第十一章 還気
済。
蝋のかけらに刻まれていたのは、その一文字だった。
この世界の誰も使わない字。地球の検査表で、確認が終わった欄に押す判。そして、蛭間の写し絵のすべてに押されていた朱色の印。
七年前。
蛭間がこの世界に来たのも、七年前だと言っていた。いや、正確には言っていない。何年になるか、とぼかしただけだ。だが、写し絵の棚の一番古い段に並んでいた日付は、七年前のものだった。
そしてこの北の蓋の封も、七年前。
灰原は、蝋のかけらを指で押さえた。
指が、震えていた。
蛭間は、こちらに来て最初の仕事で、この蓋を封じた。大設計書に載っていない穴だったからだ。中に何があるかなど、確かめもしなかった。見えなくして、済の判を押した。
その中に、灰原がいた。
七年間。
「おっさん」
ネリの声が、遠くに聞こえた。
「それ、何て書いてあるの」
「……済む、という字だ」
「すむ?」
「終わった、という意味だ。確かめ終わった。もう見なくていい。そういう印だ」
ネリは蝋のかけらを覗き込み、灰原の顔を覗き込んだ。
「おっさん、怒ってる?」
灰原は答えなかった。
怒っているのかどうか、自分でも分からなかった。ただ、指の震えが止まらなかった。
地球で、蛭間は天井を閉めろと言った。灰原は黙って従った。
この世界で、蛭間は蓋を閉めた。灰原はその中で、七年間黙っていた。
二度。
二度、あの男は灰原の上の天井を閉じたのだ。
◇
三日後、灰原はエルナを天蓋の根元へ連れていった。
誰かに話さなければ、と思ったわけではない。ただ、エルナが記録院の書庫で調べものをしていると聞いて、聞きたいことがあった。それだけだった。
崖の頂の亀裂の前で、灰原はエルナに水平器を渡した。
「底に置いてみてくれ」
エルナは膝をつき、言われたとおりに置いた。気泡が片側へ寄るのを見て、首を傾げた。
「傾いていますね」
「隣のも、その隣のも、同じ傾きだ。同じ向きに、百分の一ずつ下ってる。割れ目なら、こうはならない」
「……人が造った、と?」
「それと、見てくれ」
灰原は亀裂の口に、指先ほどの綿埃をかざした。
綿埃が、ふっと吸い込まれた。少し間を置いて、また吸い込まれる。
エルナは息を詰めて、それを見ていた。
「空調の機械は部屋の空気を吸い込んで、冷やしたり温めたりして、また部屋に吐き出す」
灰原は言った。
「吐き出す方を給気。吸い込んで機械に戻す方を、還気という。還る気、と書く。給気だけでは空気は回らない。必ず戻り道がいる。戻り道を塞がれた機械は、息を吐くだけで吸えなくなる。吸えなければ、冷やすことも温めることもできない」
「療院の息吹炉と、同じですね」
「同じだ。そして、この天蓋も同じだと思う」
灰原は、見上げた。
網の目の結晶が、どこまでも空を覆っている。
「この世界は、一つの巨大な建物だ。大息吹炉が心臓で、風脈が管だ。給気の管は大設計書に描いてある。でも還気の管が描いてない。戻り道が、どこにもない」
「では、この亀裂が……」
「還気の口だ。たぶん」
エルナは、しばらく何も言わなかった。
風が、亀裂へ吸い込まれる音だけがしていた。
「大設計書に載っていないものを、造り手様が造ったと?」
「造るときに、変えたんだと思う。設計変更だ。図面どおりでは回らないと、現場で気づいた職人がいたんだ。そいつが、天蓋の継ぎ目に戻り道を造った。でも、その変更を描いた竣工図は残らなかった。設計図だけが聖典になった」
エルナの指が、外套の裾を握りしめた。
「……それは、教会への反逆です」
「知ってる」
「でも」
エルナは、ゆっくりと顔を上げた。
「記録院の気温の帳面があります。千年前から毎日、聖都の正午の暑さを記しています。私は先月、それを写していました」
「それで」
