第十九章 赤入れ
ガランは、風溜まりの崖の下に葬られた。
影働きの墓には、名前を刻まない。石を一つ置くだけだ。いない者が死んでも、帳面には何も残らない。だから石にも何も書かない。それが、この谷の千年の決まりだった。
七十一人が、黙って石を囲んだ。
ネリが、石の前で歌った。三つ叉の右は下りの道。水の鳴く方へ背をかがめ。ガランの歌を、覚えているところまで全部。東の七の手前で、歌は止まった。
灰原は、輪の一番外にいた。
誰も、灰原を責めなかった。責めないことが、何より重かった。
祭まで、八日だった。
◇
それから三日、灰原は冷やし室の裏で座り込んでいた。
職長の腕章は外した。現場事務所には行かなかった。蛭間からの使いも来なかった。
炉の音を聞いていた。冷やし室の小さな炉ではない。地の底の、大息吹炉の音だ。日に何度も咳き込む。咳と咳の間が、日ごとに短くなっていく。
灰原は胸ポケットから、黒い野帳を出した。
開いた。
北の蓋から南へ。溝あり。勾配、百分の一。この世界に来た日に書いた一行。下段区の溝の勾配。療院の息吹炉の濾し布の寸法。冷やし室の銅管の長さ。亀裂、五箇所、すべて内向きに百分の一。
そこで、記録は止まっていた。
職長になってからの頁は、白紙だった。
どの口に溝を掘ったか。どこを残して、どこを塞いだか。何も書いていない。書かなかった。書けば誰かが罰を受けると、そう思ったから。
灰原は、白い頁を見つめた。
五年前の、みなと台の天井を思い出した。
嘘の竣工図。図のとおりに穴を開けた業者。破れた冷水管。落ちた水。落ちた天井板。折れた多恵の足。
あのとき、灰原は本当の道筋を知っていた。赤い野帳に書いてあった。書いてあったのに、誰にも見せなかった。
今度は、書いてすらいなかった。
だから、蛭間の班は図のとおりに塞いだ。図にない穴を全部。系統ごと。そして風は行き場を失い、一番弱い継ぎ目に集まった。
嘘の竣工図を出したのは、蛭間だと思っていた。
違った。
黙って直すことは、嘘の竣工図を出すことと同じだった。直したことを誰にも伝えなければ、図はそのまま嘘になる。次の人は、その嘘を信じて穴を開ける。
黙って直せば、誰も傷つかない。
二十五年、それを信じてきた。
その言葉が、喉の奥で音もなく崩れていった。
◇
四日目の夕方、エルナが崖の細道を下りてきた。
二月ぶりだった。外套の裾が、泥で重くなっていた。手に、あの古い紙の巻物を抱えていた。
エルナは灰原の前に立った。灰原は顔を上げなかった。
「ガランさんのことは、聞きました」
エルナは言った。
「私はもう、あなたのために記録を曲げないと言いました。だから、曲げずに伝えに来ました。書き置きの、残りの半分です」
灰原は、ゆっくりと顔を上げた。
エルナは巻物を広げ、指で一行をなぞった。
「門は、来た者を還す。ただし、息ある者のみを」
灰原は、その言葉の意味をすぐには呑み込めなかった。
「息ある者」
「続きがあります。門の前に立つ者は、還る気の鏡に源を見る。源において、なお息ある者のみが、門をくぐることを許される」
エルナは巻物から目を上げた。
「源とは、来た者のいた場所のことだと思います。あなたの国です。そこでまだ息をしている者だけが、還れる」
灰原は、膝の上の野帳を握りしめた。
「……鏡は、どこにある」
「大息吹炉の、還気の主管の奥です。炉の心臓に一番近いところ」
ネリが、いつの間にか冷やし室の戸口に立っていた。
ネリは灰原を見なかった。エルナだけを見て、言った。
「主管の奥なら、道を知ってる。ガランに教わった」
◇
還気の主管は、地の底へ向かって斜めに下っていた。
這い進むほどに、風が強くなる。吸い込まれる風だ。ネリの油灯の炎が、前へ前へと引っ張られる。三人は、その風に背中を押されるようにして下りていった。
やがて、管が開けた。
巨大な円い部屋だった。壁の向こうから、大息吹炉の鼓動が響いてくる。部屋の真ん中で、風が渦を巻いていた。四方の管から吸い込まれた還気が、ここで一つに集まって回っている。
