第十五章 KY
狩りは、その日のうちに始まった。
銀の胸当ての衛兵たちが、昇降機で次々に谷へ降りてきた。家々の戸を蹴り開け、灰色の布を巻いた者を見つけしだい縄をかけていく。逃げる足音。泣き声。崖に反響する怒鳴り声。
灰原が谷に着いたとき、ガランはもう人々を風脈へ逃がし終えていた。
「東の三番の奥に、古い広間がある。造り手の頃の、資材を置いた場所らしい。昔から、わしらの隠れ処じゃ」
ガランは最後の一人の背中を押し、風脈の口に身を屈めた。
「冷やし室は、どうする」
「療院長が来とる」
ガランが顎で示した先で、ベルタが冷やし室の戸口に立っていた。白い外套の胸に、療院の紋章を掲げている。その前で、衛兵が三人、困ったように槍を下ろしていた。
「ここは療院の分院です。病人しかいません。療院の病人に縄をかけるなら、大司教様の許しを取ってからにしてちょうだい」
ベルタの声が、谷に響いた。
ネリが、冷やし室の中から出てきた。まだ顔色が悪かった。ベルタは振り返らずに言った。
「あなたは行きなさい。病人は私が見る。動ける影働きは、ここにいたら連れていかれる」
ネリは灰原の方を見た。
職長の腕章を見た。
何も言わずに、ガランの後を追って風脈の口へ消えた。
衛兵の一人が、灰原の腕章に気づいて敬礼した。
「総監付きの職長殿。こちらは異端狩りです。お邪魔はいたしません」
灰原は、何も答えられなかった。
狩られているのは、灰原が夜な夜な風を見たせいだ。その灰原だけが、腕章一枚で守られていた。
◇
夜、エルナが灰原を記録院の裏の石段へ呼び出した。
月はない。天蓋の網目越しに、聖都の灯りがぼんやりと滲んでいた。
「報告は、回しませんでした」
エルナは言った。
「あなたの偽りの完了報告。全部、私の机の引き出しにしまってあります」
「……なぜ」
「私の父の話を、していませんでしたね」
エルナは石段に腰を下ろした。灰原は立ったままだった。
「父も記録院の書記でした。二十年前、南の大枝で風脈が崩れたんです。影働きが九人、下敷きになりました。崩れたのは、教会の石工が大設計書のとおりに造り直したばかりの場所でした」
エルナは膝の上で指を組んだ。
「父は、それを記録しました。造り直した場所が崩れたこと。九人が死んだこと。影働きには名前がないから、九人、と数で書くしかなかった。それでも、父は書いたんです」
「……」
「教会は、その記録を消しました。そして父の名も、消しました。消名です。記録院のすべての帳面から、父の名前が削られました。父は、いなかったことになったんです。生きているのに」
エルナの声は、平らだった。何度も心の中で繰り返して、角が取れてしまった声だった。
「父は、名前のないまま死にました。私は母の家の名を名乗っています。だから、私は自分の名で書く。誰に消されても、書いた人がいたことだけは残るように」
エルナは灰原を見上げた。
「その私が、初めて記録を曲げました。あなたを守るために」
灰原は、拳を握った。
守ってくれと頼んだ覚えはなかった。だが、そう言えば卑怯になる気がした。
「……もう少しで終わる」
灰原は言った。
「祭までに封工を終わらせる。俺が門をくぐって向こうへ帰れば、風見塔に人の形は映らなくなる。狩りも、それで止まる」
エルナが、ゆっくりと立ち上がった。
「あなたは、帰るのですね」
「ああ」
「何も残さずに」
灰原は答えなかった。
「開けた口も、塞いだ口も、どこにも書かずに。あなたの頭の中の地図ごと、向こうへ持っていく。残された私たちは、どの口が息をしているのかも分からないまま」
「書けば、あんたも罰を受ける」
「黙っていても、もう狩られています」
エルナの声が、初めて高くなった。
「あなたは、誰を守っているつもりなんですか。影働きですか。私ですか。それとも、あなた自身ですか」
