第二十二章 竣工検査
蛭間は、手をかざさなかった。
大司教の叫びを背に、蛭間は階段を下りてきた。脇に、木箱を抱えていた。あの写し絵の箱だ。部下に事務所から運ばせていたらしい。
蛭間は灰原の前で立ち止まり、箱を石畳に置いた。
蓋を開ける。何百枚もの石の板。蛭間は迷わず、一番古い束を引き抜いた。
「東の七番」
蛭間は、一枚の写し絵を灰原の胸に押しつけた。
「俺がこっちで、最初の月に封じた割れ目の一つだ」
灰原は写し絵を見た。
天蓋の高い梁の継ぎ目に、ぎざぎざの裂け目が口を開けていた。脇に小さな板。七年前の日付。そして蛭間の字。
東の七番。北から二つ目の継ぎ目。傾き、なし。灰の匂い、あり。済。
「本物だ。測った。匂いもした。だから塞いだ」
蛭間は、もう一枚を抜いた。
「その隣にも、口があった」
二枚目の写し絵には、梁の向こう側の継ぎ目が写っていた。細長い、整った口。脇の板に、蛭間の字。
東の七番。北の継ぎ目。傾き、百分の一。図になし。亀裂と判断、封。済。
灰原の頭の中で、途切れた歌が鳴った。
東の七の、梁を越え。北の継ぎ目は。
「……北の継ぎ目だ」
灰原は呟いた。
「ガランは、それを歌ってたんだ。東の七の梁を越えた北の継ぎ目が、本当の還気の口だ。設計図に描いてあった口の場所は、造るときに割れて、使えなくなった。だから造り手は、梁の向こうに口を移した。設計変更だ」
蛭間は、灰原の顔を見た。
「お前の図と、俺の写真で、一枚か」
「一枚です」
灰原は、竣工図と写し絵を並べて持った。
片方だけでは、嘘が残る。両方を重ねて、初めて本当の図になる。
◇
灰原は、広場の端の風脈の口へ走った。
口に顔を突っ込み、叫んだ。
「ネリ! 東の七番の割れ目は塞げ! 北の継ぎ目が還気だ! 梁の向こうだ!」
声が、管の中を走っていった。ボルクが歌に乗せて繰り返す。その先で、また誰かが。
しばらくして、風脈の奥から、かすかな歌が返ってきた。
ネリの声だった。
灰原は、風の見える目を天蓋の高みへ向けた。
東の七番。割れ目の口に、封泥が押し込まれていく。灰色の線が、細くなって途切れた。ネリが、自分の手で塞いだのだ。
だが、梁の向こうの北の継ぎ目は、白い空白のままだった。七年前の蛭間の封が、分厚くかかっている。剥がしている時間はない。
灰原が目を凝らしたとき、梁の上に、小さな青い炎が灯った。
火吹き筒の炎だった。
ネリが、銅管を抱えて梁にまたがっていた。割れ目の脇の、まだ生きている小さな口から、梁を回り込んで北の継ぎ目の裏へ。封の後ろにある本物の還気の管へ、銅管で道をつなごうとしている。
仮設の管だった。
ネリの足元に、豚の膀胱の袋が二つ、ぶら下がっていた。眠り沼のガスだ。
灰原は、ふいに思い出した。
あの朝、東の三番の広間で、ネリが言いかけた言葉。あたし、冷やし室の炉のことで。
ネリは炉の予備の銅管とろう付けの道具一式を、いつでも持ち出せるように袋にまとめていたのだ。もしものときのために。誰にも言われずに。
それを、灰原に言おうとしていた。
灰原は、聞かなかった。
梁の上で、青い炎が継ぎ目を包んだ。銀が溶けて、隙間に吸い込まれていく。中に燃えない気体を流しながら。管の内側が、黒く焦げないように。
誰にも見えない、管の内側まで。
◇
だが、炉の暴れは収まらなかった。
風脈じゅうの風が、まだ前後に揺さぶられていた。広場の旗が、狂ったようにはためき続けていた。
灰原は、聖堂の尖塔を見上げた。
天蓋の頂まで届く、結晶の尖塔。その中を、一番太い還気の道が通っている。天蓋の一番高いところに溜まった熱い空気を、まとめて炉へ戻す道だ。暖かい空気は、上へ昇る。だから一番大きな戻り口は、一番高いところにある。
その道が、まだ塞がれていた。
「頂の口は、あんたが封じたんですね」
灰原が言うと、蛭間はうなずいた。
「三年前だ。俺の一番でかい仕事だった」
「開けます」
「俺の封だぞ。お前には剥がせん」
「だから、一緒に来てください」
蛭間は、灰原を見た。
それから、黙って長衣の裾をたくし上げた。
◇
尖塔の中には、螺旋の梯子が、どこまでも続いていた。
二人は登った。足元で、塔全体が揺れていた。炉の暴れが、石を伝ってくる。蛭間の息が荒くなった。灰原は何度か足を止め、蛭間が追いつくのを待った。
梯子の終わりに、四角い蓋があった。
古い鉄の蓋だった。周りの石に、文字が刻んである。エルナが前に教えてくれた、古い言葉だった。天の扉。
大設計書に、ただ一つ描かれていた蓋。
灰原は、その蓋を見上げた。
点検口だ、と思った。
天井に開けた、四角い蓋。後から誰かが中を見るための入口。造り手は、この世界の一番高いところに、点検口をつけていたのだ。いつか誰かが開けて、中を確かめるように。
千年、誰も開けなかった。
蝶番が、錆びて固まっていた。灰原は腰袋からドライバーを抜き、蝶番を留めているボルトを一本ずつ緩めた。最初の一本が抜けた。
灰原は、それを蛭間に差し出した。
「ボルト、持ってください」
