第3話 夢ができたの
夜更けの水路には舟はほとんど通らない。
時々誰かの櫂が水を切る音と、月明りを反射した水面が舟の影を部屋の天井に映して通り過ぎていく。
私たちは何も話していなかった。
話さなくても心地よかった。
今の時間が、これからの日常なんだと。
そう思えた。
――寝台に彼がいる。
慣れたいとも、慣れたくないとも思う。
私が独りで夜を越えた場所。
この縁に座って、
ヴェールを抱えて泣いた夜。
箱を開けたり開けなかったりして、
ただ過ぎていった夜。
あれを開ける夜はたぶん、もう来ない。
「ねえ」
呼びかけてから、自分の声があまりにも幼く部屋に響いて、少し恥ずかしくなった。
「はい」
彼の声は、夜を共にしたあとも変わらなかった。
「あの夜のこと、覚えてる?」
「あの夜……というと?」
「火竜が町を襲った夜…」
――彼が息を呑む気配。
「忘れるはずがありません」
そうよね、と私は呟いた。
忘れるはずがない。
あの夜、町は燃えていた。
東から火柱が上がり、空を数え切れない影が埋め尽くし、悲鳴が水路を渡ったあの夜。
幸いこの店の周辺には被害はなかったけれど、私もこの町の住民の例にもれず空を見ていた。
逃げる場所も分からなくて、ただ立ち尽くしていたあの夜。
「空を、見てたわ」
「ええ」
「氷の花が、咲いたの」
「ええ」
彼も同じ空を見ていた。
あの夜は町の誰もが空を見ていた。
燃えていた炎が突然熱を失い、急に降り出した雨粒が途中で凍り、空のずっと高いところで何かが砕ける音がして、見上げた先に咲いた白銀の花を。
町を襲った火竜の群れを包み込み、放射状に広がってその命を吸い尽くして散った氷の花を。
不謹慎と思われたとしてもいい、私が今まで見た中で、いちばん美しい花の名前は、氷晶華。
御伽噺で聞く花の名前。
誰も実物を見たことがないと言われていた伝承の花。
それがあの夜、空に咲いた。
「私、夢ができたの」
夢、という言葉が口をついたのが信じられなかった。
ずっと使わなかった、もう使う事などないと思っていた言葉。
それが今、するりと出ていた。
――彼の隣にいるから?
「聞かせてください」
彼の声が、少し前のめりになった気がした。
「お店で…出したいの」
「お店で?」
「あの花を…出したいの」
しばらくの沈黙。
私の言葉が彼の頭の中で何度も渦を巻いているのが分かった。
「あの…氷の、花を?」
「そう」
「…お酒の中に?」
「お酒の中に」
「…咲かせたい?」
「咲かせたい」
並んで寝台の天井を見上げていると水面から差し込む月光が揺れていた。
「あの夜、お店の前で立ってたの。怖くて動けなくて、それで空を見てたら咲いたの。あの花が」
「私もです」
「え?」
「あの夜、私も空を見ていました」
私は彼のほうへ少しだけ顔を向けた。
横顔が月光に照らされて、静かに浮かんでいた。
「橋の上にいました。あの国門のところのです。仕事の帰りに火が見えて、ここに走る途中で空が凍ったんです」
「…同じ空を見ていたのね」
「ええ」
彼がここに向かって来てくれていたことを初めて知った。
「あの花をお店で出したいの。
誰でも飲めるように。
グラスの底からあの花が咲くの。
咲いて…散って…もう一度咲いて」
「グラスの底から…」
「…無理よね?」
「いいえ」
夢物語を語っただけ。
笑われたって良かった。
ただ私の言葉は、
彼の迷いのない言葉に消えた。
「いいえ。出来ると思います」
「…本当に?」
「やらせてください」
私はもう一度天井を見上げた。
揺れる光が滲む。
泣いているつもりはなかった。
ただ、目の奥が熱くなった。
誰かに何かを頼むことを忘れていた。
頼んで断られるのが怖くて、最初から頼まないことにしていた。
それが今、思わず頼んでしまった。
それも夢物語のような、無理な願い。
彼は笑わず、
「やらせてください」と答えてくれた。
――信じて…いいの?
