第二十三章 引き渡し
鏡の部屋へ下りる還気の主管は、もう灰原の背中を押さなかった。
風が、穏やかだった。吸って、止まって、吐く。炉の息に合わせて、管の中の風がゆっくりと行き来している。這い進む二人の頬を、ぬるい風が撫でていった。
蛭間は、灰原の後ろを這っていた。
ときどき止まって、自分の手を見た。指の先だけではなかった。手首のあたりまで、向こうの石が透けて見え始めていた。
ネリとエルナが、少し離れてついてきていた。
管が開けた。
円い部屋の真ん中で、風の渦が扉の形をしていた。
縦に長い四角。人ひとりがくぐれるほどの大きさ。渦の向こうは、白く光っていた。光の奥から、かすかな音が聞こえてくる。
規則正しい、電子の音だった。
ぴっ、ぴっ、と。
この世界には存在しない音だった。病室の、心拍を知らせる機械の音。
蛭間が、その音に顔を上げた。
「……あれか」
「あれです」
灰原は言った。
「門です」
◇
二人は、扉の前に並んで立った。
蛭間は長いあいだ、白い光を見ていた。光の向こうで、電子の音が鳴り続けている。
「お前は、来ないのか」
蛭間が言った。
「俺には、もう息がありません」
灰原は答えた。
「あんたには、ある」
蛭間は、灰原の顔を見なかった。光を見たまま、喉の奥で何かを噛み殺した。
「……二人で帰るぞ、と言ったな。俺は」
「言いました」
「嘘になった」
「嘘じゃありません。あのときは、二人とも帰れると思ってた。知らなかっただけです」
蛭間は、短く鼻を鳴らした。笑ったのかもしれなかった。
灰原は、胸ポケットから黒い野帳を出した。この世界に来てから書き続けた手帳。最後の頁に、紅い墨の赤入れがびっしりと並んでいる。
それを、しまい直した。
これは、こちらに残すものだった。
「頼みがあります」
灰原は言った。
「職人控室の、俺のロッカー。三段目に、赤い表紙の野帳が入ってます。八年前の、みなと台の手帳です。本当の配管の道が、全部書いてある」
「……」
「それを、葉山に渡してください。それから、みなと台の竣工図を出し直してください。本当の道で」
蛭間は黙っていた。
「もう一つ。東病棟に、多恵さんという人がいます。九十一歳の。五年前の漏水で、足を折った人です」
灰原は、言葉を探した。
「あの人に、天井を直した者の名前を伝えてください。知りたがってたんです。お礼を言いたかったって」
蛭間が、ゆっくりと灰原の方を向いた。
「お前の天井を二度閉めた男に、それを頼むのか」
「頼みます」
「なぜだ」
「あんたの写真がなきゃ、今日の竣工図は穴だらけでした」
灰原は言った。
「東の七番も、頂の口も。あんたが写して残してなければ、俺は世界をもう一度窒息させてた。あんたは見えなくしたけど、写すのはやめなかった」
蛭間は、何も言わなかった。
透けかけた手を、長衣の袖の中に入れた。何かを探る仕草だった。
出てきたのは、写し絵が一枚だった。
頂の口を封じる前の一枚。三年前の日付。蛭間の字で、傾きは百分の一と書いてある。図になし。亀裂と判断、封。済。
蛭間は、その済の字の上に、指で線を引いた。
石の板の上に、指の脂の跡が一本残った。
「持ってろ」
蛭間は、写し絵を灰原の手に押しつけた。
「お前の図の、片割れだ」
◇
白い光が、少し強くなった。
蛭間の肩のあたりまで、向こうの石が透けていた。時間がなかった。
蛭間は、扉の方へ一歩出た。
それから、止まった。
「向こうで、何て言えばいい」
「何も。名前だけで」
蛭間は、しばらく黙っていた。
口を開いた。
閉じなかった。
「灰原透」
蛭間が言った。
初めてだった。設備屋ではなく、名前で呼ばれたのは。地球の二十年近い付き合いの中で、一度も。
「灰原透だな。向こうで、言っとく」
「……お願いします」
「工期は、遅らせてもいいか」
蛭間が、ふいに聞いた。
