第二十章 竣工図
「口が、千二百ある」
夜明けの冷やし室で、灰原は言った。
机の上に、記録院の大きな紙が広げてあった。その上に、エルナの投影術の石が置いてある。石の上の空間に、風脈の立体の模型が浮かんでいた。灰原の野帳の書き込みで直した線だ。
天蓋の継ぎ目に沿って、小さな光の点が無数に灯っている。
「総監が封じた口が、六百あまり。まだ封じてない口が、六百足らず。合わせて千二百。この全部が、還気の口か本物の亀裂か、三日で見分ける」
冷やし室の中に、影働きたちが詰めかけていた。七十一人。ボルクとキトが、一番前にいた。ベルタが、療院の看護の女たちを連れて壁際に立っていた。
「どうやって見分けるの」
ネリが聞いた。
灰原は、腰袋から水平器を抜いて掲げた。
「底の傾きだ。造り手が造った還気の口は、全部、内側へ百分の一の坂がついてる。管の中に溜まる水を流すためにな。本物の割れ目は、勝手に走る。傾きなんか揃わない」
影働きたちが、水平器の小さな気泡を見つめた。
「封じた口は、中が見えない。でも封泥は、口の縁に塗ってある。縁の石の傾きなら、外から測れる」
「水平器、一個しかないじゃん」
「だから作る」
ベルタが、前に出た。腕に、細い硝子の管を何十本も抱えていた。療院で薬を量るのに使う管だ。
「療院の倉にあった分、全部持ってきたわ」
灰原は硝子の管に色水を入れ、小さな泡を一つだけ残して両端を蝋で封じた。それを、真っ直ぐに削った木の板に埋め込む。目盛りは、自分の水平器と並べて刻んだ。
昼までに、二十本の水平器ができた。
◇
影働きは、二十の組に分かれた。
一つの組に、水平器が一本。測る者、灯りを持つ者、数字を覚えて走る者。走る者は、測った口の場所と傾きを、冷やし室まで運んでくる。
冷やし室では、エルナが待っていた。
運ばれてきた数字を、エルナが紙に書き込んでいく。灰原が、それを風脈の線の上に置いていく。百分の一なら、還気。傾きがなければ、亀裂。
そして書き込むたびに、エルナは聞いた。
「測ったのは、誰ですか」
「北の組の、ドゥルとマヤ」
「東の組の、キトと、トマの母ちゃん」
エルナは、その名前を紙の隅の欄に書き込んでいった。
施工者の欄だった。
教会の布告で消された名前も、一度も帳面に載ったことのない名前も。エルナは一つずつ、真っ直ぐな字で書いた。
ボルクが、書き込まれた自分の名を覗き込んで、鼻をすすった。
「また消されるかもしれねえのに」
「消されても、書きます」
エルナは筆を止めずに言った。
「消されたら、また書きます。何度でも。書いた人がいたことは、消せませんから」
◇
ガランの歌が、役に立った。
ネリが覚えている歌を、エルナが一節ずつ書き起こしていく。三つ叉の右は下りの道。水の鳴く方へ背をかがめ。歌の通りに這えば、地図にない枝道に出る。その枝道の奥に、まだ誰も知らない口があった。
歌が案内した口を測る。百分の一。還気だった。
「ガランの歌、合ってたよ」
戻ってきた組の若者が、息を切らせて言った。
「全部、歌のとおりだった。曲がり角の数まで」
ネリは、黙ってうなずいた。
それから、エルナの隣に座った。
「あたしも、書きたい」
エルナは、ネリの顔を見た。
「字は」
「隠れてたあいだ、少しだけ教わった。覚えてる」
ネリが言ったのは、エルナがこっそり東の三番の広間に送っていた、手習いの紙のことだった。灰原は、それを知らなかった。
エルナは筆をネリに渡し、その手の上から自分の手を添えた。
ネリは、施工者の欄に自分の名を書いた。
大きく、少し曲がった字だった。
ネリ。
家の名はない。風溜まりの、とも書かなかった。ただ、ネリ、とだけ。
灰原は、その字を見ていた。
まっすぐではなかった。だが、誰にも消せない字だった。
昼過ぎ、ベルタが療院からパンと水を運ばせてきた。
