第十三章 ショートサーキット
職長としての灰原は、有能だった。
それは、蛭間の部下たちが一番よく知っていた。
「北の十一番、昨日で三箇所。今日で四箇所。歩掛の倍の速さだ」
「影働きの道を使うと、足場がいらないんだ。あいつら、管の中を猫みたいに這っていく」
「職長が先に入って、口の大きさを測っておくらしい。封泥の量が、毎回ぴったり合う」
現場事務所の工程表の横棒が、日ごとに塗りつぶされていった。蛭間は何も言わなかった。言わないことが、満足の印だった。
灰原の班は、影働きの男が八人。ボルクとキトもいた。ガランは、道の案内だけを引き受けた。
ネリは、来なかった。
「冷やし室の番がある」
それだけ言って、腕章を巻いた灰原の方を見ようともしなかった。
◇
昼の仕事は、言われたとおりにやった。
亀裂の口を測り、封泥を練り、塗る。乾いたら、蛭間が来て手をかざす。白い光が口を覆い、そこは見えなくなる。写し絵が撮られ、済の判が押される。
夜の仕事は、誰にも言わなかった。
灰原は一人で、昼に塗った口のいくつかへ戻った。
蛭間の封は、口の正面にかかる。手をかざした面だけが、白い空白になる。だが、口の横はどうか。
灰原は封泥の脇の石を、鑿で少しずつ削った。指二本分の細い溝。それを、封の裏へ回り込むように掘っていく。溝の口は、梁の陰に隠れる場所に開ける。正面から見れば、封はしっかりかかっている。済の判も押されている。
だが風は、横の溝から回り込んで、還気の口へ吸い込まれていく。
風の見える目で、灰原はそれを確かめた。
細い白い線が、溝へ流れ込む。封の裏で、本来の口へ合流する。
息をしている。
灰原は鑿を下ろし、額の汗を拭った。
どの口に溝を掘ったか。灰原は野帳に書かなかった。
書けば、証拠が残る。野帳が誰かの手に渡れば、班の影働きたちまで罰を受ける。だから、頭の中にだけしまっておく。北の十一番の三つ目。北の十二番の一つ目と四つ目。東の三番の奥の二つ。
覚えておけば、それでいい。
二十五年、そうやってきた。
ある夜、溝を掘り終えて梯子を下りると、下にガランが立っていた。
油灯も持たず、暗がりの中で壁にもたれていた。いつからそこにいたのか、灰原には分からなかった。
「精が出るのう」
ガランは言った。責める声ではなかった。
「昼に塞いで、夜に開ける。ご苦労なことじゃ」
「……見てたのか」
「わしは風脈の歌を全部知っとる。どこの石が削られたかくらい、匂いで分かる」
ガランは、灰原の胸ポケットのあたりを顎で指した。
「それで、書いとるか」
「何を」
「どこを開けたか、じゃ」
灰原は答えなかった。
ガランは、ふん、と鼻を鳴らした。
「わしは字が書けん。だから歌にして、ネリや若いもんに覚えさせとる。わしが死んでも、道が残るようにな」
ガランは壁から背を離し、暗がりの奥へ歩き出した。
「お前さんは字が書けるのに、何も残さんのか」
足音が遠ざかっていった。
灰原は胸ポケットの野帳に手を当てた。
取り出さなかった。
◇
ひと月が過ぎた。
聖都の暑さが、わずかに和らいだ。
療院の病棟では、還気の口が封じられたままだというのに、吹き出し口の風が少し冷たくなった。ベルタは首を傾げながらも、子どもたちの額に手を当てて安堵の息を吐いた。下段区の人々は、夜に窓を開けて眠れるようになった。
白熱病も、ほとんど出なくなった。
「封工が進むほど、聖都が涼しくなる」
広場で、誰かが言った。
「さすが総監様だ。天蓋の傷を塞いでくださってるからだ」
「総監様、ばんざい」
灰原は、昇降機の籠の中でその声を聞いた。
何も言わなかった。
涼しくなったのは、塞いでいるからではない。塞いだふりをして、口を開けているからだ。だが、それを知っているのは自分だけだった。
