第二十四章 蓋の裏
管理室の机には、まだ茶色い輪が残っていた。
みなと台介護医療院の、竣工図の青焼き。東病棟の頁の上に、缶コーヒーの底の跡が一つ。ふた月前の夜に、自分が置いた缶の跡だった。
蛭間は、杖をついてその前に立っていた。
事故から、ふた月が過ぎていた。現場は労災の調べで止まり、引き渡しは延びたままだった。蛭間は退院の翌日から、杖をついて現場に戻ってきた。会社の者たちは止めた。医者も止めた。蛭間は聞かなかった。
この現場だけは、自分で終わらせる。そう言った。
「蛭間さん。施主さんが、来週には引き渡しをと」
所長代理の若い男が、困った顔で言った。
「来週は無理だ」
「でも、工期が」
「東病棟の天井を、もう一度開ける」
蛭間は、青焼きの茶色い輪を指でなぞった。
「竣工図を、出し直す。本当の配管の道でな。遅れの責任は、俺が持つ」
所長代理は、目を丸くした。
蛭間が工期を自分から遅らせると言うのを、この男は一度も聞いたことがなかったのだろう。蛭間自身も、言ったことがなかった。
◇
夕方、管理室の戸が叩かれた。
入ってきたのは、髪を短く切った女だった。地味な紺の上着。肩から、大きな鞄を提げている。二十八になったはずだが、もう少し年上に見えた。
葉山晴だった。
葉山は戸口で立ち止まり、蛭間を見た。表情が、硬かった。
「……ご用件は、電話で伺いました。でも、私はもう、この仕事はしていません」
「知ってる」
蛭間は杖を机に立てかけ、ゆっくりと頭を下げた。
腰が、きしんだ。それでも、深く下げた。
「八年前、竣工図を設計図で写せと言ったのは、俺だ。お前のせいじゃなかった。五年前の漏水も、お前のせいじゃなかった」
葉山は、動かなかった。
「謝って済むことじゃない。分かってる。ただ、渡すものがある」
蛭間は、机の上の紙袋を葉山の方へ押しやった。
会社の総務が、段ボール箱から取り出して取っておいてくれたものだった。娘が病院から電話をかけた、その日の昼過ぎだったという。あと半日遅ければ、箱ごと捨てられていた。
葉山は、紙袋を開けた。
赤い表紙の、角の擦り切れた野帳だった。
◇
葉山は、立ったまま頁をめくった。
鉛筆の線が、びっしりと並んでいた。梁を避けて曲がる管。高さを変える継ぎ目。勾配を示す、小さな矢印。どの頁にも、几帳面な数字が書き込んである。
「……灰原さんの字だ」
葉山が呟いた。
「矢印の先を、いつも二回なぞる癖。現場で、何度も見ました」
葉山は頁をめくり続けた。東病棟の頁で、手が止まった。
ドレン管の線。冷水管の線。設計図とはまるで違う、本当の道筋。五年前に誰かが穴を開けた、その場所を通る管が、ちゃんと描いてあった。
葉山の指が、その線の上で震えた。
「ここに、あったんですね。最初から」
蛭間は、黙ってうなずいた。
葉山は、最後の頁を開いた。
鉛筆で、短い文が書いてあった。少し右に傾いた、急いで書いたような字だった。
葉山へ。
お前の図は悪くなかった。黙ってた俺が悪い。
灰原。
葉山は、長いこと動かなかった。
ぽつり、と紙の上に何かが落ちた。
葉山はとっさに袖口でそれを押さえた。鉛筆の線がにじまないように。図面を濡らさないように。描く人間の、体に染みついた手つきだった。
それから、顔を上げた。
「描き直します」
葉山は言った。声が、かすれていた。
「この竣工図。私が描きます」
◇
その夜、蛭間は東病棟の廊下を歩いた。
杖の音が、消毒液の匂いの中に響いた。
ナースステーションの前で、車椅子の老女が天井を見上げていた。
多恵だった。
蛭間は、多恵の前で足を止めた。杖を握り直した。
「多恵さん」
老女が、濁りかけた目でこちらを見た。
「五年前、天井から水が落ちた夜がありましたね」
「ええ、ええ。足の骨を折ってね」
「あの夜のうちに天井を直したのは、灰原透という男です」
