↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天蓋の点検口 〜転生した空調設備工は、世界の竣工図を描く〜  作者: もしものべりすと


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
21/24

第二十一章 サージング

 聖堂前の広場は、人で埋まっていた。


 石畳の上に、白い花びらが撒かれている。屋台の甘い匂い。楽隊の太鼓。千年に一度の祭の朝を、聖都じゅうの人間が待ちわびていた。


 だが、誰もが汗をかいていた。


 朝から暑かった。この数日、炉の咳が続くたびに、聖都の暑さは増していた。人々は扇で顔をあおぎながら、聖堂の大階段を見上げていた。


 階段の上に、大司教オーレンが立っていた。


 白く長い髭の老人だった。金糸の法衣を纏い、手に大きな蝋の塊を捧げ持っている。その脇に、白い長衣の蛭間が控えていた。


 階段の中ほどに、小さな石の台がある。


 台の上に、丸い口が一つ開いていた。聖堂の床を貫いて、地の底の大息吹炉へ通じる口だ。天蓋の頂から尖塔の中を通って下りてくる、一番太い還気の道の最後の出口だった。


 正午に、大司教がそこへ蝋を注ぐ。総監が手をかざす。それで封工は完成する。


 灰原は、人垣の後ろに立っていた。


 腕に、巻いた竣工図を抱えていた。隣に、投影術の石を握ったエルナがいた。


「行きます」


 エルナが言った。


 灰原は、うなずいた。


◇


 灰原は人垣をかき分けて、階段の下に出た。


 衛兵が槍を構えた。灰原は構わず階段を三段上がり、振り返って、竣工図を広げた。


 大きな紙が、熱い風にはためいた。


 広場の何千という目が、灰原を見た。


 灰原の膝が、震えていた。


 朝礼で声を張ったことは、二十五年で一度もなかった。現場で手を挙げたこともなかった。元請に逆らったことは、あの回廊の一度きりだった。


 喉が乾いていた。言葉が、汗と一緒に乾いていきそうだった。


 灰原は、口を開いた。


 閉じなかった。


「俺は、灰原透」


 声が、広場に響いた。


「空調設備工だ」


 広場が、ざわめいた。誰も、その言葉の意味を知らなかった。


「建物の空気を回す職人だ。天井の中の管を通して、部屋に風を送って、戻ってきた風をまた機械に返す。それが仕事だ」


 灰原は、竣工図を高く掲げた。


「この天蓋は、一つの建物だ。大息吹炉が心臓で、風脈が管だ。天蓋の亀裂だと言われてきた口の多くは、亀裂じゃない。炉に風を戻すための、還気の口だ」


 ざわめきが、大きくなった。


「総監の封工は、その口を塞いできた。炉は息を吸えなくなって、咳き込んでる。今日、最後の口を塞げば、炉は止まる」


 エルナが、投影術の石を高く掲げた。


 石が光った。


 広場の上の空に、光の線が浮かび上がった。巨大な天蓋と、その下を走る風脈の網。千二百の口が、赤と黒の点で灯っていた。


 人々が、息を呑んで見上げた。


「赤い点は、還気の口だ。底に百分の一の傾きがある。造り手がわざとつけた傾きだ。黒い点は、本物の割れ目だ。傾きがない。黒い口は、閉じたままでいい。赤い口だけを開ける」


 灰原は、紙の隅を指さした。


「この図を描いたのは、影働きだ。七十三人。全員の名前が、ここに書いてある」


◇


「異端だ!」


 階段の上で、司祭の一人が叫んだ。


「聖典にない図を掲げるとは。造り手の御業を穢す気か!」


「その女を捕らえよ。記録院の者が、偽りの記録を広場に映している!」


 衛兵が、エルナに殺到した。


 エルナは石を放さなかった。両腕をつかまれ、引きずられながら、石を胸に抱え続けた。光の天蓋が、空で揺れた。


「記録者、エルナ・ロウエン!」


 エルナが叫んだ。


「この記録は、私の名で書いた! 消すなら、私の名ごと消しなさい!」


 衛兵の一人が、エルナの手から石をもぎ取った。


 空の光が、ふっと消えた。


 エルナの姿が、人垣の向こうへ引きずられていった。


 灰原は追おうとした。


 その腕を、大司教の声が止めた。


「待て」


 オーレンが、階段を一段下りていた。


 老人の目が、灰原の竣工図を見ていた。


「職人よ。わしがまだ子どもの頃、天蓋の縁の村に住んでおった」


 オーレンは静かに言った。


「ある朝、天蓋に割れ目が開いた。灰が降ってきた。灰色の、甘い匂いのする灰じゃった。村の者は、皆それを吸って死んだ。わしの母も、妹も。わしだけが、井戸の底に隠れて助かった」


