第二章 点検口
「生きてんの、これ」
少女の声がした。
灰原は咳き込んだ。喉から灰色の埃が噴き出した。胸に、息が入った。入ったことに、体のほうが驚いていた。
石の床に、仰向けに倒れていた。
頭上に四角い穴が開いている。古い木の蓋が、蝶番一つでぶら下がって揺れていた。その奥は真っ暗な管の中だ。自分はあそこから落ちてきたらしい。
「ねえ。生きてんなら、どいて。そこ、あたしの取り分が落ちてくるとこ」
灰原は首を回した。
痩せた少女がしゃがんでいた。十五、六か。灰色の布を頭に巻き、顔は煤で黒い。手には鉄の棒を持っている。蓋をこじ開けた道具らしい。
「……ここは」
「風溜まり。下層区。知らないの?」
少女は眉をひそめ、灰原の腰袋をじろじろと見た。
「あんた、どこの穴から来たの。その蓋、ずっと封じられてたんだよ。あたしが今日、やっと封を剥がしたの。中に風石が溜まってると思って」
風石。封。下層区。
言葉の意味が、一つも分からない。
灰原は身を起こした。肩が痛む。痛むということは、肩がある。胸を押さえる。挟まれたはずの肋骨は、どこも折れていなかった。
そして、空を見上げた。
空が、なかった。
いや、あった。だが青くない。はるか高みを、薄い硝子のようなものが覆っていた。結晶の天井だ。その継ぎ目が網の目のように走り、光を細かく分けている。光は白く、どこか濁っていた。
巨大な建物の中にいる。
最初に浮かんだのは、そういう感覚だった。
まばたきをした。
視界に、線が走っていた。
細い光の糸が、何百本も宙を流れている。少女の口元から白い線が吐き出されては消える。足元の格子から、冷たい青の線が這い上がる。路地の奥の煙突からは、赤い線が重たげに立ちのぼっていた。
「……風だ」
風が見える。流れの向きも、温度も、匂いの濃さまで。
天井裏を這い回った二十五年間、灰原がずっと頭の中で思い描いてきたもの。それが目の前に、色で描かれていた。
「何ぶつぶつ言ってんの、おっさん」
少女が鉄棒で灰原の膝をつついた。
そのときだ。路地の向こうで、鐘が鳴った。
カン、カン、カン。乾いた三連打。
少女の顔から、血の気が引いた。
「やばい。封破り、もうばれた」
「封破り?」
「蓋の封を剥がすのは重罪なの。神域を覗いた罰で、指を落とされる」
少女は灰原の袖をつかんだ。
「あんた、立てる? 走れる?」
路地の入口に、銀の胸当てをつけた男たちが現れた。四人。手に長い槍。先頭の男が、灰原の頭上の穴を指さした。
「そこだ。封の痕を確かめろ。そいつらを押さえろ」
逃げ道は二つあった。左の路地と、右の階段。少女は右へ引っ張ろうとした。
灰原は動かなかった。
見ていたのは、左の壁だ。
石積みの壁の下、腰の高さに鉄格子がある。そこから青い線が勢いよく吹き出していた。冷たい。強い。そして途切れない。
どこか遠くの大きな機械から、ずっと押し出されてきた風だ。
給気の口だ、と灰原は思った。これだけの風が来るなら、その奥には人が這える太さの道がある。
「こっちだ」
「は? そこ、ただの壁――」
灰原は格子に指をかけた。錆びた留め金は二本だけ。腰袋からドライバーを抜く。考えるより先に手が動いた。ねじ山に刃を当て、ひねる。固い。もう一度。
回った。
格子が外れ、冷たい風が二人の顔を叩いた。
「入れ」
少女は一瞬、灰原を見た。それから、猫のように格子の奥へ滑り込んだ。灰原も続く。格子を内側から元の位置に戻す。
足音が、すぐ外を通り過ぎていった。
「いない。階段を上がったぞ」
「追え!」
音が遠ざかっていく。
暗がりの中で、少女が大きく息を吐いた。
「……なんで分かったの。ここに道があるって」
「風が来てた」
「風なんて、どこにでも吹いてるじゃん」
「どこにでも吹いてる風は、あんなに冷たくない」
少女は何か言い返そうとして、やめた。暗闇の中で、その目だけが光っていた。
◇