蛭間は、手のひらを出した。
黙って、受け取った。
二本目。三本目。蛭間の手のひらに、錆びたボルトが溜まっていく。地球の現場で、新人の手元がやる仕事だった。元請の所長が、下請けの職人の手元をやっていた。
最後のボルトが抜けた。
二人で、蓋を押し上げた。
◇
蓋の向こうは、真っ白だった。
何もない。風も、熱も、匂いもない。頂の還気の口を覆う、蛭間の封だった。巨大な白い空白が、目の前に壁のように立ちはだかっていた。
灰原はドライバーを当てた。刃先が、滑った。厚すぎる。
「解き方なんぞ、知らん」
蛭間が言った。
「封じたことしかない。開けたことは、一度もない」
「中を、見てください」
灰原は言った。
「あんたが閉じたものを。見えなくしたものを」
蛭間は、白い空白を見つめた。
長いこと、黙っていた。
足元で、塔が揺れた。下の広場から、人々の悲鳴が上がってくる。
「……知ってた」
蛭間の声は、かすれていた。
「炉の風が細るのを。毎月測って、毎月見ないふりをした。親方の会社が潰れたのも、俺のせいだと分かってた。娘の式も。全部、見ないふりをした。見なければ、無いのと同じだと思ってた」
蛭間は、白い空白に手を伸ばした。
手のひらが、触れた。
「無くなんか、なかった」
白い空白に、ひびが走った。
ひびは枝分かれし、広がり、やがて白い壁全体が細かく砕けた。砕けた欠片が、雪のように舞って消えていく。
その奥に、巨大な石の管の口が現れた。
天蓋の頂に溜まっていた熱い空気が、轟音とともに口へ流れ込んだ。
◇
灰原は、天の扉から身を乗り出した。
天蓋の頂から、世界全体が見下ろせた。白い聖都。南の下段区。谷底の風溜まり。それらを結ぶ、無数の風の線。
風の見える目を、最後まで開いた。
頭が割れそうだった。構わなかった。
「北の系統、全部開けろ!」
灰原は叫んだ。
「東の二番、閉じたまま! 南の大枝、奥の三つを開けろ! 下段区の給気、全部開けろ!」
声が、尖塔の還気の道を伝って、地の底へ落ちていった。地の底から、歌が返ってきた。風脈を走る歌が、灰原の指示を街じゅうに運んでいった。
街の人々が、窓を開け始めた。誰に言われたのでもなかった。影働きの歌が聞こえる方へ、戸を開け、窓を開けた。
炉の暴れが、少しずつ小さくなっていった。
前へ後ろへと揺さぶられていた風が、一つの向きに揃い始めた。
すう、と吸って。
少し止まって。
ふう、と吐く。
大息吹炉が、息をしていた。
満ちて、息をしていた。
天蓋の下の熱が、ゆっくりと頂へ吸い上げられていく。代わりに、冷たい風が街へ降りていく。灰原の目の前で、千年分の淀んだ線が一本また一本とほどけていった。
蛭間が、灰原の隣で天蓋を見下ろしていた。
手のひらに、錆びたボルトを握ったままだった。
◇
二人が広場へ下りたとき、人々は空を見上げていた。
天蓋の結晶が、澄んでいた。淀んだ熱で白く曇っていた結晶が、本来の透明を取り戻していた。網の目の向こうに、千年ぶりに、高い光が差していた。
大司教オーレンが、階段の上に立っていた。
灰原は、竣工図と蛭間の写し絵を、オーレンの前に差し出した。
「東の七番に灰を入れたのは、俺の間違いです。測らずに、設計図から写しました」
灰原は言った。
大勢の前で、自分の間違いを口にしたのは、初めてだった。
「総監の写真で、それが分かりました。黒い点は、全部閉じたままにします。蝋を落としてください。本物の割れ目にだけ」
オーレンは、竣工図を長いこと見ていた。
赤い点。黒い点。施工者の欄の、七十三の名前。
それから手にしていた蝋の塊を、石の台の口ではなく竣工図の端に向けて傾けた。
熱い蝋が、紙の隅に一滴落ちた。
オーレンは、その上に指輪の印を押した。
封蝋だった。教会が正式な文書に押す、封の印。
「封蝋の儀は、本日をもって改める」
オーレンの声が、広場に響いた。
「教会は、割れ目に蝋を落とし、この図に印を押す。そしてこの図を造った者たちの名を、二度と消さぬ。……竣工の儀と、呼ぶがよかろう」
広場に、どよめきが走った。
衛兵に連れられて、エルナが階段の下に戻ってきた。オーレンが、顎で衛兵に合図をした。縄が解かれた。エルナは竣工図の前に進み出て、記録者の欄に、自分の名を書いた。
風脈の口から、煤だらけのネリが這い出てきた。
オーレンは、法衣の懐から古い鉄の鍵を取り出した。天の扉の鍵だった。千年、聖堂の奥に仕舞われていた鍵だ。
オーレンはそれを、ネリの手に載せた。
「次に開ける者に」
ネリは鍵を握りしめた。
何も言わなかった。目の縁が、赤かった。
灰原は、施工者の欄の、自分の名前を見ていた。
そのとき、聖堂の階段の石の台が、低く鳴った。
灰原は台に歩み寄り、口の奥を覗き込んだ。
はるか地の底、炉の心臓に一番近い鏡の部屋で、風の渦がゆっくりと形を変えていた。四角く。縦に長く。人ひとりがくぐれるほどの大きさに。
扉の形だった。
灰原の隣で、蛭間が自分の手を見下ろしていた。
錆びたボルトを握る指の先が、透け始めていた。




