第十二章 歩掛
来た者を、還す。
その言葉を聞いた瞬間、灰原の頭に浮かんだのは、ロッカーの三段目だった。
ゆがんだ扉。膝で押して閉める感触。奥にしまった、赤い表紙の野帳。
最後のページに、あの夜書いた短い文。
帰れるなら、あれを葉山に渡せる。
灰原は自分の両手を見下ろした。冷やし室の炉の油で、指先が黒く汚れていた。この手で、あの野帳を差し出す。それだけでいい。それだけのために、帰りたい。
目を閉じると、その場面が見えた。
どこかの駅前の喫茶店。冷房の効きすぎた窓際の席。向かいに、葉山が座っている。二十八になっているはずだ。最後に見たときより、少し痩せているかもしれない。
灰原は、テーブルの上に赤い野帳を置く。角の擦り切れた表紙を、指で押して葉山の方へ滑らせる。
葉山は、それを開くだろうか。
開いて、最後のページを読むだろうか。
コーヒーの匂いまで、した気がした。
目を開けると、そこは冷やし室の土間だった。炉の油の匂いと、湿った石の匂いしかなかった。
気づけば、喉が鳴っていた。
「……門は、どこに開く」
「大息吹炉です。聖堂の地下の、一番深いところに」
エルナは古い紙を巻き戻しながら言った。
「教会は、この書き置きを知っているはずです。箱には教会の封蝋が押してありました。千年祭の日に門が開くことも、きっと」
「教会は、どう読んでる」
「分かりません。ただ」
エルナは言いよどんだ。
「大息吹炉が満ちて息をするとき、という一文を、教会がどう解しているか。私には想像がつきます。天蓋が完成したとき。すべての亀裂が塞がれたとき。だから、千年祭までに封工を終えよ、と」
灰原は黙った。
亀裂は、還気の口だ。塞げば塞ぐほど、炉は吸えなくなる。吸えない炉が、満ちて息をするはずがない。
だが、確かではなかった。
確かめた口は、まだ十にも満たない。
◇
翌朝、総監の使いがまた来た。
蛭間は、現場事務所の奥の小部屋で待っていた。机の上に、分厚い帳面が開いてある。窓の外では、封工の職人たちが足場の材を担いで行き交っていた。
「座れ」
今度は、灰原は座った。
蛭間は帳面を、灰原の方へ向けた。
数字が並んでいた。縦に、封じる亀裂の場所。横に、その一箇所を封じるのに要る人数と日数。
「歩掛だ」
蛭間は言った。
ある作業をするのに、何人の職人が何日かかるか。それを決めておく目安を、歩掛という。配管一メートルを通すのに、職人が何時間かかるか。ダクト一枚を吊るのに、何人がかりで何分か。見積もりも工程も、この数字から組み立てる。
「残りは百十七箇所。千年祭まで、百十日だ」
蛭間は帳面の一番下を指で叩いた。
部屋の隅に控えていた部下が、身を縮めた。この数字を出したのは自分だ、と言いたげな顔だった。何度計算し直しても、百十日には収まらなかったのだろう。
「普通の亀裂なら、一箇所に職人四人で半日。だが残りは、普通じゃない。天蓋の梁の高いところ。風脈の一番細い枝の奥。足場が組めん。人が入れん。俺の班の歩掛だと、一箇所に三日かかる。三百五十日分だ。間に合わん」
「……それで」
「影働きの道なら、入れる。お前が影働きの班を率いれば、歩掛が三分の一になる。ぎりぎり間に合う」
蛭間は、灰原を正面から見た。
「職長をやれ」
灰原は帳面から目を上げなかった。
歩掛の数字は、正直だった。どれだけ怒鳴っても、どれだけ鞭を振るっても、人の手と足が一日に進める距離は変わらない。蛭間はそれを誰よりも知っている。知っているから、ここで頭を下げに来たのだ。頭を下げているようには、少しも見えなかったが。
「前にも断りました」
「今度は、理由がある」
蛭間は、懐から一枚の紙を出した。教会の紋章が押してある。
「大司教との契約書だ。読めんだろうから、言ってやる」
蛭間の声が、わずかに低くなった。
「千年祭の日に天蓋の封工が完成したならば、大息吹炉の門を開き総監を元の地へ還す」
