第一章 天井裏
天井裏の温度計は、五十一度で止まっていた。
灰原透は懐中電灯をくわえたまま、梁と梁の隙間に肘をねじ込んだ。汗が目に入る。拭う場所がない。作業着の袖はとうに水を吸って、腕に貼りついていた。
八月の夜九時。改修中の「みなと台介護医療院」二階、東病棟の天井の上である。
下では明日の引き渡しに向けて、内装業者が天井板を抱えて待っている。
灰原は腰袋から水平器を抜き、ドレン管の上にそっと載せた。
気泡が、ゆっくりと逆へ滑っていった。
「……逆か」
声に出したつもりはなかった。くわえた懐中電灯の端から、息だけが漏れた。
ドレン管は、エアコンが空気を冷やすときに出る水を流す管だ。ポンプで押し出すわけではない。重力だけで流す。だから一メートル進むごとに一センチ以上の下り坂をつける。百分の一の勾配。この業界の人間なら、新人でも最初に叩き込まれる数字である。
その坂が、ここでは逆を向いていた。
水は低い方へしか行かない。坂が逆なら管の途中に溜まる。溜まった水は腐ってぬめりになり、いずれ管を塞ぐ。行き場をなくした水は、継ぎ目からあふれる。
あふれた先は、天井板の上だ。
その下には、ベッドがある。
灰原は胸ポケットから黒い表紙の野帳を出した。現場用の小さな手帳である。鉛筆で管の高さを書き込み、梁からの寸法を書き込む。指先が汗で滑って、数字が少しにじんだ。
◇
管理室の机に、竣工図の青焼きが広げてあった。
設計図が「こう造るつもりだ」という図なら、竣工図は「実際にこう造った」という図だ。現場には梁がある。ほかの配管がある。電気の線がある。図面どおりに真っ直ぐ通せる管など、ほとんどない。曲げて逃げて、高さを変えて、どうにか通す。その曲がった道筋を工事の後に正直に描き直したものが、竣工図である。
何年も後に天井を開ける人は、これだけを頼りに穴を開ける。
灰原は東病棟のページを指でなぞった。ドレン管は一直線に、きれいな下り勾配で描かれている。
嘘だった。
この線は設計図をそのまま写したものだ。八年前にこの建物を建てたときの竣工図を、誰かがそのまま使い回している。
「設備屋」
背後で声がした。振り向かなくても分かった。
元請の現場所長、蛭間剛志。日に焼けた首に、安全帯の跡が白く残っている。五十八歳。この現場の全業者に、工期という鞭を振るう男だった。
「何してる。内装が待ってるぞ」
「東の天井、ドレンが逆勾配です」
「で?」
「直します。通水試験もやらせてください。水を流して漏れを見ないと――」
「やらんでいい」
蛭間は図面の上に缶コーヒーを置いた。汗をかいた缶の底から、水の輪が青焼きに染みていく。
「明日の十時に引き渡しだ。今夜中に天井を閉めろ」
「閉めたら、もう見えません」
「だからいいんだろうが」
蛭間は笑いもしなかった。
「見えなきゃ無いのと同じだ。お前ら設備屋はいつもそうだ。見えない所に金と時間をかけて、誰が褒める」
灰原は口を開きかけた。
閉じた。
喉の奥で、何かの言葉が汗と一緒に乾いていった。
「……分かりました」
蛭間は缶を取り上げて出ていった。図面には、茶色い輪だけが残った。
◇
東病棟の廊下は、夜でも消毒液の匂いがした。
改修中も入所者はいる。工事区画の外、ナースステーションの前で、車椅子の老女が天井を見上げていた。
多恵さん、と看護師が呼んでいた。九十一歳だという。
老女の視線の先に、古い染みがあった。天井板の継ぎ目から広がった、地図のような茶色い跡だ。今回の改修で張り替えるはずの一枚だった。
灰原の足が止まった。
それは、五年前に水が落ちてきた跡だった。
「あんた、天井の人?」
多恵がこちらを見た。白く濁りかけた目が、灰原の作業着の汚れを追った。
「……はい」
「昔ねえ、ここから水がざあっと落ちてきてね。板ごと、どさっと。あたし、足の骨を折ったのよ」
灰原は腰袋の紐を握った。指の節が白くなった。
「でもね、そのあと誰かが直してくれたの。夜のうちに。朝には天井がきれいになってた」