灰原は口を開いた。
閉じた。
エルナは、それを見ていた。ネリと同じ目で見ていた。
「私はもう、あなたのために記録を曲げません」
エルナは外套を翻し、石段を下りていった。足音が、夜の石畳に硬く響いて遠ざかった。
灰原は一人、暗い石段に立っていた。
胸ポケットの野帳が、やけに軽かった。
◇
それから、ふた月あまりが過ぎた。
狩りは終わらなかった。影働きたちは、東の三番の奥の広間で暮らすようになった。封工だけが、何事もないように進んでいった。エルナは、一度も風溜まりに下りてこなかった。
千年祭まで、十日を切った朝のことだった。
灰原は東の三番の奥の広間へ下りた。
隠れた影働きたちに、食べ物を届けるためだ。職長の腕章があれば、風脈の出入りを咎められることはない。
広間は、思っていたより広かった。天井の高い石の部屋に、七十人近くが身を寄せ合っていた。油灯がいくつか灯っている。子どもが母親の膝で眠り、年寄りが壁にもたれていた。湿った石と、汗と、煤の匂いがした。
ガランが、広間の真ん中で灰原を待っていた。
「朝のあれを、やろうかの」
KYのことだった。
ここに隠れてからも、ガランは毎朝、皆を集めて危ないところを言わせているのだという。
灰原の後ろで、総監付きの班の影働きたちが足を止めた。ボルクとキトもいた。今日は北の十三番の封工がある。歩掛どおりに進めなければ、蛭間に怒鳴られる。
「手短に頼む。今日は工程が押してる」
灰原は言った。
ガランは一瞬、灰原の顔を見た。それから、輪の真ん中に立った。
「ほんなら、わしから言う」
ガランは広間の奥の壁を指さした。
「東の三番の奥、三つ叉の先の継ぎ目がゆるい。古い石が浮いとる。大きな風の揺れが来たら、危ない」
皆が、その方向を指さして確かめた。
「じゃから、わしらがここに隠れとるあいだは、封工の衆を東の三番に入れんでくれ。総監の衆は、わしらの歌を知らん。どこが弱いか知らずに、太い封を打つ。この区画で大きな口を塞がれたら、風の行き場がなくなる」
ガランは灰原を見た。
「職長。頼めるか」
「……分かった」
灰原はうなずいた。
うなずきながら、頭の隅で別のことを考えていた。北の十三番。今日のうちに四箇所。蛭間の顔。工程表の横棒。
「次、ネリ」
ガランが言った。
ネリが輪の中から一歩前に出た。
「あたし、冷やし室の炉のことで――」
「すまん」
灰原は言った。
「もう行かないと間に合わない。続きは、夕方に聞く」
ネリの口が、途中で止まった。
灰原は背を向け、班の者たちを連れて広間を出た。
背中に、ガランの視線が刺さっていた。
何も言わない視線だった。何も言わないことが、ガランの言葉だった。
◇
その日の封工は、昼過ぎに終わった。
北の十三番、四箇所。歩掛どおり。灰原は完了報告を書き、署名を入れた。
夕方になれば、東の三番の広間へ戻ってネリの話の続きを聞く。そのつもりだった。
現場事務所を出たとき、足の裏に何かが響いた。
石畳が、震えていた。
いや、石畳ではない。その下だ。地の底の、もっと深いところ。
ごう、と低い音がした。
灰原は、風の見える目を見開いた。
聖都じゅうの給気の口から噴き出していた青い線が、一斉に止まった。
一拍。
次の瞬間、すべての線が逆を向いた。
吐き出していたはずの口が、街の空気を吸い込んだ。広場の旗が、口の方へはためいた。人々の外套の裾が、足元の格子に吸い寄せられた。
そしてまた一拍。
線は元の向きに戻った。何事もなかったように、青い風が吐き出され始めた。
広場が、ざわめいていた。誰かが悲鳴を上げ、誰かが笑った。風のいたずらだと言う者もいた。
灰原は笑えなかった。
あれは、咳だ。
息を吸えなくなった炉が、無理に吸おうとして咳き込んだのだ。
聖堂の地下の一番深いところで、大息吹炉が初めて咳をした。