「みなと台の引き渡しだ。竣工図を出し直すなら、天井をもう一度開けることになる。何日か、遅れる」
灰原は、少し笑った。
この世界に来て、初めて声を出して笑った気がした。
「遅らせてください。竣工図が、直るまで」
蛭間はうなずいた。
それから、部屋の入口に立つネリとエルナの方へ目を向けた。
ネリは、天の扉の鍵を両手で握りしめていた。エルナは帳面を胸に抱えていた。二人とも、何も言わずにこちらを見ていた。
「おい、小娘」
蛭間が言った。
ネリが、びくりと肩を揺らした。
「その鍵、なくすなよ。点検口ってのはな、開ける奴がいなきゃ、ただの壁だ」
ネリは、鍵を握る手に力を込めた。
「……なくさない」
「それと、記録院の」
エルナが、背筋を伸ばした。
「俺の写真は、全部記録院にくれてやる。事務所の棚ごとだ。好きに写せ。お前の名前で」
エルナは、深く頭を下げた。
蛭間は、もう一度扉の方へ向き直った。
そして、中へ足を踏み入れた。
白い光が、蛭間の体を包んだ。長衣の輪郭が、光に溶けていく。白い髪が。丸くなった背中が。
「蛭間さん」
灰原は呼んだ。
所長、ではなく。
蛭間が、ほんの少しだけ振り返った。顎を突き出す、いつもの癖の角度で。
何か言おうとして、そのまま光の中に消えた。
灰原の手の中で、写し絵の石がまだ温かかった。さっきまで蛭間の袖の中にあった温度だった。灰原は、その温もりが石から抜けていくまで、手を開かなかった。
扉の形をしていた渦が、ゆっくりとほどけ始めた。
◇
白い部屋だった。
機械の音がしていた。ぴっ、ぴっ、と規則正しく。
喉に、何かが入っていた。硬い管が、喉の奥まで差し込まれている。胸が、自分の意思と関係なく膨らみ、しぼむ。
消毒液の匂いがした。
懐かしい匂いだった。どこの現場で嗅いだのか、すぐには思い出せなかった。
「蛭間さん、分かりますか。目、開けられますか」
知らない声だった。白衣の女が覗き込んでいた。
蛭間は、まぶたを持ち上げた。
天井が見えた。白い、四角い板が並んだ天井。吹き出し口が一つ。その横に、四角い蓋がついていた。
点検口だった。
「管を抜きますね。咳が出ますけど、そのまま」
喉の奥から、管がずるずると引き抜かれていった。
蛭間は、咳き込んだ。
咳き込んで、それから、吸った。
自分の力で、息を吸った。
冷たい空気が、喉を通って胸に落ちていった。
手を、誰かが握っていた。
蛭間は首を回した。若い女が、寝台の脇で泣いていた。手首に、色の褪せた薄桃色のリボンが巻いてある。
「お父さん」
娘だった。
握る手が、小さく震えていた。式の写真で見たときより、少し痩せていた。目の下に、何晩も眠っていない影があった。
蛭間は、何か言おうとした。喉が焼けるように痛んだ。声は、ほとんど出なかった。
それでも、言った。
「……ロッカー」
「え?」
「灰原の、ロッカー。三段目」
かすれた声だった。娘が、顔を近づけた。
「捨てさせるな。今すぐ、会社に、電話しろ」
娘は、わけが分からないという顔をした。
それでも、父の目を見て、スマートフォンを取り出した。
◇
鏡の部屋で、渦がほどけていった。
扉の形が崩れ、風はまた、ただの風に戻った。吸って、止まって、吐く。炉の息に合わせて、穏やかに回っている。
白い光は、もうどこにもなかった。
灰原は、渦の前に立っていた。
手に、蛭間の写し絵を握っていた。済の字に、一本の線が引かれた写し絵。
足音が近づいてきた。ネリが、灰原の隣に立った。
しばらく二人とも、何も言わなかった。
風の音だけがしていた。
「帰りたかった?」
ネリが聞いた。
灰原は、答えなかった。
代わりに、腰に手を回した。
腰袋から、水平器を外した。二十五年使ってきた水平器だった。気泡の入った硝子の管に、細かい傷がいくつもついている。
灰原はそれを、ネリの手に載せた。




