第十八章 防火ダンパー
広間に転がり込んだとき、油灯の炎が一斉に横を向いていた。
風が吹いているのではない。押されているのだ。部屋じゅうの空気が、目に見えない手でじわじわと押し込まれている。耳の奥が詰まった。唾を飲むと、ぷつりと鳴った。
天井から、細かい砂が降っていた。
「出ろ!」
灰原は叫んだ。
自分の声が、こんなに大きく出るのを初めて聞いた。
「全員、外へ出ろ! 奥の継ぎ目が抜ける!」
広間の七十人が、一斉に顔を上げた。
ガランは、もう動いていた。
広間の出口の前に立ち、人々を一人ずつ押し出している。出口の先は、風溜まりへ下る細い管だ。子どもを抱えた母親。足の悪い年寄り。ボルクとキトが、年寄りの腕を肩に回して引きずっていく。
「急げ、急げ。焦るな。前の者の踵を見て這え」
ガランの声は、いつもと変わらなかった。歌うような、低い声だった。
ネリが、出口の脇で人を数えていた。指を折り、唇を動かしている。
「四十一、四十二……」
灰原は人の流れに逆らって、広間の奥へ走った。
三つ叉の先の壁。古い石が、目に見えて浮き上がっていた。継ぎ目から、砂が噴き出している。石と石の隙間が、呼吸するように開いては閉じる。
閉じない。もう、閉じきらない。
◇
出口の手前の管には、鉄の扉が嵌まっていた。
造り手の時代のものだ。分厚い鉄の板が、管の天井に吊り上げられている。板を吊る鎖は錆びて切れかけ、今は太い木の閂一本で、かろうじて上に留めてあった。
灰原は、それを知っていた。
この広間に初めて食べ物を運んだ日、ガランが教えてくれたのだ。炎止めの扉、と。
地球の言葉で言えば、防火ダンパーだ。
ダクトの中で火事が起きたとき、炎や煙が管を伝って建物じゅうに広がってしまう。それを止めるために、管の途中に鉄の扉を仕込んでおく。普段は開いていて、風を通す。火の熱で留め金が溶けると、扉は自分の重みで落ちて、管を塞ぐ。
見えない場所で、たった一枚。誰にも気づかれずに、建物を守る扉。
この扉が落ちれば、広間と出口の管は切り離される。奥の継ぎ目が抜けても、押し合った風と崩れた石は、出口の管まで届かない。
だが扉を落とせば、広間の側にいる者は出られない。
◇
「七十」
ネリが言った。
「あと二人。……七十一。あと一人、ガラン」
ガランは出口の前で、最後の年寄りの背中を押していた。年寄りが管の中へ這い込む。ネリがその腕を引く。
「ガランも早く!」
そのとき、広間の奥で、石が鳴いた。
ぎい、と。
灰原は振り返った。
三つ叉の先の壁が、ゆっくりと膨らんでいた。石と石の継ぎ目が、一本の黒い線になって走る。線が、枝分かれする。
抜ける。
「ガラン!」
灰原は出口へ走った。
ガランは、出口の前で立ち止まっていた。管の中へ入らず、上を見上げていた。扉を吊る木の閂を。
「ネリ。下がっとれ」
ガランが言った。
「何言ってんの、早く――」
「下がっとれ、と言うとる」
ガランは閂に手をかけた。
灰原は、ガランが何をするつもりか分かった。
扉を落とせば、閂ごと鉄の板が落ちる。だが錆びた鎖は、扉の重みを支えきれず、片側に傾いてしまう。傾いた扉は管を塞ぎきらない。誰かが広間の側から体を押し当てて、扉を真っ直ぐに保たなければならない。
広間の側から。
「俺がやる」
灰原はガランの腕をつかんだ。
「お前さんは、おらんでもええ」
ガランは、灰原の手をそっと外した。
「わしの歌は、ネリが覚えとる。お前さんの頭の中のもんは、誰も覚えとらん。お前さんが死んだら、全部消える」
ガランは笑った。
「書け。今度こそ」
そして、閂を引き抜いた。
◇
鉄の扉が落ちた。
重い音とともに、管の口を塞ぐ。片側が傾いた。ガランはその傾いた側に肩を押し当て、全身の重みで押し戻した。扉が、真っ直ぐに嵌まった。
扉の向こうで、ネリが叫んでいた。鉄を叩く音がした。