籠を抱えて一番に駆け込んできたのは、小さな女の子だった。療院の病棟の、一番手前の寝台にいた子だ。頬がすっかり赤みを取り戻し、髪を二つに結んでいた。
女の子は机の上の大きな紙を覗き込み、それから灰原の顔を見上げた。
「天井のおじさんの名前、ここに書いてある?」
灰原は少し迷ってから、紙の隅の欄を指さした。
灰原透。
女の子は眉を寄せた。
「読めない」
「ハイバラ・トオル、と読みます」
エルナが、横から言った。
女の子は、口の中でその音を何度か転がした。
「ハイバラ・トオル」
それから、にっと笑った。
「覚えた」
灰原は、何も言えなかった。
喉の奥が熱かった。九十一歳の老女の声が、遠くで聞こえた気がした。直してくれた人の名前、知りたかったねえ。
◇
二日目の夜、灰原は一人で総監の現場事務所へ行った。
蛭間は、工程表の前に立っていた。
工程表の横棒は、ほとんど全部塗りつぶされていた。残りは一本だけ。祭の日の、最後の封。
「何の用だ」
蛭間は振り向かなかった。
「写し絵を、見せてください」
「断る」
「総監が封じた六百の口のうち、百あまりが測れません。封泥が分厚すぎて、縁の傾きが分からない。総監の写し絵には、封じる前の口が写ってる。それがあれば、全部見分けられる」
「見分けてどうする。祭の日に、全部開けるつもりか」
「還気の口だけを」
「検分は明日だ。祭は明後日だ」
蛭間の声が、硬くなった。
「工期を潰す気か」
灰原は、一歩前に出た。
「東の三番で、ガランが死にました」
蛭間の肩が、わずかに動いた。
「七十一人は、全員出ました。ガランが、炎止めの扉を体で押さえて」
「……」
「あそこに影働きはいないと、あんたは言った。俺も、いると帳面に書かせなかった。だから死んだ。二人で殺した」
蛭間は何も言わなかった。
工程表の最後の一本を、見ていた。
「もう一つ」
灰原は、息を吸った。
「あんたは、向こうで生きてます」
蛭間が、ゆっくりと振り向いた。
「炉の奥の鏡で、見ました。白い部屋で、機械があんたの代わりに息をしてる。娘さんが、手を握ってた」
蛭間の顔から、血の気が引いていった。
「俺は、死んでました。写真が、供えてあった」
事務所の中が、静まり返った。
油灯の火が、揺れた。
蛭間は口を開いた。何かを言おうとした。言葉は出なかった。蛭間の口が、閉じた。
灰原は、その仕草を知っていた。
自分のものと、まったく同じだった。
「……帰れ」
蛭間は、やっとそれだけ言った。
「写し絵は、渡さん」
◇
三日目の夜が明けるころ、竣工図はほとんど埋まっていた。
千二百の口のうち、千百あまり。還気の口と本物の亀裂が、赤と黒で塗り分けられていた。施工者の欄には、七十三の名前が並んでいた。七十一人の影働きと、灰原。そして欄の一番上に、エルナが最初に書いた名前。
ガラン。
歌で道を残した男の名前だった。
空いているのは、蛭間の分厚い封泥の下の口と、もう一箇所だった。
東の七番。
天蓋の一番高い梁のあたりだ。ガランの最後の歌が指していた場所。東の七の梁を越え、北の継ぎ目は。その先を、誰も知らない。
測りに行く組を出す時間は、もうなかった。天蓋の梁は高く、足場もない。往復だけで丸一日かかる。
「大設計書を見る」
灰原は言った。
エルナが、大設計書の写しを広げた。
東の七番の梁のあたりに、一つだけ、小さな口が描かれていた。設計図の中で数少ない、空気を通すための口だ。造り手が、最初から開けるつもりで描いた口。
灰原は、それを竣工図に写した。
還気。開けてよし。
筆を置いたとき、指の先に何かが引っかかった気がした。
設計図から写した線。測っていない線。
だが、時間がなかった。
冷やし室の外で、聖堂の鐘が鳴り始めた。
高く澄んだ、祝いの鐘だった。千年祭の朝を告げる鐘。
封蝋の儀まで、あと半日だった。




