第9話「奪われるドワーフ鉱山」
西方鉱山都市グラド=ヴォルグは、山の腹に刻まれた都市だった。
遠くから見れば、それは巨大な黒い要塞に見える。
山肌に穿たれた門。
鉄で縁取られた坑道。
溶岩の熱を引き込む地下炉。
鉱石を運ぶ軌道。
煙突から吐き出される赤い火の息。
だが、ドワーフにとって、そこはただの鉱山ではなかった。
生まれる場所であり、誓う場所であり、死んだ者の名を鉄に刻む場所である。
彼らは家系を血だけで数えない。
何を掘ったか。
何を打ったか。
どの炉を守ったか。
どの道を掘り抜いたか。
それらをもって、己の名を語る。
グラド=ヴォルグの炉には、幾百年もの名が沈んでいた。
慈悲王アルヴァーンがドワーフを人類の鉱山奴隷から解放した時、最初に灯した炉もそこにあった。
王の手で火入れされた炉。
だから、ドワーフたちはその炉を王火炉と呼んだ。
父王が死んだ後も、その火だけは落とさなかった。
王が死んでも。
王子が眠っても。
人類が国境を越えても。
王火炉は燃えていた。
それを、人類は欲しがった。
「炉は壊すな。職人も殺しすぎるな」
人類王国西方攻略隊の司令官、アルベリク・ダイン伯爵はそう命じた。
彼は山麓に張られた天幕の中で、鉱山都市の図面を見下ろしていた。
図面は不完全だった。
表層坑道。
外郭門。
通風孔。
旧排水路。
それらの一部だけが記されている。
本来、ドワーフの都市の内部構造など、人類が知るはずもない。だが、数年にわたる侵略で捕らえた職人、買収した人類商人、過去に鉱石取引へ関わった王国測量師たちの記録を集め、人類は少しずつ地図を作っていた。
それでも足りない。
足りないからこそ、捕虜が必要だった。
伯爵の隣で、鉱山技師の男が手を揉んだ。
「外郭さえ押さえれば、あとは時間の問題です。炉を動かすにはドワーフの腕が必要ですが、鎖と食料で従わせればよろしい」
「従わなければ?」
「子を使います」
鉱山技師は平然と言った。
「職人は自分の指より、弟子の指を惜しみます」
アルベリク伯爵は笑わなかった。
嫌悪したのではない。
その程度のことは、戦争では当然と考えていたからだ。
「聖教会は何と言う」
天幕の奥で、白い法衣の司祭が顔を上げた。
「神敵の炉を人類のために清める。それだけです」
「便利だな」
「神の御心です」
司祭は静かに答えた。
「ただし、王火炉と呼ばれる炉は聖別が必要です。魔王アルヴァーンが火入れした炉と聞きます。汚れが深い」
「壊すなと言った」
「壊しません。名前を変えます」
司祭は微笑した。
「神火炉と」
その言葉を聞いた鉱山技師が、満足げに頷いた。
名を奪う。
それは、炉を壊すよりもドワーフに効く。
彼らは知っていた。
人類はドワーフを侮っている。
だが、どうすれば傷つくかだけは学んでいた。
グラド=ヴォルグ外郭の戦いは、七日続いた。
ドワーフは少数だった。
王都へ弾薬を送り、黒曜宮の防衛へ職人を出し、各地の坑道を維持するため、鉱山都市に残った戦士は多くない。
それでも彼らは戦った。
門を閉じ、坑道を落とし、地中から蒸気を噴き上げ、鉄の罠で騎士の足を砕いた。
正面から来る人類兵など、彼らは恐れなかった。
鉱山の中でドワーフに挑むことが、どれほど愚かなことかを何度も教えた。
だが、人類は坑道ではなく、炉を狙った。
聖教会の司祭が、山肌に白い杭を打ち込んだ。
聖印杭ではない。
熱脈を乱す杭だった。
溶岩の流れと魔力の循環を乱し、地下炉の温度を不安定にする。
炉が暴れれば、ドワーフは戦えない。
炉を守りに戻らなければならない。
グラド=ヴォルグの守備隊長、バルドは、その狙いをすぐに見抜いた。
彼はボルガンの古い弟子であり、片目を鉄片で失った鍛冶戦士だった。
「炉を揺らすとはな」
バルドは黒鉄の斧を握りしめた。
「人間ども。山に喧嘩を売る作法も知らんか」
彼は三十名の戦士を率い、熱脈杭の破壊へ向かった。
坑道の影から出て、山肌を駆け、白い杭を守る人類兵へ襲いかかる。
ドワーフの斧は重い。
背丈では人間に劣る。
だが、低い重心と岩のような筋肉は、狭い地形でこそ真価を発揮する。
人類兵の盾列は崩れた。
騎士の膝が砕かれ、槍の柄が折られ、熱脈杭の一本がバルドの斧で叩き割られる。