その瞬間、広間の奥の壁が抜けた。
轟音。
押し込められていた風が、一気に噴き出した。石が飛び、砂が渦を巻き、油灯が吹き消された。暗闇の中で、灰原の体が床に叩きつけられた。
天井の石が、崩れ落ちてくる。
灰原は、何かに突き飛ばされた。
ガランの手だった。
灰原は広間の隅の壁際へ転がった。その一瞬前まで灰原がいた場所に、大きな石が落ちた。
そして、扉の前にも。
風が、止んだ。
抜けた壁から押し合っていた風が逃げ、系統の中の力が抜けたのだ。広間に、砂の舞う音だけが残った。
◇
灰原は、手探りで石をどけた。
懐中電灯はない。油灯もない。暗闇の中で、指先だけを頼りに、一つずつ。指の爪が割れた。構わなかった。
ガランは、扉の前にいた。
胸から下が、石の下だった。扉に背中を預けたまま、座るような姿勢で。扉は、真っ直ぐに嵌まったままだった。
「……ガラン」
灰原は、ガランの手を握った。
太い指だった。風脈の石を何十年も撫でてきた指。冷たくなり始めていた。
「みんな、出たか」
かすれた声だった。
「出た。七十一人、全員」
「そうか」
ガランは、息を吐いた。長い息だった。
「歌は、紙に書いとけ」
ガランが言った。
「わしの喉は、もう風を通さん」
ガランの唇が、かすかに動いた。
節のある、低い声。最後の歌だった。
「東の七の 梁を越え 北の継ぎ目は――」
そこで、声が途切れた。
灰原は、続きを待った。
続きは、来なかった。
ガランの手から、力が抜けていった。灰原の手の中で、指がゆっくりとほどけた。
灰原は、もう片方の手でガランの顔に触れた。
頬に、砂がこびりついていた。指でそっと払った。髭に絡んだ石の粉も、一つずつ。暗闇で何も見えなかった。それでも、払わずにはいられなかった。
息は、もうなかった。
風の見える目で、灰原はガランを見た。
何も、流れていなかった。
吸う線も、吐く線も。この老人の喉を、何十年も通っていた歌の風は、どこにもなかった。
遠くで、地の底が鳴った。
ごう、と。大息吹炉が、また咳をしたのだ。今度は、昼間より長かった。
暗闇の中で、灰原は動けなかった。
扉の向こうで、鉄を叩く音が続いていた。
◇
どれくらい経ったのか、分からなかった。
扉の向こうから、何人もの手が石を動かす音がした。やがて、扉の脇の隙間から、油灯の光が差し込んだ。
ネリの顔が、隙間から覗いた。
ネリは、ガランを見た。
長いこと、見ていた。声を上げなかった。泣きもしなかった。ただ、唇が白くなるほど噛みしめていた。
それから、灰原を見た。
「さっき外で、総監の衆が騒いでた」
ネリの声は、平らだった。
「職長が溝を掘った口が、東の三番にあるはずだって。どこか分からないから、図にない穴は全部塞げって」
「……」
「おっさんが、どこを開けたか書いてたら。あの人たち、全部塞がなくてよかったんだよね」
灰原は、何も言えなかった。
「どこにも書いてなかった」
ネリが言った。
「あんたの直したとこ、どこにも」
灰原は、自分の手を見下ろした。
ガランの手を握っていた手だった。
ネリが扉の隙間から這い出てきた。ガランの前に膝をつき、その手を両手で包んだ。灰原が握っていたのと同じ手だった。
ネリは、ガランの耳元に口を寄せた。
低い声で、何かを口ずさみ始めた。節のある言葉。三つ叉の右は下りの道。水の鳴く方へ背をかがめ。ガランから覚えた歌だった。一つ、また一つ。風脈の道を、順番になぞっていく。
歌は、東の七の手前で止まった。
ネリも、その先を教わっていなかった。
ネリは歌うのをやめ、ガランの手に額を押しつけた。肩が、一度だけ大きく揺れた。それきり、動かなかった。
耳の奥に、途切れた歌が残っていた。
東の七の、梁を越え。北の継ぎ目は。
その先を知っている者は、もうどこにもいなかった。




