第十章 干渉チェック
総監の現場事務所には、工程表が貼ってあった。
灰原は入口で足を止めた。
石造りの小屋の壁一面に、横長の紙が貼り出されている。縦に作業の名前。横に日付。作業ごとに、いつからいつまでを示す太い横棒が引かれている。地球の現場事務所で、何千回と見てきた形だった。
入口の柱には、白い布が掛けてあった。墨で太く、四文字。
安全第一。
この世界の誰も読めない文字だった。
「座れ」
蛭間は机の向こうで、帳面をめくっていた。灰原は、勧められた丸椅子に腰を下ろさなかった。
「問題が起きてる。風脈の中でな」
蛭間は工程表の一箇所を、拳で叩いた。
「俺の封工の班と、影働きの掃除の班が、風脈の中でかち合ってる。こっちが足場を組んでる横を、ぬめ食いの桶を担いだ連中が通る。先週は、足場の板が一枚落ちて、もう少しで頭に当たるところだった」
「死人はゼロのはずでは」
「だから呼んだんだ」
蛭間は灰原を睨んだ。
「死人を出す前に片をつける。影働きの道は、影働きにしか分からん。お前は影働きと寝起きしてる。どこを通れば、ぶつからんか言え」
灰原は工程表を見上げた。
横棒の下に、それぞれの作業の場所が書いてある。北の七番から九番。東の二番。南の大枝。風脈の通称だ。だが風脈は立体だった。北の七番の上に東の二番が重なり、その下を南の大枝がくぐっている。紙の上の横棒だけでは、どこで人がすれ違うのか分からない。
「図が要ります」
灰原は言った。
「上から見た図じゃない。風脈を、立体で見られる図が」
◇
エルナは、記録院の投影術の石を持って現場事務所に来た。
机の上に、拳ほどの透明な石を置く。エルナが指先で石に触れ、短く何かを唱えた。
石の上の空間に、光の線が浮かび上がった。
風脈だった。
記録院が千年かけて溜めてきた、風脈の通り道の記録。それが、立体の模型のように宙に浮かんでいる。管が枝分かれし、上へ下へと絡み合いながら、天蓋の根元へ伸びていく。
蛭間が、低く唸った。
「……こんなものがあるなら、早く出せ」
「大設計書にもとづく線です。ただし」
エルナは灰原を見た。
「この方が言うには、大設計書は実際の風脈と違うそうです。ですから今日は、この方の手帳の書き込みで、線を直しながら使います」
灰原は野帳を開いた。
ここ数か月で這い回った風脈の区間が、鉛筆の線で書き込んである。梁を避けて曲がる場所。高さを変える場所。大設計書の直線とは、何箇所も違っていた。
エルナがその書き込みを読み上げ、指先で光の線を曲げていく。直線が、少しずつ本物の形へ近づいていった。
灰原はそれを見ながら、地球のことを考えていた。
干渉チェック。
天井裏には、空調の管だけが通っているわけではない。梁がある。スプリンクラーの水道管がある。電気の線を載せる棚がある。照明がある。それぞれ別の会社が、別の図面で造る。だから、紙の上では何の問題もなかったのに、現場で管と管がぶつかる。ぶつかってから曲げれば、金も時間も倍かかる。
だから工事の前に、全部の図面を重ねて、ぶつかる場所を探しておく。それが干渉チェックだ。いまでは画面の中に立体の建物を組み立てて、ぶつかる場所に赤い印が出る。
ここでは、印を出す仕組みはない。
目で探すしかない。
「ここだ」
灰原は、光の線が三本交わる一点を指さした。
「北の八番と東の二番と南の大枝が、ここで上下に重なってる。封工の足場が北の八番に組まれる日に、影働きが東の二番を通ると、足場の真下を這うことになる」
「先週の板は、そこだ」
蛭間が言った。
「同じような場所が、あと四つあります」
灰原は、次々に指さしていった。
エルナが、その点に赤い光の印を灯していく。宙に浮かんだ風脈の中に、赤い点が五つ、ぽつりぽつりと光った。
