第十四章 結露
ネリが目を開けたのは、夜明け前だった。
灰原は一晩じゅう、寝台の脇に座っていた。濡れた布を替え、炉の風を確かめ、また布を替えた。冷やし室の他の寝台では、ボルクとキトが交代で年寄りたちを見ていた。
ネリは天井の吹き出し口を見上げ、それから首を回して灰原を見た。
「……なんで、いるの」
掠れた声だった。
「お前が倒れた」
「知ってる。あたしが聞いてるのは、なんで総監の職長がここにいるのってこと」
灰原は答えなかった。
ネリは体を起こそうとして、すぐに寝台へ沈んだ。天井を見たまま、ゆっくりと息を吐いた。
「最近、谷が暑いの。おかしいくらい。上の街は涼しくなったって、みんな喜んでる。総監様のおかげだって」
「……」
「おっさん、何かしてるでしょ」
灰原の指が、膝の上で止まった。
「夜になると、風見塔の硝子にまた人の形が映るって、上の人たちが噂してる。神域で誰かが風を見てるって。おっさんしかいないじゃん」
ネリは顔をこちらに向けた。
目が、赤かった。熱のせいだけではなかった。
「何してるの。言ってよ」
「お前には関係ない」
「関係あるよ!」
ネリの声が、冷やし室に響いた。眠っていた年寄りが、何人か目を開けた。
「あたしは冷やし室の番をしてるの。谷の人が倒れたら、ここに運ばれてくるの。谷が暑くなったら、あたしが一番最初に分かるの。関係ないわけないじゃん」
灰原は口を開いた。
閉じた。
ネリは、その仕草を見ていた。
「それ」
ネリが言った。
「おっさん、いつもそれやる。口開けて、閉じる。言いたいことあるのに、飲み込む」
「……」
「あんたは誰にも見せない。何してるか、何考えてるか、どこを直したか。全部一人で抱えて、黙ってる」
ネリは天井に目を戻した。
「総監と同じだ。あいつは見えなくする。あんたは見せない。何が違うの」
冷やし室が、静まり返っていた。
隣の寝台で、背中の曲がった老人がゆっくりと身を起こした。灰原が最初に煙突を直した家の、あの咳の止まらなかった爺さんだった。
「わしらは、あんたに助けられた」
老人は言った。
「じゃが、何をどう直してもろうたのか、いまだによう分からん。分からんから、壊れたときに直せん。ネリが言うとるのは、そういうことじゃろう」
灰原は膝の上の拳を見下ろした。
爪が、手のひらに食い込んでいた。
◇
灰原は冷やし室を出て、炉の裏へ回った。
聖泉塔から引いた冷たい水の管が、壁に沿って走っている。その表面が、びっしりと濡れていた。細かい水の粒が集まって、管の下側から一滴ずつ落ちていく。床に、小さな水溜まりができていた。
結露だった。
冷たい管が、熱く湿った空気に触れる。空気の中の水が冷やされて、管の表面に水滴になって現れる。冷えたグラスの外側が濡れるのと同じだ。放っておけば水滴は天井を濡らす。床を腐らせ、黴を呼ぶ。
だから冷たい管には、保温材を巻く。冷たいものと熱いものが、直接触れ合わないように。境目に、厚い布を一枚挟む。
若い頃に組んだ保温屋の親方が、よく言っていた。
冷たいもんほど、裸にしとくと泣くんだ。
そのときは、ただの現場の冗談だと思っていた。白髪の親方は、冷水管に断熱材を巻きつけながら笑っていた。巻き終わった管を、子どもの頭でも撫でるように軽く叩いていた。
灰原は、濡れた管に手のひらを当てた。
冷たかった。
温度の違う二つのものが触れ合う境目には、必ず水がつく。
ネリと自分の間にも、何かが垂れていた。熱いものと冷たいものの間に挟むべき布を、灰原は一枚も持っていなかった。言葉という布を。
灰原は手を離した。手のひらが、濡れていた。
◇
昼過ぎ、灰原は聖都の現場事務所に戻った。
職長の机に、紙の束が積まれていた。封工の完了報告だ。一箇所封じるたびに、職長が一枚書く。どこを、いつ、どれだけ封じたか。最後に、職長の署名を入れる。