中は、石造りの管だった。
大人が四つん這いでようやく進める太さ。断面は四角い。床には、うっすらと溝が刻まれている。
見覚えがあった。
天井裏のダクトと、まるで同じ形をしていた。
灰原は這いながら、腰に手を回した。
腰袋は、ちゃんとそこにあった。水平器。巻尺。ドライバーが二本。赤ペン。電池の残り少ない懐中電灯。胸ポケットには、黒い野帳と鉛筆。
死ぬ直前に身につけていたものが、全部そろっている。
なぜか、それだけで少し息が楽になった。道具があれば、仕事ができる。仕事ができれば、とりあえず今日は終わる。二十五年、そうやって一日ずつ片づけてきた。
「ちょっと。止まらないでよ」
前を行く少女が振り返った。灰原は床の溝に指を這わせていた。
溝は、管の奥へ向かってわずかに下っている。
灰原は水平器を抜いて、溝の脇に置いた。懐中電灯の光の中で、気泡がすうっと片側へ寄った。目盛りを読む。もう一度、場所を変えて置く。
同じだった。
一メートルで、およそ一センチ。
「……百分の一」
「何それ」
「水を流すための坂だ。この溝は、管の中に溜まった水を逃がすために掘ってある」
冷たい風が通る管の内側には、水滴がつく。冷えたグラスの外側が濡れるのと同じ理屈だ。放っておけば水は溜まり、腐る。だから流す道を造る。坂をつけて。
この管を造った誰かは、それを知っていた。
そして、灰原と同じ数字を選んでいた。
灰原は野帳を開き、鉛筆で一行だけ書いた。北の蓋から南へ。溝あり。勾配、百分の一。
「おっさん、それ何書いてんの」
「癖だ」
「変な癖」
少女は鼻を鳴らした。だがその目は、灰原の手元の小さな気泡に吸い寄せられていた。
まるで初めて、宝石でも見たような顔だった。
「……誰が造った」
「何を?」
「この道だ」
「風脈のこと? 造り手様でしょ。千年前に、天蓋と一緒に」
少女は当たり前のように答え、暗闇を這い始めた。
「あんた、本当に何も知らないんだね。ついてきて。こっから集落まで抜けられる。あたしら影働きしか知らない道」
灰原は這った。
膝に石の冷たさが染みる。青い線が、頬の横を流れていく。五十一度の天井裏とは真逆の温度だった。
少女の背中を追いながら、ふと思った。
自分はあの天井裏で死んだのではないか。
思って、それ以上考えるのをやめた。考えても膝は前に進まない。
「名前は」
灰原は少女の背中に聞いた。
「ネリ」
「誰がつけた」
「あたし。影働きには名前がないから。自分でつけたの」
ネリは振り向かなかった。声だけが、石の管に反響した。
「あんたは?」
灰原は答えなかった。
答える理由が、見つからなかった。
「……ふうん。じゃあ、おっさんでいいね」
◇
管を抜けると、そこは谷底の集落だった。
石と板を継ぎはぎした低い家が、斜面にへばりついている。どの家の屋根からも、細い煙が這うように流れていた。空気が重い。煤の匂いと、湿った布の匂いがした。
風の見える目で見ると、集落全体に灰色の線が淀んでいた。
流れていない。
溜まっている。
広場の焚き火の前に、白い髭の老人が座っていた。背中が丸く、指が太い。ネリが駆け寄ると、老人は顔を上げずに言った。
「また蓋を剥がしたな、ネリ」
「だって、風石が溜まってると思ったんだもん。そしたら、おっさんが落ちてきた」
老人がようやく灰原を見た。
濁った目が、灰原の頭から足先までをゆっくり往復した。腰袋で止まった。水平器で止まった。そして、灰原が這い出てきた管の方角へ向いた。
「どの蓋じゃ」
「北の、古い方。封の印がついてたやつ」
老人は長いこと黙っていた。焚き火がはぜた。
「わしはガラン。ここの者らの頭みたいなもんじゃ」
ガランは灰原の目を正面から見た。
「あの北の蓋はな、七年前に封じられた。それきり誰も開けておらん。開けられんかった」
灰原の首筋を、冷たい汗が伝った。
「あんた、七年あの中におったんか」




