第十七章 系統
灰原は、答えられなかった。
写し絵の中の細い溝が、油灯の明かりで黒く光っていた。指二本分。夜ごと鑿で削った、自分の手の跡だった。
蛭間は灰原の顔を見ていた。怒鳴りはしなかった。それが、かえって恐ろしかった。
「還気とかいうやつか」
蛭間は言った。
「亀裂は息の口だと、記録院の女と話してたそうだな。部下が聞いてた。お前、塞いだふりをして開けてたわけだ」
「……」
「聖都が涼しくなったのは、お前の溝のおかげか。教会の連中は、俺の封工のおかげだと喜んでた。皮肉なもんだ」
蛭間は写し絵を指で弾いた。石の板が机の上で回り、止まった。
「だがな、設備屋。祭の前に、教会の検分がある。大司教が自分の目で、封工の仕上がりを見て回る。こんな溝が一つでも見つかってみろ。完成とは認められん。契約は飛ぶ。門は開かん」
蛭間の声は、平らだった。
「俺は帰れん。お前もだ」
◇
蛭間は立ち上がり、戸口へ行った。外に控えていた部下を呼んだ。
「東の三番の系統を、今夜のうちにまとめて封じ直せ。大設計書の図のとおりにだ。枝の口だけじゃない。主管の口から全部塞げ」
部下は一礼して、闇の中へ駆けていった。
灰原は、椅子を蹴って立ち上がった。
「待ってください」
「待たん」
「東の三番には、影働きが隠れてます。七十人近く。奥の継ぎ目がゆるいと、ガランが言ってた。主管を塞いだら――」
「東の三番に、影働きはいない」
蛭間は振り向かずに言った。
「異端狩りから逃げた連中が、総監の工区に隠れてるはずがない。俺の工区の帳面には、そんな者は一人も載ってない」
「いるんです。俺が毎朝、食い物を運んでる」
「知らん」
蛭間は、ようやく振り返った。
その目は、灰原を見ていなかった。灰原の肩の向こうの、何もない壁を見ていた。
「見えなきゃ、無いのと同じだ」
灰原の喉の奥で、何かが切れた。
だが、言葉にはならなかった。言葉にする前に、体が動いていた。灰原は蛭間の脇をすり抜け、戸口から外へ飛び出した。
「もう出したぞ」
背中に、蛭間の声が追いかけてきた。
「俺の班だ。お前の班じゃない。お前の溝の場所なんぞ知らん連中だ。図面どおりに、きっちり塞ぐ」
◇
空調の世界で、系統という言葉がある。
一台の機械から出た管が、枝分かれしながら建物のあちこちへ伸びていく。その一本の根につながった管のまとまりを、一つの系統と呼ぶ。同じ系統の中では、どこか一箇所をいじれば、ほかの全部に響く。一つの吹き出し口を閉めれば、残りの口から出る風が強くなる。一つの吸い込み口を塞げば、残りの口が余計に吸う。
では、系統の戻り道をまとめて全部塞いだら、どうなるか。
風は送られ続ける。だが、出ていく先がない。行き場をなくした風は、管の中に溜まって押し合う。押し合う力は、系統で一番弱い場所に集まる。
古い継ぎ目に。
浮いた石に。
灰原は、走りながらそれを考えていた。
夜の聖都の石畳を、影働きの灰色の作業着が走っていく。すれ違う人々が振り返った。いない者のはずの男が、腕章を巻いて全力で駆けている。酒場の前で、酔った男が杯を取り落とした。
角を曲がったところで、衛兵が槍を横にした。
「止まれ。この刻限に何を――」
衛兵の目が、灰原の腕章に落ちた。槍が、わずかに揺れた。
灰原は止まらなかった。槍の柄の下をくぐり抜けた。背中で衛兵が何か叫んだ。聞こえなかった。
耳の奥で、蛭間の声だけが鳴っていた。見えなきゃ、無いのと同じだ。
違う、と灰原は思った。
見えなくても、ある。天井の中の管も、封の裏の口も、広間の七十人も。見えないからといって、無くなりはしない。
地球で、それを一番よく知っていたのは自分だったはずだ。五十一度の天井裏で、誰にも見えない管を一本ずつ直してきた自分だったはずだ。
