ネリが隣にしゃがみ込んで、それを眺めていた。
「おっさん、変な人だね」
「何が」
「あたしら影働きの家を直す人なんて、いないよ。上の連中は、あたしらがいないことにしてるんだから」
「いないこと?」
「名前がないの。記録院の帳面に、あたしらは一人も書かれてない。生まれても、死んでも、どこにも残らない」
ネリは膝を抱えた。
「だから神域の風脈に入れるんだって。いない者が見ても、見たことにはならないから。掃除だけさせて、いないことにしとくの。便利でしょ」
灰原の手が止まった。
墨の線が、一箇所だけ太くなった。
「……名前なんか、なくてもいいだろう」
灰原は線を引き直しながら言った。
「黙って直せば、それでいい。誰が直したかなんて、どうでもいい」
ネリが灰原を見た。
何か言いかけて、口を閉じた。膝を抱える腕に、ぎゅっと力が入るのが見えた。
「……あんたは、名前があるくせに」
小さな声だった。ネリは立ち上がり、どこかへ行ってしまった。
灰原は、引きかけた墨の線を見下ろした。
また曲がっていた。
◇
夕方、ガランが灰原を呼んだ。
広場の外れの崖に、風脈の口が一つ開いている。ガランはその前に座り、低い声で何かを口ずさんでいた。
節のある、歌のような言葉だった。
「三つ叉の 右は下りの道。水の鳴く方へ 背をかがめ」
「それは」
「風脈の道じゃ。わしは字が書けん。だから歌で覚えとる。先代から、そのまた先代から。どの口がどこに通じて、どこが崩れやすいか。全部この喉の中にある」
口伝の地図か、と灰原は思った。竣工図のない場所で、人はこうして道を残すのか。
ガランは歌をやめ、灰原を横目で見た。
「お前さん、ここに来てからずっと風を見とるじゃろう」
灰原は答えなかった。
「隠さんでええ。お前さんが目を凝らすと、風脈の中の風がお前さんの形に歪む。わしには分かる。そしてな」
ガランは顎で崖の上を指した。
はるか上、聖都の縁に、細い塔が立っていた。先端で、大きな硝子の球が光っている。
「風見塔じゃ。あの硝子には、風脈じゅうの風の形が映る。普段はただの渦じゃ。じゃがここ二日、人の形が映っとるそうな。上の連中が騒いどる」
「人の形」
「名のある風、と呼ばれとる。神域で誰かが風を見とる。そういう印じゃ」
灰原は目を伏せた。
見ようとすれば、見つかる。
名前を出さずに生きたい男には、ひどく皮肉な目だった。
「見んでおれるか」
ガランが聞いた。
灰原は答えようとした。
その前に、集落の入口で叫び声が上がった。
担架だった。板を二枚渡しただけの担架を、男が二人で運んでくる。上に、小さな子どもが寝かされていた。
顔が、真っ赤だった。
「療院から戻された。もう診られんと」
男が泣きそうな声で言った。
「白熱病じゃ」
ガランの声が、低く沈んだ。