灰原は、顔を上げた。
「何でも一つ、願いを叶える。そう言ったろう。俺の願いは、それだ」
蛭間は契約書を畳み、懐へ戻した。
その袖口から、薄桃色のリボンの端がのぞいていた。
「お前も帰りたいだろうが。設備屋」
蛭間は言った。
「手を貸せ。二人で帰るぞ」
◇
灰原の頭の中で、二つの声がぶつかっていた。
一つは言う。封工を手伝えば、還気の口をこの手で塞ぐことになる。世界は、もっと暑くなる。
もう一つは言う。帰れる。
ロッカーの三段目。赤い野帳。葉山。
灰原は、帳面の数字を見つめた。百十七箇所。百十日。
そして、ふと思った。
封工の職長になれば、どの口を塞ぐかを決めるのは自分だ。
塞いだふりをして、還気の口だけを残せばいい。封泥を塗る班を自分が率いれば、どこを本当に塞いでどこを残したかは自分しか知らない。総監の封は、蛭間が最後に手をかざして初めてかかる。下地の封泥さえ薄くしておけば、あとで剥がせる。
黙って直せばいい。
いつものように。
工期も守る。世界も守る。そして、帰る。
全部、手に入る。
「……やります」
灰原は言った。
蛭間の口の端が、わずかに上がった。笑ったのを、灰原は初めて見た気がした。
「明日から来い。腕章を用意しておく」
◇
風溜まりに戻ると、ネリが冷やし室の前で待っていた。
昇降機の籠から降りてくる灰原を、腕を組んで見ていた。
「総監に何言われたの」
「職長をやることになった」
ネリの腕が、ほどけた。
「職長って。総監の? 封工の?」
「ああ」
「あたしらの道を使って、天蓋の口を塞ぐの? 亀裂は息してるって、おっさんがエルナと話してたの。あたし聞いてたよ」
灰原は、答えに詰まった。
塞いだふりをするつもりだ、とは言えなかった。言えば、ネリは手伝うと言うだろう。手伝わせれば、ネリも共犯になる。見つかれば、罰を受けるのはネリだ。
名前のある者が、責めを負う。
だから、言わない。
「……帰り道が見つかった」
灰原は言った。それだけを言った。
「千年祭の日に、門が開く。封工が終われば、帰れる」
ネリが、まばたきをした。
一度。二度。
「帰るの?」
「向こうに、渡さなきゃならないものがある」
「……ふうん」
ネリは足元の石を蹴った。石は崖の方へ転がっていって、見えなくなった。
「あんたも、総監と同じ側に行くんだ」
「違う」
「何が違うの」
灰原は答えられなかった。
答えれば、全部を話すことになる。
ネリは灰原の顔をしばらく見ていた。それから、背を向けた。冷やし室の戸を開けて、中へ入っていった。戸が閉まる音が、やけに大きく響いた。
◇
夜、エルナが帳面を抱えて風溜まりに来た。
灰原が封工の職長を引き受けたことは、もう記録院にも届いていた。
エルナは灰原の前に立ち、静かに聞いた。
「あなたは、亀裂が還気の口だと言いました。それを塞ぐ側に立つのですか」
「工期を守るためだ」
「誰の工期ですか」
「……」
「あなたが何を考えているのか、私には分かりません。でも」
エルナは帳面を胸に抱き直した。
「あなたが何をしても、それがどこにも書かれないなら、私には記録のしようがありません。誰にも、あなたを守ることができません」
エルナは一礼して、崖の細道を戻っていった。
灰原は、その背中が闇に溶けるまで見ていた。
◇
翌朝、灰原は総監の現場事務所で、白い腕章を受け取った。
蝋の紋章が刺繍された、職長の印だった。
風溜まりに戻って、朝のKYの輪に立った。影働きの男たちが、腕章を見てざわめいた。ボルクが口を開けた。キトが目を逸らした。ネリは、輪の外にいた。
灰原は腕章を巻いた右腕を、見下ろした。
白い布が、汚れた作業着の上でやけに眩しかった。
顔を上げると、輪の向こうにガランが立っていた。
ガランは何も言わなかった。
ただ黙って、灰原の腕章を見ていた。




