第1話 気付かないふり
窓の隙間から差し込む朝の光と、透き通った水が水路を撫でる水音で目を覚ますと、水面に揺れた光が今日も天井を踊る。
窓の外から聞こえてくるのは、櫂が水を切り、舟が滑る音と、遠くで誰かが呼びかけ合う声。
昨日と同じで、明日も同じはずの、いつもと変わらない朝の音。
私は寝台から下りる時に、薄い肩掛けを羽織って階下のお店に降りる。
カウンターの隅、卓札の脇、そして窓辺に小さな硝子瓶がいくつか並ぶ。
昨日まで挿してあった花が萎れていて、私はそれを取り出して、新しいのに替えるつもりで、お店の前を流れる水路に出ようとした時、目に入ったもの。
カウンターの隅のいちばん奥の小瓶。
そこには、青い花が一輪。
――私が挿した覚えはない、
その花の名は、ミオソティス。
思わず息が止まる。
私が髪に纏う香油の、原料になる花。
――私が挿した覚えはない。
それなのに、花は確かにそこにあった。
水まで張ってある小さな瓶に、ずっとそこにあったみたいに、自然な姿で。
――またあの人、ね。
小さく息を吐いたとき、口の端が自分の意思に反してほんの少しだけ緩んだのに気付いて、慌ててそれを引き締める。
笑っては、いけない。
喜んでは、いけない。
気付いては、いけない。
そう自分に言い聞かせて、私はその花を見ないふりをして、いつもと同じ朝の作業を始める。
昨日と同じ手つきで。
明日も同じはずの手つきで。
指先が少しだけ震えているのは、
きっと――朝の寒さのせいだから。
――ヘンダイル。
その名をもうずっと前から知っている。
町の誰もが知っている。
この町の水路の跳ね橋を作った人、
大門を水の力で動かす仕組みを作った人。
発明は天才と言われ、恋路はどうにもならない変人と笑われている人。
そして、…このお店に毎日のように通ってくる人。
私がかつてこの店を離れていた間も、彼は変わらず通ってきていたらしい。
店に立たなくなった私の代わりに母が応じていた。
母は何も言わなかった。
ただ私が、一年と少しで戻ってきた時に一言だけこう言った。
「あの方、まだ通ってくれてるわよ」
それだけ。
それ以上は何も。
それ以外に何も。
母はその冬に逝った。
掃除を終えた私は店を開ける。
いつもと同じ一日が、始まる。
彼が来るのはいつもお昼のピークが終わり、夜の仕込みを終える頃。
町の陽が傾いて、茜色に染まる少し前。
仕事の合間なんだろう、上着の胸元には細い工具を挿していて、指先には油の染みがあって、それなのに仕立ての良い上着を着ている。
噛み合わない人だと、いつも思う。
噛み合わないから、見ていられる。
――やっぱり今日も来たわね。
今日も花束を抱えていつもの言葉。
「結婚してください」
何度目かしら?
数えるのをやめてからもう長い。
私は俯いて、ふと朝のミオソティスの仕返しを思いつき、いつもと違う言葉を口にする。
「先日亡くなられたお母様の許可がないと、結婚はできないわ」
真に受けるわけない。
これは嘘。
分かり切った、嘘。
母は私の幸せを願って逝った。
死者の名を盾にして、生きている人を遠ざける私はひどい女だと自分でも思う。
それでも私がついた嘘。
彼は肩を落とし、困ったように笑う。
責めもしない。
怒りもしない。
ただひとこと、また明日来ますと言って花束をカウンターに置いて帰るその背中を見送るたびに、私は部屋へ駆け込みたくなる。
部屋にあるのは、この店のほかにはただひとつ遺された母の遺品。
私がかつて嫁いだ時に、母が仕上げてくれた手縫いの白いヴェール。
あの家からこの身ひとつで捨てられたときに、ご丁寧に箱に詰めて寄越したものでただひとつ、捨てられなかったもの。
他のものはどんな高価なものでも全部燃やせても、これだけは燃やせなかった、母の指の跡が残る大切なもの。
彼が帰った日の夜、私は決まってあの箱を開け、ヴェールを抱えて涙を流す。
そして自分に言い聞かせる。
もう二度と、人を信じてはいけないと。
今日も同じはずだった。
私は花束をカウンターの中に置いて、夜の営業を終えて、戸締りをして、箱を開ける。
――そのはずだった。
店仕舞を終えて灯りを落とそうとしたとき、ふとあの小瓶が目についた。
朝の、あの、いちばん奥の小瓶。
花はまだそこにあった。
萎れもせず、朝と同じ姿で。
何気なく手に取ったその小瓶の足元に、小さな紙片が一枚置かれていた。
朝は気付かなかった小さな紙片。
それを震える指で拾い上げる。
書かれていたのはたった一言。
『花弁をめくってみてください』
私は息を呑んだ。
ランプを近づけて、青い花弁を指の腹でそっと持ち上げる。
そこに――何かがあった。
花の根元に髪の毛ほどの細さの細工が巻き付いている。
銀と金色の細い線。
それは小さな小さな花細工だった。
一輪に一つずつ同じものが仕込まれている。
なぜ――。
なんのために――。
こんな誰にも気付かれないような場所に。
明日彼が来たら聞いてみよう。
私はもう、聞かないではいられない。
ランプの灯りの中、青い花弁の下で彼が残した花細工が静かに光っていた。
それは彼がずっと私のためだけに置き続けていたもの。
部屋の箱は、今夜は開けずに済んだ。