 広場が、静まり返った。


「割れ目は、開けてはならぬ。千年、教会はそれを守ってきた。そなたの言う赤と黒とやらを、わしはどう信じればよい」


 灰原は、言葉を探した。


 探しているあいだに、足元が揺れた。


◇


 地の底から、轟音が突き上げてきた。


 大息吹炉の咳だった。今までで一番大きかった。聖堂の窓の色硝子が震え、屋台の鍋が石畳に転がった。人々が悲鳴を上げた。


 広場じゅうの給気の口から、風が逆に吸い込まれた。旗が裂けた。人々の帽子が、足元の格子へ吸い寄せられた。


 灰原は、竣工図を握りしめた。


 時間がない。


 灰原は、大きく息を吸った。


 そして、歌った。


「三つ叉の 右は下りの道」


 ガランの歌だった。


 広場の端の風脈の口で、ボルクが顔を上げた。ボルクが続きを歌った。水の鳴く方へ、背をかがめ。その声が、石の管の中へ吸い込まれていった。


 管の奥で、誰かが続きを歌った。さらに奥で、また誰かが。


 歌が、風脈を伝って走っていった。


 合図だった。


 風脈の中に散っていた二十の組が、竣工図の赤い口へ向かって這い出した。封泥を剥がし、総監の封を鑿で砕く。一つ。また一つ。


 灰原は、風の見える目を見開いた。


 頭の芯が焼けるように痛んだ。構わなかった。


◇


 赤い点が、一つずつ息を吹き返していった。


 北の口が吸った。東の口が吸った。南の大枝の奥の口が、ガランの歌が案内した口が、吸った。


 広場に、風が吹いた。


 冷たい風だった。


 石畳の熱を撫でて、人々の汗ばんだ額を撫でて、天蓋の方へ吸い上げられていく。吸い上げられた熱い空気の代わりに、どこかの給気の口から、冷えた風が降りてくる。


「……涼しい」


 誰かが言った。


 子どもが、風に向かって両手を広げた。年寄りが、目を閉じて顔を上げた。屋台の女が、扇を下ろした。


 炉の咳が、止まった。


 地の底から、低い音が響いてきた。咳ではない。ゆっくりとした、規則正しい音だった。


 すう、と吸って。


 少し止まって。


 ふう、と吐く。


 広場のあちこちで、歓声が上がった。


 灰原の目には、天蓋じゅうの風の線が見えていた。赤い口から吸い込まれ、風脈を通って炉へ戻り、冷やされてまた吐き出される。千年前に造り手が描きたかった流れが、いま初めて、目の前で回っていた。


 回っている。


 直っている。


 灰原の胸の奥で、何かが大きく膨らんだ。


 あと一箇所。


 天蓋の一番高い梁。東の七番。竣工図の、最後の赤い点。


「東の七番を開けろ!」


 灰原は叫んだ。


 声が、歌に乗って風脈を走っていった。東の七番へ向かったのは、ネリの組だった。高い梁を一番うまく登れるのは、ネリだった。


 しばらくして、天蓋の高みで、小さな音がした。


 封泥が剥がれる音だった。


◇


 次の瞬間、天蓋の高みから、灰色のものが降ってきた。


 細かい粉だった。光の中で、雪のようにきらきらと舞っていた。


 甘い匂いがした。


 広場の端で、誰かが咳き込んだ。もう一人。もう一人。


「灰だ」


 オーレンの声が、震えていた。


「灰じゃ……」


 灰原の目に、東の七番の口が見えた。


 開けた口から、天蓋の外の灰色の線が流れ込んでいた。内へ向かう還気の線ではない。外から吹き込む線だった。


 割れ目だった。


 本物の。


 そして地の底で、炉の規則正しい息が乱れた。


 灰が混じった風を吸い込んだ炉が、むせた。吸う力と吐く力が、急に噛み合わなくなった。風脈の中の風が、前へ後ろへと激しく揺さぶられ始めた。


 サージングだった。


 送風機や圧縮機が、吸い込む空気と送り出す空気の釣り合いを崩すと起きる。風が行ったり来たり脈を打ち、機械そのものが暴れて揺れる。放っておけば、羽根が折れる。軸が飛ぶ。機械が壊れる。


 広場の旗が、狂ったように右へ左へはためいた。天蓋の結晶が、きしんだ音を立てた。色硝子が一枚、割れて落ちた。


 人々が逃げ惑った。


 オーレンが叫んだ。


「封じよ! 総監、すべて封じよ! やはり開けてはならなかったのじゃ!」


 灰原は、竣工図を見下ろした。


 東の七番の赤い点。


 自分で測っていない点。


 大設計書から、写した点。


 灰原の竣工図の、たった一箇所が嘘だった。


 設計図から写した、一箇所が。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。