白い光が弾けた。
地下炉の唸りが、少しだけ戻る。
「次だ!」
バルドが叫んだ。
その時、山の斜面が白く光った。
聖教会の結界兵が、岩場の上に並んでいた。
彼らは杭を守っていたのではない。
ドワーフが杭を壊しに来るのを待っていたのだ。
白い網が地面から立ち上がる。
聖鎖の結界。
灰牙村で狼族を捕らえたものより太く、重く、鉱山用に調整された鎖だった。
ドワーフの戦士たちの足が絡め取られる。
バルドは斧で鎖を叩き切った。
一本。
二本。
三本。
だが、数が多い。
人類兵が四方から押し寄せる。
「殺すな!」
人類の士官が叫んだ。
「職人は捕らえろ! 腕を潰すな!」
バルドは笑った。
喉の奥で、溶鉱炉のように。
「腕が欲しいなら」
彼は斧を捨てた。
そして、自らの左手を腰の短剣で斬りつけた。
人類兵たちが息を呑む。
「安く見るな」
バルドは血に濡れた左手で、地面の黒い鉱石を掴んだ。
魔力を流す。
鉱石が赤くなる。
爆ぜる。
小さな爆発が結界の基部を吹き飛ばした。
ドワーフの戦士たちが数人、鎖から抜け出す。
「戻れ!」
バルドは叫んだ。
「王都へ伝えろ! 外郭は持たん! 炉を守れと!」
「隊長!」
「行け!」
逃げたドワーフは五名。
残った者は二十名以上。
バルドは血を流しながら、もう一度斧を拾った。
彼の左手は動かない。
それでも右手がある。
背がある。
歯がある。
名がある。
ドワーフは、名が残る限り折れない。
人類兵が押し寄せた。
その日の夕刻、グラド=ヴォルグ外郭門は開いた。
正確には、開けられたのではない。
内部から爆破され、崩された。
バルドたちは最後まで降伏しなかった。
だが、熱脈を乱され、外郭炉を不安定にされ、捕虜を盾にされ、守備隊は後退を余儀なくされた。
人類軍は外郭へ入った。
最初に掲げたのは、王国旗ではない。
聖教会の白旗だった。
司祭たちが炉の前に立ち、聖水を撒く。
ドワーフの古い火入れ歌が刻まれた銘板に、白い布をかける。
王火炉の名を削り取るため、鉱山技師が鑿を入れようとした。
その瞬間、炉が低く鳴った。
人類兵が怯えて後退する。
司祭は顔をしかめた。
「ただの魔力残滓です」
そう言いながらも、彼は炉へ直接触れなかった。
代わりに、捕らえたドワーフ職人を前へ引きずり出す。
「お前が削れ」
職人は顔を上げた。
髭には煤と血が絡んでいる。
両腕には鎖。
背には鞭の跡。
だが、目は死んでいなかった。
「断る」
司祭は溜息をついた。
合図をする。
連れてこられたのは、若いドワーフの徒弟だった。
まだ髭も短い。
捕縛の時に頭を打ったのか、額から血を流している。
司祭は少年の指を取った。
「削れ」
職人の目が揺れた。
王火炉の名を削れば、己の誇りが死ぬ。
削らなければ、弟子の指が潰される。
人類は、いつも選ばせる。
そして、選んだ罪を相手へ押しつける。
職人は歯を食いしばった。
「……鑿を寄越せ」
少年が叫んだ。
「親方、だめだ!」
職人は少年を見なかった。
見れば、手が止まる。
鑿を受け取る。
王火炉の銘板へ向かう。
その手は震えていた。
炉の火が、低く唸る。
まるで拒んでいるようだった。
職人は鑿を銘板に当てた。
その瞬間、彼は逆手に鑿を持ち替え、自分の胸へ突き立てた。
少年の叫びが坑道に響く。
人類兵が慌てて駆け寄る。
職人は血を吐きながら、炉へ倒れ込んだ。
「王火炉は……削らせん」
それが最後の言葉だった。
司祭の顔から表情が消えた。
「次を連れてきなさい」
その命令に、人類兵は従った。
職人の死を悼む者は、人類側にはいなかった。
彼らにとって、それは作業の遅れでしかなかった。
数時間後、王火炉の銘板には白い傷が刻まれていた。
名はまだ完全には削られていない。
だが、上から白い鉄板が打ちつけられた。
神火炉。
人類はそう呼ぶことにした。
その報告が黒曜王都へ届いたのは、灰牙村の報告と同じ夜だった。
ドワーフの伝令は、片足を失っていた。
名はグレン。
バルドが逃がした五人のうち、王都まで辿り着いた唯一の者だった。
担架に乗せられても、彼は意識を失わなかった。
手には、黒く焦げた炉の鍵を握っている。
王火炉の外郭鍵。
本来なら、守備隊長バルドが持っているはずのものだった。