多恵は、まばたきをした。
「はいばら、さん」
「空調の職人です。誰にも言わずに、一人で直しました。名前を、伝えてくれと頼まれました」
多恵は、口の中でその名前を転がした。
一度。二度。
「灰原さん。……そう。灰原さんっていうの」
多恵は、天井を見上げた。
古い染みのあった板は、新しい板に張り替えられていた。そしてその隣に、四角い蓋が一つ、ついていた。
「あら。蓋がついたのね」
「点検口です」
蛭間は言った。
「灰原が、八年前から図面に書いてた蓋です。俺が消してました。今度は、つけました」
多恵は、その蓋をしばらく眺めていた。
それから、天井に向かって小さく頭を下げた。
「ありがとうね、灰原さん」
蛭間は、杖を握ったまま立っていた。
喉の奥で、何かの言葉が詰まった。今度は、乾かなかった。
◇
天井裏の温度計は、二十六度を指していた。
療院の病棟の天井の上だった。温度計は、去年の夏にネリと二人で作ったものだ。細い硝子の管に色をつけた酒を詰め、目盛りを刻んだ。
灰原は梯子の上から、天井裏を覗き込んでいた。
奥で、ネリが這っていた。
「還気の口、きれい。濾し布、そろそろ替えどき。銅管の継ぎ目、漏れなし」
ネリは自分の野帳に、一つずつ書き込んでいく。エルナが記録院から贈った、革の表紙の手帳だった。腕には、営繕の職長の腕章を巻いていた。
「おっさん、ボルト持ってて」
ネリが、外した蝶番のボルトを差し出した。
灰原は手のひらを出して、黙って受け取った。
一年が過ぎていた。
記録院には、竣工図の部屋ができた。エルナがその長になった。天蓋じゅうの口の記録が、写し絵と一緒に棚に並んでいる。誰でも見られる棚だ。どの写し絵にも、撮った者の名前と、確かめた者の名前が書いてある。
影働きという言葉は、使われなくなった。営繕の者、と呼ばれるようになった。作業員名簿は、もう消されない。
風溜まりの崖の下の石には、名前が刻まれた。
ガラン。
谷で初めて、名前を持った墓だった。
夏至の日には、竣工の儀が開かれる。大司教オーレンが本物の割れ目にだけ蝋を落とし、竣工図に印を押す。その年に新しく口を確かめた者の名前が、広場で読み上げられる。
去年の儀で最初に読み上げられたのは、ネリの名前だった。
梯子の下から、小さな声がした。
「ハイバラさん。ネリ。お昼、持ってきたよ」
髪を二つに結んだ女の子が、籠を抱えて立っていた。この病棟の一番手前の寝台にいた子だ。今は療院の手伝いをしている。
「すぐ下りる」
灰原は答えた。
名前を呼ばれて振り向く自分に、灰原はまだ少し慣れなかった。慣れないまま、一年が過ぎていた。
◇
ネリが、天井裏から顔を出した。
頬に、埃がついていた。
「点検、終わり」
「記録は」
「書いた」
ネリは、梯子の脇の点検口の蓋を指さした。
灰原と二人で、この春に取りつけた蓋だった。病棟の天井に、四角い木の蓋。蝶番と、小さな鍵穴。
蓋の裏に、墨で字が書いてあった。
点検。日付。灰原透。
灰原がこの春から、点検のたびに書いてきた名前だった。漢字と、この国の文字で。一行ずつ、日付をずらして並んでいる。
ネリは筆を取り、一番下の行に、日付を書いた。
それから、手を止めて灰原を見た。
「書いていいの。あたしの名前」
灰原は、うなずいた。
「開けたら、名前を書け」
灰原は言った。
「次の人が、お前を見つける」
ネリは、少しだけ笑った。
筆を、蓋の裏に当てた。
ネリ。
大きく、少し曲がった字だった。灰原の名前の、すぐ下に。
病棟の吹き出し口から、冷たい風が降りていた。下の寝台で、子どもが寝返りを打った。窓の外で、天蓋の網目が澄んだ光を分けていた。
灰原は、蓋の裏を見ていた。
見えない場所に、名前があった。
次に開けた誰かが、それを見つける。
蓋の裏で、二つの名前が並んで乾いていった。




