第二十一章 サージング
聖堂前の広場は、人で埋まっていた。
石畳の上に、白い花びらが撒かれている。屋台の甘い匂い。楽隊の太鼓。千年に一度の祭の朝を、聖都じゅうの人間が待ちわびていた。
だが、誰もが汗をかいていた。
朝から暑かった。この数日、炉の咳が続くたびに、聖都の暑さは増していた。人々は扇で顔をあおぎながら、聖堂の大階段を見上げていた。
階段の上に、大司教オーレンが立っていた。
白く長い髭の老人だった。金糸の法衣を纏い、手に大きな蝋の塊を捧げ持っている。その脇に、白い長衣の蛭間が控えていた。
階段の中ほどに、小さな石の台がある。
台の上に、丸い口が一つ開いていた。聖堂の床を貫いて、地の底の大息吹炉へ通じる口だ。天蓋の頂から尖塔の中を通って下りてくる、一番太い還気の道の最後の出口だった。
正午に、大司教がそこへ蝋を注ぐ。総監が手をかざす。それで封工は完成する。
灰原は、人垣の後ろに立っていた。
腕に、巻いた竣工図を抱えていた。隣に、投影術の石を握ったエルナがいた。
「行きます」
エルナが言った。
灰原は、うなずいた。
◇
灰原は人垣をかき分けて、階段の下に出た。
衛兵が槍を構えた。灰原は構わず階段を三段上がり、振り返って、竣工図を広げた。
大きな紙が、熱い風にはためいた。
広場の何千という目が、灰原を見た。
灰原の膝が、震えていた。
朝礼で声を張ったことは、二十五年で一度もなかった。現場で手を挙げたこともなかった。元請に逆らったことは、あの回廊の一度きりだった。
喉が乾いていた。言葉が、汗と一緒に乾いていきそうだった。
灰原は、口を開いた。
閉じなかった。
「俺は、灰原透」
声が、広場に響いた。
「空調設備工だ」
広場が、ざわめいた。誰も、その言葉の意味を知らなかった。
「建物の空気を回す職人だ。天井の中の管を通して、部屋に風を送って、戻ってきた風をまた機械に返す。それが仕事だ」
灰原は、竣工図を高く掲げた。
「この天蓋は、一つの建物だ。大息吹炉が心臓で、風脈が管だ。天蓋の亀裂だと言われてきた口の多くは、亀裂じゃない。炉に風を戻すための、還気の口だ」
ざわめきが、大きくなった。
「総監の封工は、その口を塞いできた。炉は息を吸えなくなって、咳き込んでる。今日、最後の口を塞げば、炉は止まる」
エルナが、投影術の石を高く掲げた。
石が光った。
広場の上の空に、光の線が浮かび上がった。巨大な天蓋と、その下を走る風脈の網。千二百の口が、赤と黒の点で灯っていた。
人々が、息を呑んで見上げた。
「赤い点は、還気の口だ。底に百分の一の傾きがある。造り手がわざとつけた傾きだ。黒い点は、本物の割れ目だ。傾きがない。黒い口は、閉じたままでいい。赤い口だけを開ける」
灰原は、紙の隅を指さした。
「この図を描いたのは、影働きだ。七十三人。全員の名前が、ここに書いてある」
◇
「異端だ!」
階段の上で、司祭の一人が叫んだ。
「聖典にない図を掲げるとは。造り手の御業を穢す気か!」
「その女を捕らえよ。記録院の者が、偽りの記録を広場に映している!」
衛兵が、エルナに殺到した。
エルナは石を放さなかった。両腕をつかまれ、引きずられながら、石を胸に抱え続けた。光の天蓋が、空で揺れた。
「記録者、エルナ・ロウエン!」
エルナが叫んだ。
「この記録は、私の名で書いた! 消すなら、私の名ごと消しなさい!」
衛兵の一人が、エルナの手から石をもぎ取った。
空の光が、ふっと消えた。
エルナの姿が、人垣の向こうへ引きずられていった。
灰原は追おうとした。
その腕を、大司教の声が止めた。
「待て」
オーレンが、階段を一段下りていた。
老人の目が、灰原の竣工図を見ていた。
「職人よ。わしがまだ子どもの頃、天蓋の縁の村に住んでおった」
オーレンは静かに言った。
「ある朝、天蓋に割れ目が開いた。灰が降ってきた。灰色の、甘い匂いのする灰じゃった。村の者は、皆それを吸って死んだ。わしの母も、妹も。わしだけが、井戸の底に隠れて助かった」
広場が、静まり返った。