「七年前から、急に上がり始めているんです。それまでの何百年とは、まるで違う上がり方で。理由は、誰にも分からないとされてきました」
七年前。
蛭間がこの世界に来て、封工を始めた年。
「総監様の封は、もう六百箇所を超えています」
エルナの声が、かすかに震えた。
「もし、そのすべてが、この世界の吸い込む口だったなら」
灰原は答えなかった。
答えは、亀裂の口に吸い込まれていく白い線が、とうに言っていた。
エルナは膝をついたまま、亀裂の縁にそっと手のひらを当てた。
吸い込まれる風が、指の間を抜けていく。冷たくはない。ぬるく、湿った風だった。聖都の暑い空気が、ここから世界の奥へ戻っていこうとしている。
「……生きているみたい」
エルナが呟いた。
「千年、この国の誰もが、天蓋は完成した器だと信じてきました。閉じていればいるほど、尊いのだと。でも、器じゃなかった。息をしていたんですね」
エルナは手を引き、帳面を開いた。
羽根筆を取り、今日見たことを書きつけていく。亀裂の場所。傾き。吸い込みの間隔。灰原が口にした言葉を、一つ残らず。
書き終えて、エルナは筆を止めた。
「記録者の欄に、あなたの名前を書かせてください。見つけたのは、あなたです」
「名前はいい」
「でも」
「あんたの名前で書いてくれ。俺は、いない者だ」
エルナは灰原を見た。長いこと見ていた。
それから黙って、自分の名前だけを書いた。その筆の運びが、いつもより少しだけ重かった。
◇
その日の夕方、灰原は総監の現場事務所の前まで行った。
言うつもりだった。亀裂は亀裂じゃない。封じてはいけない口だ。世界が暑くなっているのは、それを塞いだからだ。
事務所の戸は開いていた。中から、蛭間の怒鳴り声が聞こえた。
「北の九番が二日遅れてる。理由を言え。足場? 足場は昨日組めと言ったろうが。千年祭は動かんのだぞ」
部下の謝る声。机を叩く音。
入口の柱で、安全第一の布が熱い風に揺れていた。
灰原は、戸口の横の壁にもたれた。
中に入って、何と言えばいい。あんたの七年の仕事は、世界を窒息させていた。あんたが塞いだ口の一つに、俺が閉じ込められていた。そう言えばいいのか。
言えば、どうなる。
蛭間は聞かないだろう。工期を盾に、ねじ伏せるだろう。営繕の仕事は取り上げられ、ネリたちはまた、いない者に戻る。
地球でも、そうだった。
言えば揉める。揉めれば仕事が消える。だから黙った。
灰原は壁から背中を離した。
戸口に背を向けて、歩き出した。
背中で、蛭間の怒鳴り声がまだ続いていた。
◇
その夜、風溜まりの冷やし室で、灰原は炉の継ぎ目を点検していた。
足音が、崖の細道を駆け下りてきた。
エルナだった。外套を脱ぎ、胸に一巻きの古い紙を抱えている。息が上がり、額に汗が光っていた。いつもきっちり結った髪が、ほどけかけていた。
「記録院の、一番奥の書庫で」
エルナは息を整える間も惜しむように、紙を広げた。
黄ばんだ紙だった。端が崩れかけている。読めない古い文字が、ぎっしりと並んでいた。
「造り手様の時代の書き置きです。大設計書とは別の箱に、ずっと封じられていました。誰も読んでいなかった。私が、今日やっと半分だけ訳せました」
エルナは指で、一行をなぞった。
「千年の祭の日、大息吹炉が満ちて息をするとき、還る気は源へ還る。そのとき、門が開く」
還る気。
灰原の背筋を、冷たいものが走った。
「門?」
「続きがあるんです」
エルナの指が、次の行へ移った。そこで、止まった。
最後の一語を訳すのに、少し時間がかかったようだった。エルナは唇を湿らせ、それから、はっきりと言った。
「門は、来た者を還す」
冷やし室の炉が、低く唸った。
灰原の胸ポケットで、野帳が肋骨に当たっていた。




