第2話 こんなの、ずるい
いつもと同じ朝が始まった。
いつもと違ったことがひとつ。
――昨夜は箱を開けずに済んだ。
代わりに私は、寝台の縁に座って手のひらを見ていた。
昨夜銀と金色の花細工に触れた指先。
その感触が、消えなかったから。
私は決めていた。
聞いてみよう、と。
ずっと聞かなかったことを、
今日聞こう。
なぜ、あんな細工を施したのか。
なぜ、あの花の細工なのか。
なぜ、――私なのか。
答えを聞くのは怖くなかった。
答えに頷いてしまう自分が怖かった。
それでももう、聞かないでいるほうが苦しくなっていたから。
――今日はいつもと違う?
お昼のピークが、いつもより少しだけ短く感じた。
気がしただけだろう。
水路の水の流れはいつも通りに進んでいた。
普段はお客の声に紛れて時間が流れていくのに、今日はお店の外側を見る回数が多かった。
彼が来るのは、いつも同じ時間。
陽が傾いて、茜色に染まる少し前。
「ベラちゃん、なんかあった?
今日はなんだか嬉しそうだね」
常連のお客にそう言われて、お代を受け取る指が止まり、私は驚いて顔を上げた。
「そう…かしら?」
「そうだよ。声が違う」
笑い声と一緒にお客はお店を後にしていった。
私はカウンターの中に戻って頬に手を当てた。
――熱くはない。
ただ何かが違うのは自分でも分かる。
声が違う、と言われた。
彼が私の声をどう聞いているのか、私にはもちろん分からない。
今日のこの声は、
彼の前でも出るのだろうか。
今日のこの声は、
彼にはどう聞こえるのだろうか。
茜色が水面に滲み始める頃に映った人影。
いつもの足音に、いつもの間。
扉を開ける前にひと呼吸置く、彼の癖。
私はカウンターの中で深く息を吸った。
今日は、聞く。
顔を上げて、聞く。
そう思って顔を上げた私の目に入った彼の姿は、いつもと違った。
それと、彼の後ろにもう一人。
背丈は小さく、ハンターの姿をした、頬にどこか病み上がりの色が残る、私よりずっと年下の少女。
今日は聞こうと決めていた言葉が、自分でも驚くほど自然に違う言葉となって口から出た。
「こんな時間に来るのはあなたぐらい。
それにここのところ
毎日来てるわよ、あなた」
「毎日会いたいので」
いつもの応酬に私は呆れたような笑みを浮かべた。
浮かべたつもりだった。
浮かべながら目の端で少女を見た。
少女は、二度見して固まっていた。
――ああ、そうよね。
普通、固まるわよね。
私は気にせず言葉を続けた。
いつもと違った彼の姿が気になって仕方ない。
「今日は花束は持ってないのね」
「昨日、一昨日、その前の日と断られたので」
「よく覚えてるのね」
「あなたのことは全部覚えています」
彼の後ろに立つ少女がますます固まった。
「そういうところよ」
私はため息をついた。
ため息のつもりだった。
少女が私に挨拶をしてお店に入り、中を見回した。
カウンターの隅の小瓶には、まだあの花が挿してあった。
昨日と同じ姿で。
「これ、ヘンダイルさんが?」
透き通った声でそう尋ねる少女。
――どうしてそう思ったの?
――どうしてその花だけを?
「……三日前に」
彼が短くそう答える。
「勝手に置いていかないでって言ったはずよ」
私は俯いた。
「捨てられていないので」
「……捨て忘れただけよ」
これも嘘。
昨日から嘘ばかりが出てくる。
少女は黙っていた。
黙ったままじっと見ていた。
私と、彼と、あの花を。
彼は私を真っ直ぐに見つめていた。
それ以外は何も見えないみたいに。
「昨日のお話ですが、
母君の許しをいただければ、
あなたは頷いてくれますか?」
私は彼から目を逸らした。
「…だから言ったでしょ、
……お母様が許さないわ」
吐き捨てるように、不自然に口を出た言葉は、沈黙が長すぎた。
少女がじっと私を見ていた。
何かに気付いたような目で。
その目から逃げるように、私は店の奥へ視線を向けた。
母の名を盾にして人を遠ざける女が、ここにいる。
彼は何も気付いていない顔で、
いつも通りに少しだけ肩を落とすと、少女が店の外に出ていき、彼がその後を追う。
もういっそ笑ってしまいたかった。
――聞けなかった。
後悔が店内を漂う。
今夜はいつもと同じ、あの箱を開けることになるわね。
ただ諦めきれずに外に視線をやったその時、――水面で何かが揺れた。
陽が沈みかけて水面が金色に揺らぐこの時間。
お店の前を流れる水路の水面が、流れを止めてゆっくりと鏡になっていく。
風はあった。
舟も通っていた。
それなのに、水面の波紋がついに止まった。
私は思わず外に出ていた。
そこには見たことのない景色が映っていた。
水面が映したのは、
年老いた女性の顔。
すぐにそれが誰か気付いた。
――お母さん!