「割れ目は、開けてはならぬ。千年、教会はそれを守ってきた。そなたの言う赤と黒とやらを、わしはどう信じればよい」
灰原は、言葉を探した。
探しているあいだに、足元が揺れた。
◇
地の底から、轟音が突き上げてきた。
大息吹炉の咳だった。今までで一番大きかった。聖堂の窓の色硝子が震え、屋台の鍋が石畳に転がった。人々が悲鳴を上げた。
広場じゅうの給気の口から、風が逆に吸い込まれた。旗が裂けた。人々の帽子が、足元の格子へ吸い寄せられた。
灰原は、竣工図を握りしめた。
時間がない。
灰原は、大きく息を吸った。
そして、歌った。
「三つ叉の 右は下りの道」
ガランの歌だった。
広場の端の風脈の口で、ボルクが顔を上げた。ボルクが続きを歌った。水の鳴く方へ、背をかがめ。その声が、石の管の中へ吸い込まれていった。
管の奥で、誰かが続きを歌った。さらに奥で、また誰かが。
歌が、風脈を伝って走っていった。
合図だった。
風脈の中に散っていた二十の組が、竣工図の赤い口へ向かって這い出した。封泥を剥がし、総監の封を鑿で砕く。一つ。また一つ。
灰原は、風の見える目を見開いた。
頭の芯が焼けるように痛んだ。構わなかった。
◇
赤い点が、一つずつ息を吹き返していった。
北の口が吸った。東の口が吸った。南の大枝の奥の口が、ガランの歌が案内した口が、吸った。
広場に、風が吹いた。
冷たい風だった。
石畳の熱を撫でて、人々の汗ばんだ額を撫でて、天蓋の方へ吸い上げられていく。吸い上げられた熱い空気の代わりに、どこかの給気の口から、冷えた風が降りてくる。
「……涼しい」
誰かが言った。
子どもが、風に向かって両手を広げた。年寄りが、目を閉じて顔を上げた。屋台の女が、扇を下ろした。
炉の咳が、止まった。
地の底から、低い音が響いてきた。咳ではない。ゆっくりとした、規則正しい音だった。
すう、と吸って。
少し止まって。
ふう、と吐く。
広場のあちこちで、歓声が上がった。
灰原の目には、天蓋じゅうの風の線が見えていた。赤い口から吸い込まれ、風脈を通って炉へ戻り、冷やされてまた吐き出される。千年前に造り手が描きたかった流れが、いま初めて、目の前で回っていた。
回っている。
直っている。
灰原の胸の奥で、何かが大きく膨らんだ。
あと一箇所。
天蓋の一番高い梁。東の七番。竣工図の、最後の赤い点。
「東の七番を開けろ!」
灰原は叫んだ。
声が、歌に乗って風脈を走っていった。東の七番へ向かったのは、ネリの組だった。高い梁を一番うまく登れるのは、ネリだった。
しばらくして、天蓋の高みで、小さな音がした。
封泥が剥がれる音だった。
◇
次の瞬間、天蓋の高みから、灰色のものが降ってきた。
細かい粉だった。光の中で、雪のようにきらきらと舞っていた。
甘い匂いがした。
広場の端で、誰かが咳き込んだ。もう一人。もう一人。
「灰だ」
オーレンの声が、震えていた。
「灰じゃ……」
灰原の目に、東の七番の口が見えた。
開けた口から、天蓋の外の灰色の線が流れ込んでいた。内へ向かう還気の線ではない。外から吹き込む線だった。
割れ目だった。
本物の。
そして地の底で、炉の規則正しい息が乱れた。
灰が混じった風を吸い込んだ炉が、むせた。吸う力と吐く力が、急に噛み合わなくなった。風脈の中の風が、前へ後ろへと激しく揺さぶられ始めた。
サージングだった。
送風機や圧縮機が、吸い込む空気と送り出す空気の釣り合いを崩すと起きる。風が行ったり来たり脈を打ち、機械そのものが暴れて揺れる。放っておけば、羽根が折れる。軸が飛ぶ。機械が壊れる。
広場の旗が、狂ったように右へ左へはためいた。天蓋の結晶が、きしんだ音を立てた。色硝子が一枚、割れて落ちた。
人々が逃げ惑った。
オーレンが叫んだ。
「封じよ! 総監、すべて封じよ! やはり開けてはならなかったのじゃ!」
灰原は、竣工図を見下ろした。
東の七番の赤い点。
自分で測っていない点。
大設計書から、写した点。
灰原の竣工図の、たった一箇所が嘘だった。
設計図から写した、一箇所が。