◇
「で、どうする」
蛭間が腕を組んだ。
「俺の案はこうだ。影働きの掃除を、封工が終わるまで全部止める。それなら、ぶつからん」
「止めたら、ぬめりが溜まります。風脈が詰まる。詰まった風脈に足場を組んだら、今度は職人が息をできなくなる」
「じゃあ、どうするんだ」
灰原は光の模型を見た。
赤い点の周りに、風の流れを思い描く。どの管に、いつ、どれだけの風が流れているか。どの管なら、人が這っても足場の下を通らずに済むか。
「影働きの道を、三本だけ変えます」
灰原は指で、光の線をなぞった。
「東の二番は、二日だけ通らない。代わりに、この古い枝道を使う。少し遠回りになるけど、足場の下はくぐらない。南の大枝は、封工が朝に入るなら、影働きは昼から入る。時間をずらせば、同じ道でもぶつからない」
「工期が延びる」
「延びません。封工の班は、足場の板が落ちるたびに半日止まってるはずです。止まらなくなる分で、おつりが来ます」
蛭間は、黙った。
工程表を見た。灰原の指した線を見た。机の上の帳面をめくり、何かを計算した。
長い沈黙だった。
「……お前の案でいく」
蛭間は、吐き捨てるように言った。
エルナが、小さく目を見開いた。部屋の隅で控えていた総監の部下たちが、顔を見合わせた。総監が、人の案を呑んだ。そういう顔だった。
◇
話が終わって、エルナが投影術の石をしまうあいだ、灰原は事務所の棚に目を留めた。
薄い石の板が、何百枚も並んでいた。
一枚を手に取る。表面に、絵が浮かんでいた。風脈の中の、白く封じられた亀裂。その横に、小さな板が一緒に写っている。板には、日付と場所と、封の大きさが書いてあった。
写し絵だ。魔法の石で、目の前の光景をそのまま石に写し取る。この世界の写真のようなものだった。
灰原は次の一枚を見た。その次も。
どの写し絵にも、同じように小さな板が写り込んでいる。封じる前。封じている途中。封じた後。三枚ひと組で、何百箇所分も。
工事写真だ、と灰原は思った。
地球の現場では、天井や壁に隠れてしまう仕事を、閉じる前に写真に撮る。小さな黒板に、工事の名前と場所と測った数字を書いて、一緒に写し込む。後から誰かに、ちゃんとやったのかと聞かれたとき、それが証拠になる。
そして、どの写し絵の板の隅にも、朱色の小さな印が押されていた。
済。
地球の検査表で、確認が終わった項目に押す判だった。
「何を見てる」
蛭間が、背後に立っていた。
「……見えなくするのに、なんで写すんですか」
蛭間は灰原の手から写し絵を取り上げ、棚に戻した。
「監督は写真を撮るもんだ」
それだけ言った。
灰原は、蛭間の横顔を見た。その答えに、蛭間自身が納得しているようには見えなかった。
◇
「設備屋」
事務所を出ようとした灰原を、蛭間が呼び止めた。
「お前、うちの職長をやれ」
灰原は振り返った。
「日当は今の三倍出す。総監付きの職長だ。誰もお前を影働きとは呼ばなくなる」
「……営繕の仕事があります」
「療院の雑用だろうが」
「雑用です」
灰原は言った。
「でも、俺がやらないと、誰もやらない雑用です」
蛭間は鼻を鳴らした。それ以上は、何も言わなかった。
◇
帰り道、灰原とネリは風脈を通って風溜まりへ下りた。
途中で、北の古い蓋の前を通った。
灰原が落ちてきた蓋だ。ネリが剥がした封は、もう跡形もない。だが蓋の枠の隅に、砕けた蝋のかけらが一つ、こびりついたまま残っていた。
灰原は足を止めた。
懐中電灯は、もう点かなかった。電池が尽きたのだ。ネリが油灯を掲げた。
黄色い光の中で、蝋のかけらの表面に、小さな刻印が浮かんでいた。
灰原は、指先で埃を払った。
息が、止まった。
見覚えがあった。
ついさっき、何百枚もの写し絵の隅に見た印だった。