水面の彼女は優しく微笑んでいた。
声は出なかった。
喉の奥が固く閉じてしまっていた。
像がゆっくりと形を変える。
雨の日の、店先の濡れた石段。
誰かが滑らないようにと、目立たない場所を直す姿。
風の日の、店の窓。
誰かが黙って蝶番を調整して帰っていく姿。
私が寒そうにしていた日の、椅子の足元。
誰にも気付かれないように、小さな暖房具を置いて帰る誰か。
カウンターの隅の、いちばん奥の小瓶。
水を張る指。
青い花を一輪、そっと挿す指。
どれも、私が気付かないふりをしていた光景。
全部見ていた。
私に気付かれないようにずっと続けていた、誰かがやっていた行為。
私は息ができなくなった。
胸の奥で何かが軋む。
何年もかけて固めてきた殻が、外側じゃなく内側からヒビを入れる音が聞こえた。
「……こんなの、ずるい」
声が、勝手に出ていた。
震えていた。
「ずっと…
…気付かないふりしてたのに」
気付いていたのに、気付かないふりをしていた自分を、水面は鏡のように映し出す。
視線の先の彼は呆然と水面を見ていた。
何が起きているのか本当に分かっていない顔だった。
私はもう、隠せなくなった。
涙が勝手に零れた。
拭いて、それでも止まらなくて、
泣きながら笑うしかなかった。
「お母様の許可なんて……嘘」
止められなかった。
止めたくなかった。
…彼の表情が止まった。
「怖かったの」
俯いたまま声を絞り出す。
「また信じて、また失うのが」
私がずっと口にできなかった本心を映した言葉。
母の名を盾にまでしたのは、怖かったから。
信じて、尽くして、それでもいらないと言われた女が、もう一度同じ目に遭うのが怖かったから。
箱の中の、母の手縫いのヴェール。
あれを抱えて泣いた夜の数だけ、人を信じない誓いを重ねてきた。
その誓いが今、崩れた水面の鏡と同じように崩れていった。
水が映すのは金色の陽の光。
私と彼の間を照らす陽の光。
「……それでも」
彼がゆっくり私のほうへ手を伸ばす。
「それでも私はあなたを大切にしたい」
彼らしい真っ直ぐな言葉。
どの言葉よりも真っ直ぐな彼の言葉。
私はその手の前で動きが止まった。
伸ばされた手のひらの指先にはいつもの油の染み。
細い工具を扱う指は、私の店の窓を直し、石段を直し、足元に暖房具を置き、小瓶に花を挿し続けた指。
私が知らないふりをしていた間も、ずっと私のために動いていてくれた指。
「……本当に、ずるい人」
私は震える指をそっと彼の手の上に重ねた。
重ねた瞬間、何かがふっと軽くなった。
背負っていたものが消えたわけではなく、彼が半分受け取ってくれた温もりを全身で感じた。
もう一人で背負わなくていいんだと、そう思えた。
彼の胸の中で、水面を見つめたまま私は呟いた。
「ねえ……今の、あなたが?」
「……いえ」
彼は困ったように首を振る。
「私は何も」
「でも……」
「本当に、何もしていません」
私たちは揃って水面を見つめた。
ふと顔を上げると、石橋の上にあの少女の姿が見えた。
水路の向こう側、少し離れた場所にひとりで。
彼の細工が施されたあの石橋の上で、私が好きなあの花の細工をそっと撫でながら微笑む少女。
私の震えた指を包む彼の手の、
その唇がわずかに震えていた。
私の唇も、震えていた。
閉じ固まっていた、開くことのなかった扉が開く震え。
震えが重なったとき、
暖かさと共にそれは消えた。
水の都の陽は何も知らないふりをして少し朱くなり、水面はほんの少しの間だけ、重なる二人の姿を映したあとで、いつもの揺れに戻っていた。