それなのに、広間の七十人のことを、蛭間に一度も言わなかった。言えば揉めると思った。言わなければ、見えないままでいられると思った。
蛭間の帳面に七十人が載っていないのは、灰原が書かせなかったからだ。
聖都の石畳を抜け、風脈の口へ飛び込む。四つん這いになり、石の管の中を這う。膝が擦りむける。手のひらに砂が食い込む。
東の三番の奥に、自分は口をいくつ残したか。
奥の二つ。そう覚えていたはずだ。
だが、本当にそれだけか。三つ叉の手前にも、一つ掘った気がする。いや、あれは北の十二番だったか。東の三番の入口の脇は。あそこも掘ったのではなかったか。
思い出せない。
思い出せないから、蛭間の班が何をどこまで塞ぐのか、見当がつかない。どの枝が最後に塞がれて、どこで風が行き場を失うのか。
図面があれば。
自分が開けた口を、一つでも書き残していれば。
灰原は歯を食いしばった。
目を凝らした。
風の見える目を、限界まで開いた。石の管の壁の向こうへ、さらにその向こうへ。風脈全体の流れを、一度に見ようとした。
頭の芯が、焼けるように痛んだ。
見えた。
風脈の中を流れる何千本もの線。青と赤と灰色の線が、絡み合いながら天蓋の根元へ向かっている。その中で、東の三番の系統だけが、ゆっくりと色を変えつつあった。
灰原の背中が、ぞっと冷えた。
風見塔の硝子に、いま自分の形がくっきり映っている。そんなことは、もうどうでもよかった。
初めてだった。見つかることを、どうでもいいと思ったのは。
◇
東の三番の入口に近い分かれ道で、灰原は足音を聞いた。
枝道の奥から、封泥の桶を担いだ男たちの声がする。
「主管の口はここか」
「図ではそうなってる。大設計書のとおりだと、東の三番の還気……いや、亀裂の主はここだ」
「でかいな。桶三つはいるぞ」
「職長が溝を掘ってたってのは、どこだ」
「知らん。とにかく図にない穴は全部塞げとさ。総監の言いつけだ」
灰原は、その声の方へ這い寄ろうとした。
だが、分かれ道の先は細かった。大人一人がやっと通れる幅の管が、急な下り坂で奥へ消えている。男たちの声は、その坂のずっと下から反響してきていた。
灰原は迷った。
男たちを止めに行くか。広間へ走るか。
坂の下で、桶を下ろす音がした。
灰原は、広間へ続く枝へ体をねじ込んだ。
止めに行っても、間に合わない。彼らの言葉は、大設計書の図の中にしかない。図にない口が息の道だと、一から説いている暇はない。
それなら、人を出す方が早い。
灰原は這った。
肘が石にぶつかって、血がにじんだ。構わなかった。
風脈の奥から、ネリの声が聞こえた気がした。あたし、冷やし室の炉のことで。今朝、途中で遮った言葉だった。
続きは、夕方に聞く。
そう言ったのは、自分だった。
◇
背後の、ずっと遠くで。
べたり、と重いものが石に貼りつく音がした。
封泥だ。桶三つ分の封泥が、主管の口に塗り込まれていく音。
一度。二度。三度。
音が止んだ。
灰原は、這うのをやめて耳を澄ませた。
何も聞こえない。
風の音が、消えていた。
ついさっきまで管の中を流れていた風の気配が、ふっと途切れている。凪だった。嵐の前の、気味の悪い凪。
それから。
風脈の奥の奥から、低い唸りが湧き上がってきた。
ううう、と。
巨大な獣が喉の奥で唸るような音だった。石の壁が、かすかに震えている。灰原の手のひらの下で、管全体が脈を打ち始めていた。
風の見える目に、東の三番の系統が映った。
青い線が、行き場を失って押し合っていた。押し合いながら、一点へ集まっていく。広間の奥の、三つ叉の先へ。
ガランが指さした、あの継ぎ目へ。
灰原は、また這い始めた。
膝の皮が剥け、石に血の跡が点々と続いた。それでも、管の脈打つ音の方が速かった。