回る風の中心が、鏡のように光っていた。
灰原は、その前に立った。
風の見える目で、渦を覗き込んだ。
光が、像を結んだ。
白い部屋だった。機械の音がする。規則正しい、空気を送る音。寝台に、男が寝ていた。顔に管がつながれ、胸が機械に合わせて上下している。
蛭間だった。
地球の、蛭間だった。白髪は少なく、背中も丸くない。五十八の体のまま、眠り続けている。寝台の脇で、若い女が男の手を握っていた。その手首に、薄桃色の細いリボンが巻いてあった。
息を、している。
機械が、蛭間の代わりに息をしている。
像が揺れ、別の部屋に変わった。
職人控室だった。見覚えのある長机。壁の工程表。部屋の隅の小さな台に、花が供えてある。花の前に、写真立てが一つ。
作業着姿の、自分の顔だった。
何年か前の現場の打ち上げで、誰かが撮った写真だ。照れくさそうに、目を逸らしている。
写真立ての横に、缶コーヒーが一本、供えてあった。
灰原は、息を止めて見ていた。
像が、もう一度揺れた。
ロッカーの列。三段目の、少しゆがんだ扉。扉に貼られていた灰原の名札を、事務の女が指で剥がしていた。足元に、空の段ボール箱が置いてある。
女が、三段目の扉に手をかけた。
そこで、像は風に溶けた。
◇
灰原は、鏡の前に膝をついた。
帰れない。
自分には、もう息がない。あの夜、五十一度の天井裏で、汗が止まったときに終わっていたのだ。
そして蛭間には、まだ息がある。
機械に助けられて、細い息が。
赤い野帳は、段ボール箱に入れられて捨てられる。葉山には、何も届かない。
灰原は、両手で顔を覆った。
背中に、ネリの手が触れた。
何も言わなかった。ただ、手のひらを当てていた。小さな手だった。銀を溶かして継ぎ目に流し込んだ手だった。
灰原は、顔を上げた。
「……話す」
声が、かすれていた。
「全部、話す。聞いてくれるか」
ネリは、黙ってうなずいた。エルナが、帳面を開いた。
◇
灰原は話した。
地球のこと。みなと台のこと。葉山のこと。多恵の足のこと。赤い野帳のこと。
封工で掘った溝のこと。北の十一番の三つ目。北の十二番の一つ目と四つ目。東の三番の奥の二つ。三つ叉の手前の、覚えていない一つ。
全部。
冷やし室に戻ると、灰原は黒い野帳を開いた。
腰袋から赤ペンを抜いた。書こうとした。
インクが、出なかった。とうに乾いていた。
ネリが黙って出ていき、すぐに戻ってきた。手に、小さな皿を持っていた。崖の赤い土を砕いて、水で溶いたものだった。
「紅い墨。これで描ける」
灰原は、ネリの持ってきた細い筆を受け取った。
図面に赤で修正を書き込むことを、赤入れという。最初に描いた線の上から、変わったところを赤で描き足す。何が、いつ、なぜ変わったのか。後から図を開いた誰が見ても分かるように。消しゴムで消さずに、赤で残す。間違えた跡ごと、残す。
灰原は、白紙だった頁に赤い線を引き始めた。
北の十一番、三つ目。溝を掘って開けた。総監の班が封じ直した。
北の十二番、一つ目。同じ。
東の三番、奥の二つ。開けた。総監の班が系統ごと封じた。その結果、三つ叉の先の継ぎ目が抜けた。
東の三番、三つ叉の手前。開けたかどうか、覚えていない。不明。
不明、と書いた赤い字を、灰原は長いこと見ていた。
これが、黙ってきた男の記録だった。
◇
最後に、灰原は記録院の大きな紙を一枚、机に広げた。
エルナが持ってきたものだった。
灰原は筆を取り、紙の一番上に書いた。
竣工図。
その下に、小さく。天蓋ソーヴェル、風脈、還気系統。
そして、紙の隅の欄に、ゆっくりと書いた。
施工者 灰原透。
漢字だった。この世界の誰も読めない字だった。
エルナが、その横に同じ名を、この国の文字で書き添えた。ハイバラ・トオル。
「読み方は、これで合っていますか」
「……合ってる」
灰原は、自分の名前を見下ろした。
嘘の報告に書いた名前と、同じ字だった。
今度は、嘘ではなかった。
ネリが、紙の端を指で押さえた。
「千年祭まで、三日」
ネリが言った。
「世界の竣工図を描くんでしょ。手伝う」