「ひとつ聞いてもいいですか?」
「…ん?」
「なぜあの花なのですか?」
今度は私が黙る番。
考えながら、自分でも気付いていなかったことに気付いた。
「お母様が逝ってから、ずっと生きてるって感覚がなかったの。…お店をやって、ご飯を作って、お客さんと笑って、お見送りをして、戸締りをして、寝て、起きて。それの繰り返し…」
彼は黙って聞いていた。
聞いていない沈黙ではなく、
すべてを受け止めてくれている沈黙。
「あの夜、空にあの花が咲いて。怖かったのに綺麗で、息が止まって。それで――その瞬間に、ああ私、生きてるって思ったの」
「……」
「…だからあの花をお店で。この町の人にあの瞬間を忘れてほしくなくて…」
「…分かりました」
彼がゆっくりと私のほうへ向き直った。
「必ず、形にします」
「…ありがとう」
「いえ。……いえ」
彼が何かを言いかけて、結局それだけ。
彼が言葉に詰まるのを私は初めて見た。
「……もう寝よっか?」
「…はい」
それ以上は何も話さなかった。
彼の手が、私の手の甲にそっと重なる。
ただそれだけ。
それだけで、十分だった。
◇◇◇◇
それから彼が店に来るたびに、小さな部品がカウンターの中に増えていく。
「…これは何?」
「泡を作る仕掛けの試作です」
「…泡?」
「水に溶け込ませる空気の粒です。グラスの底から絶え間なく上ってくる粒があれば、咲かせられる」
――??
何のことか分からなかった。
分からなかったが、彼の指先が丁寧に何かを組み立てているのは分かった。彼が作るものは、いつも目に見えないところに本領があった。
何度も失敗していた。
小瓶の中で粒が上らなかったり、上りすぎたり。
お酒の味や色を変えてしまったり。
「今日も駄目だったわね」
「……ええ」
「無理しなくていいのよ」
「いえ」
寝台で並んで話す時、彼はいつもこの話題だけは譲らなかった。
譲るような顔ではなかった。
何度目かの夜で私はふと気付いた。
彼は、私の夢を叶えようとしているのではない。
彼は、私が初めて口にした夢を絶対に潰したくないのだと。
二度と夢を諦める女に戻らないように。
気付いた夜、彼の胸に抱かれながら声を殺して泣いた。
ヴェールを抱えて泣いた夜とはまったく違う涙を。
ただ、それは彼と共に過ごすようになって初めて流した涙だった。
――その夜、彼は初めて寝台に私だけを残した。
私は箱に手を伸ばしかけて、思いとどまった――。
「出来ました」
翌朝の彼の一声。
カウンターにそっと置かれた、
見たことのないグラス。
底が浅く口の広いグラス。
華奢な脚が支えるグラス。
彼がそこにお酒を注ぐ。
ネズの実を蒸留してつくる、この町の色と同じ、青いお酒。
――??
しばらく何も起きなかった。
――!!
グラスの底から白銀の粒が湧き上がった。
絶え間なく、静かに。
微かな音を立てると同時に小さく白い花を咲かせる。
水面の奥で揺れる青色の中を白い粒が立ち昇って、弾けて、小さな白い花を咲かせて、また消える。
あの夜、空に咲いたのと同じ氷晶華がグラスの中に咲いていた。
声を失ったままの私に構わず、
彼が一輪の花をそっと浮かべた。
それは青の中の青。
咲いて散る氷晶華の上に浮かぶ、
ミオソティス。
「このお店のお花です」
彼の声はいつも通りだった。
昼も夜も変わらない彼の声。
私は頷くのが、精一杯だった。
何度も何度も頷きながら、彼にそれを隠さずに微笑んだ。
溢れる嬉しさを、彼に見せたかった。
グラスの中に咲いた花を見て流す涙が、私の新しい涙の形だから――。