ボルガンはその鍵を受け取った。
何も言わなかった。
治療院の灯りは薄暗い。
外では王都防衛戦の負傷者が並び、灰牙村から逃げてきた狼族の子どもたちが泣き疲れて眠っている。
そこへ、さらに鉱山陥落の報告が重なった。
グレンは荒い息のまま告げる。
「外郭……落ちました。熱脈杭で炉を乱され……聖鎖で隊長たちが」
「バルドは」
ボルガンの声は低かった。
「残りました」
それで十分だった。
残った。
つまり、生きて戻るつもりはなかった。
グレンは続ける。
「人類は、王火炉の名を削ろうとしています。捕らえた職人を……親方たちを、鎖で炉へ」
ボルガンの拳が鳴った。
炉の鍵が、彼の掌で軋む。
「王都への砲弾供給路は」
「断たれました。補給坑も、第三坑道まで白旗が……」
「捕らわれた者は」
「多数。鍛冶師、坑夫、徒弟。使えぬ者は……」
グレンはそこで言葉を切った。
言えなかったのではない。
言わなくても分かった。
ボルガンは目を閉じた。
怒りはあった。
今すぐ西へ向かい、山を割り、人類どもの骨を炉にくべたいほどの怒りが。
だが、彼は動かなかった。
王都は包囲されている。
東壁は傷つき、砲弾は少なく、黒曜宮には眠る王子がいる。
今、ドワーフの長が鉱山へ走れば、王都の炉が止まる。
黒鉄弾は打てない。
城門の修理もできない。
負傷者の義肢も作れない。
王子の繭を守る黒曜台座も補強できない。
人類は、それを狙っている。
狼族の村を焼き、ガルムを引き出そうとした。
鉱山を奪い、ボルガンを引き出そうとしている。
怒りで長を動かし、王都を空洞にするつもりだ。
浅ましい。
だが、効果的だった。
ボルガンは炉の鍵を握ったまま、治療院の床へ膝をついた。
グレンが目を見開く。
「長……」
「すまん」
その声は、鉄を叩く槌より重かった。
「今は、取り返しに行けん」
グレンの顔が歪んだ。
怒りではない。
悲しみでもない。
理解だった。
ドワーフにとって、それは最も苦いものだった。
「分かって……おります」
グレンは震える手で、ボルガンの腕を掴んだ。
「王都を……王子を……」
「守る」
ボルガンは答えた。
「炉が冷えても、腕が折れても、守る」
グレンは頷いた。
そして、ようやく意識を失った。
ボルガンは立ち上がる。
そのまま治療院を出た。
向かったのは、玉座の間だった。
黒曜宮の廊下には、負傷者の呻きと、遠い砲声が混じっている。
壁の燭台は半分ほどしか灯っていない。油も節約しなければならない。
王都全体が、少しずつ削られていた。
玉座の間に入ると、エルミアが立っていた。
片腕の吸血種は、黒い繭のひびを見つめている。
ひびは昨日より広がっていた。
黒い魔力が床へ染み、空席の玉座へ向かって流れている。
まるで、眠れる王子が玉座を思い出し始めているようだった。
ボルガンは繭の前に膝をついた。
手に持っていた炉の鍵を床へ置く。
黒く焦げ、歪み、血の跡が残る鍵だった。
「王子」
ボルガンの声は低い。
「グラド=ヴォルグ外郭が落ちました」
返事はない。
それでも彼は続けた。
「王火炉が穢されました。人類どもは、神火炉などと名を変えようとしております。捕らえた鍛冶師を鎖で繋ぎ、我らの炉で人類の武器を打たせるつもりです」
鍵の横に、もう一つのものを置いた。
小さな鉄槌。
前に置いた弟子のものとは別だった。
バルドの予備槌だった。
「バルドは戻りません。弟子たちは捕らわれました。補給坑は断たれ、王都の砲弾は残り少ない」
ボルガンの肩が震えた。
だが、涙は出ない。
ドワーフは炉の前で泣かない。
泣く水すら、鉄を冷やすために使う。
「今すぐ山へ戻りたい」
その言葉は、吐き捨てるようだった。
「戻って、人間どもの骨を炉に詰めたい。王火炉に白い板を打った司祭の手を、一本ずつ金床に乗せたい。弟子の指を盾にした連中へ、同じ選択を返してやりたい」
エルミアは黙って聞いていた。
玉座の間の黒い繭は、音もなく魔力を漏らしている。
「だが、行かん」
ボルガンは額を石床につけた。
「御身が眠っておられるからではありません。御身を責めているのでもありません。御身が父王を守るために眠られたことを、我らは知っております」
彼の声が、一段深くなる。
