第4話 これからの日常。
今日はいつもより早く店を開けた。
彼が城に出向く日。
彼の乗った小舟が水路を滑っていくのを見送りたかったから。
仕立ての良い上着、胸元の細い工具。
ただ指先にいつもついていた油の染みはもうない。
振り返って手を振る彼に私も手を振り返す。
「行ってらっしゃい」
ずっと使ってこなかったこの言葉。
誰かを送り出すことが、こんなに嬉しい響きだったのかと少し驚いた。
お店に戻って卓札を整える。
卓札に新しく加わったお酒の名前。
――氷晶華。
御伽噺の花の名前が、私の店の卓札に書かれている。
初めて彼に書いてもらった卓札は、このお店にまだ馴染まない。
◇◇◇◇
その日、お昼のピークが過ぎて少し落ち着いた頃、店を訪れたのは若い夫婦だった。
朱い髪の妻と金色の髪の夫。
妻の腕は夫の腕にしっかりと絡んでいて、仲のいい夫婦だと一目で分かった。
――いつか私たちも。
「いらっしゃいませ」
夫婦が腰を下ろしたのは湾がいちばんよく見える軒先の丸い卓。
陽がまだ高いこの時間に、二人で景色を見ながら過ごすのにちょうどいい卓。
注文を受けに行こうとした時、
妻が小瓶の花を見つめていた。
卓の上に活けてあるのはもちろん、
青いミオソティス。
「ね、ピエール。
この花の名前ってなんだったっけ?」
「これか?確かミオソティスだな」
「よくそんなすぐに出てくるよね。
でもそうだ。ミオソティスだわ」
妻が小さく、何かを思い出すような顔をした。
「私を忘れないで……」
「急にどうした?
この花の言葉なら……、
真実の愛だろう?」
夫が頬を赤らめて顔をそらした。
その夫婦の会話に胸の奥が疼く。
私はこの花の言葉を意識しないようにしてきた。
私を忘れないで。
真実の愛。
私は二人の会話を繋ぐつもりで声をかけた。
「どっちも正解よ?お待ちどおさまっ」
ご注文の料理を運んだ。
海の幸、セビーチェと、それから――。
この一杯を最初に出す人は決めていた。
新しい卓札に気付いたお客が注文してくれていたけれど、
私の言葉は“まだ、出せない”。
その言葉の意味に気付いてくれる人ばかりなのが嬉しかった。
――やっと完成したわ。
彼に見せられないのが残念だけど、この夫婦が…いやこの人たちの誰かが訪れたら出そうと二人で決めたあの夜。
朱い髪の妻が料理を運ぶ私を見上げる目にあった警戒も値踏みも、気にはならなかった。
私は氷晶華のグラスを卓に置きながら、彼と話し合った言葉を少しだけ照れて言った。
「お待ちどおさま……このお酒はね、最初の一杯目はサービスなの。でもその代わりにひとつお願い。海に向かってお祈りをしてから飲んでね」
このお酒が出るのは今日が初めて。
この人たちに喜んでもらって初めて完成する、このお店の新しいお酒が陽の光を浴びる時が来た。
夫婦がグラスを見つめたまま息を呑む。
華奢な脚に支えられた、底が浅く口広のクープグラスに注がれた酒の色は水面の奥で揺れる、この町を表す青い色。
グラスの底から絶えず白銀の粒が湧き上がり、微かな音を立てると同時に小さく白い花を咲かせて、散って、もう一度咲いて。
彼の仕掛けが静かに動いていた。
そこに浮かぶ、一輪の青いミオソティス。
「――」
言葉を失っていた。
その瞳に夕暮れの陽がぼやけて映っていた。
何かを思い出している顔だった。
何かを思い出して堪えきれなくなった顔。
グラスを手に取るのに手間取っている夫婦に向けて、一帯を埋め尽くした人が優しく手を叩く音。
この町の人たちが卓札に新たに加えられたお酒に込められた想いに気付いてくれていた。
それを最初に口にするべき人たちの事も含めて――。
酒場の周辺。
軒先の卓の周辺に、いつの間にか町の人が集まっていた。
通りすがりの人が立ち止まり、近くの店から人が出てきて、誰もがその夫婦のほうを見ていた。
音に背を押されて、私は口を開いた。
「まずこの町を救ってくれた英雄さんに飲んでもらわなきゃ、この名前は使えないわ。だから最初の一杯目はサービスなの」
夫婦はしばらく動かなかった。
妻も目に涙を浮かべ、夫の腕を強く握っていた。
二人がグラスを手に取り、海に向かって静かに掲げた。
水路の向こうの湾の、
その先の海に向かって。
町を救ってくれた誰かに向かって。
夫婦がグラスを口にしたのを見て、私は満足気に店内に戻ると声が耳に入ってきた。
「あの旦那さんは東側の復興を手伝ってた人だよな?」
「ああ。瓦礫をどけてた」
「奥さんのほうは、うちの子の怪我を治してくれた人だ」
「えっ?じゃあ、あの夫婦が……」
「そうだよ。町を救った英雄たちの仲間だ」
――そう、英雄。
もうひとつ。
私の中で結びつくもの。
少し前に彼とお店を訪れた、あの少女。
病み上がりの色を残した、あの少女。
私と彼が手を重ねたあの夕暮れに、石橋の上で青い花の細工をそっと撫でて微笑んでいた、あの少女。
多分、あの少女こそが町を救ってくれた英雄本人であり、私と彼を繋いでくれた天使。
夫婦は静かに席を立ち、丁寧にお代を置いて店を出ていった。
私はそれを見送り深く頭を下げた。
二人が水路の向こうへ消えていくのを見送ったあと、私はカウンターに戻り、
もう一輪のミオソティスを新しい小瓶に挿した。
それを店の外の卓——夫婦が座っていた席に、そっと置いた。
きっと明日もまた誰かがあの席に座る。
そして氷晶華を頼むだろう。
その人が誰であっても、
私は同じ言葉を言うことに決めた。
最初の一杯目はサービス。
海に向かってお祈りをしてから、飲んでね。と。
――感謝のしるし。
あの夜、空に咲いて、私を生かしてくれた花へのささやかな返礼。
「ただいま戻りました」
「おかえりなさい」
城から戻った彼に今日の出来事を伝えた。
英雄の仲間の夫婦のこと。
そして町を救った英雄とは私と彼を繋いでくれた天使ではないかということを。
彼はいつも通り黙って聞いて、
ぽつりと言った。
瞳が潤んでいくのが見えた。
「あのお酒は、
これからも出し続けてください」
「ええ」
「町の人が、忘れないように」
「ええ」
「私たちには、不要でしょうか?」
その夜、私たちは初めて軒先の卓で夜を明かした。
あの少女がもう一度この町を訪れる日が、いつか来るかもしれない。
あの夫婦から話を聞いて、
このお店を訪れるかもしれない。
卓札にはいつも、あの花の名前がある。
私たちの間にある、氷晶華のグラスの底からは、絶え間なく白銀の粒が湧き上がる。
月明りの中、彼の手が私の手に触れ、私はすぐにその手を握り返す。
もう覆うものはない。
代わりに毎日グラスの中に花が咲く。
これが私たちの、これからの日常。