腕章の下の腕が、汗で湿っていた。
前の日の夕方、蛭間が現場事務所の工程表の前で灰原を呼び止めていた。
「残り六十四箇所。千年祭まで七十九日。このままなら、祭の前に終わる」
蛭間は工程表の横棒を、指でなぞった。指先が、わずかに弾んでいた。
「お前の班のおかげだ。教会の連中も、聖都が涼しくなったと喜んでる。封工は正しかったってな」
灰原は工程表を見上げたまま、何も答えなかった。
蛭間は灰原の肩を、一度だけ叩いた。地球の現場で、二十年近く一度もされたことのない仕草だった。
◇
風溜まりは、暑くなっていた。
籠が谷底に着いた瞬間、灰原はそれに気づいた。空気が重い。煤の匂いの奥に、腐った水の匂いがする。
冷やし室の前に、人が並んでいた。
年寄りだけではない。子どももいた。若い女もいた。皆、ぐったりと壁にもたれ、日陰を奪い合っていた。
「なんだ、これは」
灰原は冷やし室の戸を開けた。
中は、寝台も床も、人で埋まっていた。炉は回っている。吹き出し口から、冷えた風も出ている。だが足りない。部屋の外の空気が、あまりにも熱すぎる。
灰原は目を凝らした。
風の見える目で、谷全体を見渡した。
上の聖都から、谷へ降りてくるはずの風の線が、ない。
以前は、聖都で使われた空気の一部が、崖を伝ってゆっくり谷へ降りてきていた。冷たくはないが、少なくとも動いていた。その流れが、ぷつりと途絶えている。
灰原は崖を見上げた。
聖都の縁で、青い線が渦を巻いていた。給気の口から吐き出された冷たい風が、街に広がる前に、すぐ近くの口へ吸い込まれていく。
灰原が溝を掘った口だった。
吐いた息を、すぐにまた吸っている。
「……ショートサーキット」
灰原は呟いた。
空調の吹き出し口と吸い込み口が近すぎると、こうなる。吹き出した冷たい風が、部屋の隅々まで届く前に、すぐ横の吸い込み口へ戻ってしまう。機械は一生懸命回っている。風も流れている。だが、その風は機械の周りをぐるぐる回るだけで、肝心の部屋の奥には届かない。電気の配線が触れ合って、電気が近道をしてしまうのと同じ名前で呼ぶ。
灰原が開けた口は、どれも聖都に近かった。
仕事の現場が聖都の周りだったからだ。目の前の口を、目の前の判断で残した。そのたびに頭の中で、ここは残すここは塞ぐと決めてきた。
一つ一つは、正しかった。
だが全部を並べて見たことは、一度もなかった。
並べた図が、どこにもなかったからだ。
聖都は、自分の吐いた息を自分で吸い込み、少しだけ涼しくなった。その分、谷へ降りる風が消えた。
灰原の背中を、冷たい汗が伝った。
五十一度の夜とは逆の汗だった。
◇
「おっさん!」
冷やし室の奥から、ボルクの声がした。
灰原は人の間をかき分けて、奥へ進んだ。
炉の脇に、ネリが倒れていた。
手に、濡れた布を握ったままだった。年寄りの額を冷やして回っていたのだろう。顔が赤い。唇が乾いている。目を閉じて、浅い息をしていた。
灰原は膝をついた。ネリの額に手を当てた。
熱かった。
あの夜の、自分の体と同じ熱さだった。
「いつから」
「朝から、ずっと休まずに。誰も代われなかった。ネリが一番、炉の具合が分かるから」
ボルクの声が震えていた。
灰原はネリを抱き上げた。思っていたよりずっと軽かった。炉の吹き出し口の真下へ運び、寝台の端に横たえた。冷えた風が、ネリの前髪を揺らした。
ネリの指が、布を離さなかった。
灰原はその指を、一本ずつほどいた。
ほどきながら、自分の頭の中の地図を思った。どの口を残したか。全部、覚えているはずだった。北の十一番の三つ目。北の十二番の一つ目と四つ目。東の三番の奥の二つ。
本当に、それで全部か。
灰原は目を閉じた。
思い出せなかった。
確かにそうだったと言い切れる口が、半分もなかった。