多恵は、染みに向かって目を細めた。
「直してくれた人の名前、知りたかったねえ。お礼を言いたかったのに、誰も名乗らなかったのよ」
看護師が車椅子を押して、多恵を病室へ連れていった。
灰原は一人、廊下に立っていた。
あの夜に天井を直したのは、灰原だった。誰にも言わずに一人でやった。そして、なぜ水が落ちたのかも、誰にも言わなかった。
◇
職人控室のロッカーは、三段目の扉が少しゆがんでいる。
灰原はその奥から、赤い表紙の野帳を取り出した。角が丸く擦り切れている。八年前、この建物を最初に建てたときの手帳だ。
ページを開けば、本当の配管の道筋がある。梁を避けて曲げた場所。高さを変えた場所。設計図とは違う、本物の線。
八年前、灰原はこの手帳を誰にも見せなかった。
蛭間が言ったからだ。竣工図は設計図を写して出せ、時間がない、と。図を描いたのは新人の葉山晴だった。二十歳の、線のきれいな子だった。
灰原は黙っていた。言えば元請と揉める。揉めれば次の仕事が来ない。仲間の日当が消える。
三年後、別の業者が天井を開けた。嘘の竣工図を頼りに穴を開け、隠れていた冷水管を突き破った。水が落ち、板が落ち、多恵の足が折れた。
責めを負ったのは、図を描いた葉山だった。
葉山は業界を去った。
灰原はスマートフォンを取り出した。画面には、五年間送れずにいる文字が残っている。
『葉山へ』
その先が、書けない。
灰原は赤い野帳の最後のページを開き、鉛筆で短く何かを書いた。書いて、しばらく眺めて、閉じた。
野帳をロッカーの三段目に戻す。ゆがんだ扉を、膝で押して閉める。
「明日こそ」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
◇
夜十一時。
内装業者は帰った。天井板は明朝一番で張ることになった。それが、灰原が稼いだ時間のすべてだった。
灰原は一人で脚立を立て、改修のために開けた穴から天井裏へ戻った。
本来なら、ここには点検口がつくはずだった。天井に開ける四角い蓋で、後から中を点検するための入口である。灰原は図面に書き込んで頼んだ。蛭間が消した。見た目が悪い、と。
だからこの穴も、明日の朝には塞がれる。
灰原は這った。逆勾配の区間まで、梁を三本越える。温度計は五十度を下回らなかった。耳の奥で、心臓が鳴っていた。
吊りバンドを緩めて管を持ち上げ、高さを詰める。水平器を載せる。気泡が、正しい側へ滑った。
息を吐いた。
そのときだ。
「設備屋ぁ!」
足元の穴から光が差した。蛭間が脚立を上がってきて、上半身を突っ込んでいた。
「何をしてる。帰れと言ったろうが」
「すぐ終わります」
「終わらんでいい。天井は朝に閉める。中は――」
ぎし、と頭上で音がした。
灰原は懐中電灯を上へ向けた。
ダクトを吊るボルトが、赤茶色に膨らんでいた。錆だ。五年前の漏水が上の階からここまで伝って、何年もかけて鉄を食っていたのだ。
ボルトの首が、ゆっくりと曲がっていく。
「所長、下がって――」
言い終わる前に、ボルトが折れた。
鉄板のダクトが落ちてくる。灰原は体をひねった。肩に重みが乗った。梁と鉄板の間に、胸が挟まれた。
息が、入らない。
「おい!」
蛭間の手が伸びてきた。灰原の手首をつかもうとして、指先がかすった。
次の瞬間、脚立が傾いた。
蛭間の顔が穴から消えた。床に何かが叩きつけられる重い音がした。
「……所長」
返事はなかった。
灰原は、懐中電灯の光が梁を照らすのを見ていた。温度計が見えた。五十一度。
汗が止まっていた。もう、出てこなかった。
視界の端から、暗さが染みてくる。天井裏の闇よりも、もっと濃い闇だった。
胸ポケットで、黒い野帳が肋骨に当たっていた。
ロッカーの三段目のことを、考えた。
明日こそ、と言ったのに。
最後に聞こえたのは、風の音だった。
天井裏に、風など吹くはずがないのに。
どこか遠くで、誰かが蓋を開ける音がした。




