第十六章 隠蔽部
「古い炉だ。咳くらいする」
蛭間は、集まった職人たちの前でそう言った。
現場事務所の前の広場だった。昼間の逆風に怯えた職人たちが、手を止めてざわついていた。蛭間は腕を組み、いつもの顎を突き出す姿勢で立っていた。
「千年動いてる機械だ。たまには咳き込む。お前らの爺さんだって、朝は咳き込むだろうが。手を止めるな。祭まで九日だ」
職人たちは顔を見合わせ、それでも一人二人と持ち場へ戻っていった。蛭間の声には、そういう力があった。
灰原だけが、その場に残った。
蛭間は、灰原の方を見なかった。
◇
壁や天井の中に隠れて、完成すれば見えなくなる配管の部分を、隠蔽部という。
建物の中で一番大事な管は、たいてい隠蔽部にある。水も空気も熱も、人の目に触れない場所を通って、部屋から部屋へ運ばれていく。だから職人は、隠れてしまう前に一番気を遣う。漏れはないか。勾配は正しいか。保温は隙間なく巻いてあるか。天井を張ってしまえば、二度と手が届かない。
見えない場所ほど、丁寧にやる。
灰原はずっと、そう教わってきた。そう信じてきた。
その夜、灰原は一人で現場事務所に残っていた。
蛭間は、教会との打ち合わせで聖堂へ行っている。部下たちも帰った。事務所の中は、油灯一つの明かりだけだった。
灰原は、写し絵の棚の前に立った。
何百枚もの石の板。封じる前、封じる途中、封じた後。三枚ひと組で、七年分。
灰原は、自分の班が封じた区画の写し絵を探した。北の十一番。北の十二番。東の三番。自分が夜に溝を掘った口が、写し絵にどう写っているか。それを確かめるつもりだった。
北の十二番の束を引き出したとき、棚の奥に何かが当たった。
小さな木箱だった。
棚の一番奥、写し絵の束の陰に押し込むようにして置かれている。蓋に、墨で字が書いてあった。
炉 風量 記録。
漢字だった。この世界の誰も読めない字だった。
◇
箱には、鍵がかかっていなかった。
中には、写し絵が束ねて入っていた。どれも同じ場所を写している。聖堂の地下の、巨大な管の口。大息吹炉の主管だろう。管の口の前に、小さな風車が据えつけてある。風の強さで回る羽根車だ。その横に、いつもの小さな板が写り込んでいた。
日付と、数字。
灰原は一枚目を見た。七年前の日付。数字は、百。
次の一枚。半年後。九十六。
次。九十一。
八十五。七十九。七十。六十二。
灰原は、束を最後までめくった。
最後の一枚は、ひと月前の日付だった。
三十八。
風量の記録だった。大息吹炉の主管を流れる風の強さを、七年前を百として測り続けたものだ。蛭間は、それを毎月、自分の手で測っていた。
七年かけて、炉の息は四割を切るところまで細っていた。
灰原は数字の並びを指でなぞった。右肩下がりの線が、頭の中で勝手に引かれていく。現場で何度も見てきた形だった。止まる直前の機械の、点検記録の形だった。
最後の一枚の裏に、鉛筆で走り書きがあった。蛭間の字だった。
祭まで持つか。
◇
「勝手に開けるな」
背後で声がした。
蛭間が、戸口に立っていた。長衣の裾が、夜の湿気で重く垂れている。手に、聖堂から持ち帰ったらしい巻物を握っていた。
灰原は、写し絵の束を握ったまま振り向いた。
「知ってたんですね」
「……」
「炉が弱ってるのを。封をすればするほど、息が細っていくのを。七年前から、毎月測って」
蛭間は戸を閉めた。油灯の火が揺れた。
「測るのは、監督の仕事だ」
「測って、黙ってた」
「言ってどうなる」
蛭間は机に巻物を放り出し、椅子に腰を下ろした。六十五の男の、疲れた座り方だった。
「天蓋の亀裂を塞がなきゃ、崩れる。崩れりゃ灰が流れ込む。教会の連中は、それを千年恐れてきた。俺が来るまで、誰も止められなかったんだ。俺が塞いだ。崩落はゼロだ。死人もゼロだ」