初めてこの紙を渡されたとき、灰原は署名の欄で手を止めた。
名前はない、と言った。
蛭間は鼻で笑った。
「字は何でもいい。お前の字で書け。誰も読めやしない」
灰原は少しのあいだ迷って、それから、漢字で書いた。
灰原。
この世界で初めて、自分の名を記した紙だった。
そして、その紙には嘘が書いてあった。北の十一番、三つ目。完全に封じた、と。
灰原は、今日の分の報告を書いた。東の三番、奥の一つ。完全に封じた。灰原。
溝を掘った口だった。
◇
夕方、事務所の戸口にエルナが立っていた。
手に、灰原が書いた完了報告の写しを何枚も持っていた。記録院は、封工の報告をすべて写して保管している。
「少し、よろしいですか」
エルナは灰原を、事務所の裏の石段へ連れ出した。誰もいない場所だった。
エルナは写しの一枚を広げた。
「北の十一番、三つ目。完全に封じた、とあります。でも昨日、私は風見塔の記録を写していました。風見塔の硝子は、封の外側の風なら映します。北の十一番の三つ目のあたりで、まだ風が吸い込まれていました」
灰原は黙っていた。
「北の十二番の一つ目。四つ目。東の三番の奥。同じです。封じたと書いてある場所で、風が動いている」
エルナは写しを重ねた。
「そして、どの報告にも同じ署名があります」
エルナの指先が、紙の隅の二文字を押さえた。
「読めない字です。でも、あなたの字ですね」
「……」
「名前です。あなたの」
灰原は目を伏せた。
「名乗らない人が、嘘には名前を書いた」
エルナの声は、責めてはいなかった。ただ、静かだった。
石段の下から、昼の熱がゆっくり這い上がってくる。エルナの額にも、汗が一筋光っていた。写しの束を持つ指先に、墨の染みがついている。夜通し写していたのだろう。目の下に、薄い影ができていた。
灰原は、その指先から目を離せなかった。
この女は、自分の嘘を見つけるために、一晩じゅう筆を動かしていたのだ。
「あなたが何をしているのか、半分は分かったつもりです。封じたふりをして、口を開けているのでしょう。還気の口を守るために。それは、きっと正しいことです」
「だったら」
「でも、どこにも書いていない」
エルナは灰原を真っ直ぐに見た。
「どの口を開けて、どの口を塞いだのか。あなたの頭の中にしかない。あなたが倒れたら、あなたが間違えたら、誰も分からない。後から来た人は、この嘘の報告を信じて、また何かを塞ぐ」
灰原の喉が、鳴った。
嘘の竣工図を信じて、天井に穴を開けた業者。
破れた管。落ちた水。折れた足。
「あなたの直しは、どこにも残っていない」
エルナが言った。
「だから、誰も守れない」
◇
エルナは写しの束を胸に抱えた。
「この報告を記録院の上に回せば、あなたは偽りの記録の罪に問われます。総監様にも、すぐに知れるでしょう。回さなければ、記録院の書記である私が、偽りを見逃したことになります」
「回せばいい」
「簡単に言わないでください」
エルナの声が、初めて揺れた。
「私は……」
そのとき、聖都の鐘が鳴った。
三連打ではなかった。低く、長く、間を空けて打つ鐘だ。教会が布告を出すときの鐘だった。
石段の下の広場に、人が集まり始めていた。教会の白衣の男が台に立ち、紙を広げて読み上げている。
風に乗って、その声が切れ切れに届いた。
「……神域において夜な夜な風を見る者あり。風見塔はこれを幾度も映したり。これ影働きの穴蔵に巣食う異端の業なり……」
エルナの顔から、血の気が引いた。
「……よって本日より、風溜まりの影働きを異端の穴蔵として狩る。匿う者も同罪とする」
灰原は、石段の上で動けなかった。
夜な夜な、風を見る者。
それは、自分だった。