「だからこそ、王都を残します。御身が目覚める時、玉座も、炉も、槌も、我らの怒りも、すべて残しておきます」
黒い繭のひびから、かすかな音がした。
石が割れるような音。
エルミアが息を呑む。
ボルガンは顔を上げた。
繭の表面に、新しい亀裂が走っていた。
その奥から、冷たい黒い光が漏れる。
光なのに暗い。
火なのに熱くない。
それは怒りではなかった。
怒りを飲み込み、形を与えるための、王の魔力だった。
ボルガンは歯を食いしばった。
「聞いておられるのか」
答えはない。
だが、繭の中で、レイヴァルトは夢を見ていた。
燃える村の次に、炉が見えた。
赤い火。
黒い鉄。
白い札。
鎖につながれた職人。
指を押さえられた徒弟。
自らの胸に鑿を突き立てた親方。
王火炉の名を覆う白い鉄板。
神火炉。
その字が、夢の中で白く浮かぶ。
レイヴァルトはそれを見ていた。
夢の中の前世では、人間たちは名前を変えるだけで、奪ったものを自分たちのものにしていた。
征服。
開拓。
保護。
管理。
聖別。
言葉は違う。
やっていることは同じだった。
奪い、名を変え、記録を書き換え、奪われた側の声を汚いものとして隠す。
人類は、どの世界でもよく似ている。
レイヴァルトは夢の中でそう思った。
だが、同情はない。
失望もない。
ただ、理解があった。
これは種の癖だ。
ならば、矯正では足りない。
断つべきだ。
黒い夢の底で、父王の声がまた響く。
王であれ。
レイヴァルトは、その言葉の意味を考えた。
父ならば、奪われた炉を取り返し、捕らわれた職人を救い、人類へ再び交渉の余地を与えたかもしれない。
それが父の王だった。
では、自分は。
王であれ。
人類を許せ、ではない。
慈悲を継げ、でもない。
民を見捨てるな。
ならば、見捨てない。
灰牙村も。
グラド=ヴォルグも。
鎖につながれた者も。
炉の名を奪われた者も。
すべて覚える。
覚えて、返す。
夢の中で、白い鉄板に黒い亀裂が入った。
神火炉という文字が割れ、その下から王火炉の名が覗く。
レイヴァルトの指が、繭の中でわずかに開いた。
そして、ゆっくりと閉じる。
何かを掴むように。
玉座の間では、黒い魔力が炉の鍵へ触れていた。
焦げた鍵の表面に、黒天蓋の紋が一瞬だけ浮かび上がる。
ボルガンはそれを見た。
エルミアも見た。
誰も声を発しなかった。
だが、二人は理解した。
眠れる王子は、聞いている。
まだ目覚めない。
まだ言葉もない。
だが、灰牙村も、グラド=ヴォルグも、王子の眠りの底へ届いている。
その事実だけで、ボルガンは立ち上がれた。
「炉へ戻る」
エルミアが問う。
「王都の炉へ、ですか」
「他にどこがある」
ボルガンは背を向けた。
「人類どもが王火炉を穢すなら、こちらは王都の炉を燃やし続ける。弾が足りん? ならば門の飾りを溶かす。槍が足りん? ならば壊れた鎧を打ち直す。火薬が尽きる? ならば石を飛ばす」
彼の声に、少しだけ熱が戻っていた。
「王子が目覚めるまで、一発でも多く人間どもへ叩き込む」
その時、東壁から伝令が駆け込んできた。
「報告!」
伝令の顔は煤だらけだった。
「人類軍、奪った鉱山の魔導砲を前線へ移送中! 西方から大型砲三門、王都包囲陣へ向かっています!」
ボルガンの動きが止まる。
奪われた鉱山の魔導砲。
それは、ドワーフが王都防衛のために造ったものだった。
本来なら、黒曜王都を守るために火を噴くはずの砲。
それが今、人類の手で王都へ向けられようとしている。
伝令は続けた。
「砲身に、白い聖印が刻まれているとのことです。人類側はこれを聖別砲と呼称。明朝までに東壁射程へ入る見込み」
玉座の間に、重い沈黙が落ちた。
ボルガンの拳が震える。
エルミアは黒い繭を見た。
繭の亀裂が、また一本増えた。
遠くで、王都を囲む人類軍の鐘が鳴る。
東壁では負傷者が呻き、北東では灰牙村の煙がまだ空を汚し、西では奪われた鉱山の砲が王都へ運ばれている。
人類は、異種族の炉で鍛えた砲を、異種族の王都へ向けようとしていた。
ボルガンは低く呟いた。
「……あの砲だけは、撃たせん」
その声には、年老いたドワーフの長ではなく、山そのものの怒りが宿っていた。
黒い繭の奥で、レイヴァルトの閉じた瞼が、かすかに震えた。