「炉が止まれば、全員が死にます」
「止まる前に、祭が来る」
蛭間は灰原を見た。
「祭の日に封工が完成すれば、教会は門を開ける。門が開けば、俺は帰る。炉が満ちて息をするとかいう書き置きの意味なんぞ、俺には分からん。分からんが、契約は契約だ」
「その後は」
「後のことは」
蛭間は言いかけて、止まった。
口の端が、わずかに引きつった。
「……後のことは、こっちの連中が考える」
灰原は、写し絵の束を机に置いた。
手が、震えていた。
◇
「三十年前な」
蛭間が、ぽつりと言った。
油灯の火を見ていた。灰原の方は見なかった。
「俺がまだ若い監督だった頃だ。ある建物で、天井の中の配管に不良を見つけた。継ぎ目の締めが甘かった。今すぐ漏れるほどじゃない。だが、いずれ漏れる。俺は工事を止めた。天井を剥がして、全部やり直させた」
蛭間は、自分の手のひらを見た。
「工期が二か月延びた。違約金が出た。元請は、その金を下請けに押しつけた。配管をやってた小さな会社だ。俺に現場のいろはを教えてくれた親方の会社だった」
「……」
「潰れたよ。半年で。職人は散り散りになった。親方は、何年か後に駅前のビルで警備員をしてた。俺を見ても、目を合わせなかった」
蛭間は、短く笑った。笑い声には、何も入っていなかった。
「あの建物の配管はな、今も何の問題もなく動いてる。俺が止めなくても、たぶん漏れなかった。止めなくてよかったんだ」
「……」
「それで分かった。欠陥は眠る。眠ってるうちに工期を守れば、誰も死なん。だが遅れは、確実に人を食う。目の前の人間をな」
蛭間は、灰原の顔を見た。
「見えなきゃ無いのと同じだ、設備屋。あれは、そういう意味だ」
灰原は、何も言えなかった。
知っている形だった。
黙って直せば、誰も傷つかない。言えば揉める。揉めれば仕事が消える。仲間の日当が消える。
形が同じだった。言葉が違うだけだった。
蛭間は閉じて守った。灰原は黙って守った。どちらも、見えない場所に何かをしまい込んで、目の前の人間を守ったつもりでいた。
言わなければ、と灰原は思った。
自分も同じことをしている。封じたふりをして、口を開けている。どの口を開けたか、自分でももう分からない。
喉まで、言葉が上がってきた。
灰原は口を開いた。
閉じた。
油灯の火が、じじ、と鳴った。
蛭間は長衣の袖から、薄桃色のリボンを取り出した。
指の間で、それを何度も折り返した。
「娘の式に出られなかったのも、工期だ。現場が押してた。俺が抜けたら、三日遅れた。三日遅れりゃ、下請けが二つ飛ぶ。だから行かなかった」
蛭間はリボンを机の上に置いた。油灯の明かりの中で、色の褪せた桃色が、かすかに光った。
「後で写真が届いた。白い服を着た娘が、知らん男と並んで笑ってた。それを現場事務所の机の引き出しに入れて、そのまま次の現場へ行った」
蛭間は、リボンの端を指でつまんだ。
「帰ったら、謝るつもりでいる。祭の日に門をくぐって、向こうで目を覚ましたら、一番に」
灰原は、そのリボンを見ていた。
蛭間の願いは、灰原の願いと同じ形をしていた。向こうに、渡しそびれたものがある。
◇
蛭間が、机の引き出しを開けた。
中から、写し絵を一枚取り出した。灰原の前に、音を立てて置いた。
北の十一番の、三つ目の口だった。封じた後の一枚。白い封が、口の正面をしっかり覆っている。済の判も押されている。
だがその脇の梁の陰に、細い黒い筋が写り込んでいた。
指二本分の、溝。
「北の十二番の四つ目にも、同じ筋がある。東の三番の奥にもな」
蛭間の声が、低くなった。
灰原は、写し絵から目を上げられなかった。
「お前、夜中に何をしてる」
蛭間は言った。
「俺の写し絵に、封のない口が写ってる」




