第8話「焼かれる獣人の村」
灰牙村は、王都の北東にある小さな隠れ村だった。
地図にはない。
街道からも見えない。
黒い針葉樹の森に囲まれ、岩場の影に身を寄せるようにして造られた、狼族の避難地である。
そこには、戦える者がほとんどいなかった。
若い戦士たちは王都防衛へ向かい、狩人たちは外縁の見張りに出ている。残っているのは、老いた狼族、傷を負った者、幼い子、母親、そして歩けぬ者たちだった。
それでも、村は生きていた。
炉では薄い粥が煮え、子どもたちは声を潜めて遊び、老いた者たちは牙を研いでいた。
いつでも戦えるように、ではない。
逃げられぬ時、最後に子らの前へ立つために。
村の中央には、小さな黒い旗が掲げられていた。
黒天蓋の紋。
眠れる王子レイヴァルトが、父王と臣下を守るために張った防御魔法の紋である。
王子は眠っている。
だが、見捨ててはいない。
灰牙村の者たちは、そう信じていた。
信じなければ、耐えられなかった。
「王子は、いつ起きるの」
幼い狼族の子が、母に尋ねた。
母親は、火の弱い炉に枝を足しながら答える。
「王子は、深い眠りの中で力を蓄えておられる」
「起きたら、人間を追い払ってくれる?」
母親は少しだけ黙った。
それから、子の頭を撫でた。
「追い払うだけでは済まないでしょうね」
その声に、温かさはなかった。
母親は夫を人類軍に殺されている。
兄を奴隷商に連れていかれている。
村を焼かれ、ここへ逃げてきた。
それでも、子の前では泣かなかった。
狼族は涙を隠す。
牙を見せるために。
遠くで、鳥が一斉に飛び立った。
老いた見張りが顔を上げる。
風の匂いを嗅ぐ。
煙。
鉄。
馬。
聖油。
そして、人間。
「来たぞ」
その一言で、灰牙村は変わった。
母親たちは子を抱え、老人たちは槍を取り、傷病者は家の奥ではなく入口へ向かった。
逃げ道は多くない。
村の東には崖。
西には森。
南は王都へ続く細い獣道。
北は岩場。
だが、そのすべての方角から白い札が立ち上がった。
聖札。
薄い板に聖教会の印が刻まれている。
それが地面に突き刺さり、白い光を走らせていく。
逃走封じの結界だった。
老いた狼族が歯を剥いた。
「聖教会の狩り札だ」
村の入口に、人類兵が現れた。
騎士が五十。
歩兵が三百。
従軍司祭が十数名。
そして、奴隷商の車が六台。
荷台には鎖と首輪が積まれていた。
彼らは村を救いに来たのではない。
殺しに来たのでもない。
奪いに来たのだ。
別働隊を率いる騎士は、銀縁の兜をかぶった男だった。
名を、ローデン・カイス。
王国軍の中隊長であり、辺境貴族の三男である。
彼は馬上から灰牙村を見下ろした。
燃えやすそうな木造の家。
逃げ場の少ない地形。
戦える者の少ない住民。
そして、奴隷として売れそうな若い狼族の子ども。
ローデンは満足そうに頷いた。
「良い獲物だ」
隣にいた奴隷商が揉み手をした。
「狼族の子はよく売れます。成長すれば力仕事に使えますし、見世物にもなる」
「傷をつけすぎるな」
「もちろんでございます」
従軍司祭が、咎めるような目を向けた。
ローデンは肩をすくめる。
「神敵の処遇だ。教会も税を取るのだろう」
司祭は目を伏せた。
「浄化のための管理費です」
「便利な言葉だ」
ローデンは笑った。
それから、剣を抜いた。
「灰牙村の獣どもに告げる。魔王は死んだ。魔王の子も眠ったままだ。武器を捨て、神の慈悲に従え。そうすれば、命だけは残してやる」
村の入口に立っていた老狼が、低く唸った。
「慈悲を語る口で、首輪を持ってくるか」
「獣が言葉を返すな」
ローデンの声が冷える。
「従え。さもなくば焼く」
老狼は、村の中央の黒天蓋の旗を見た。
それから、槍を構えた。
「慈悲王は死んだ」
彼は言った。
「だが、王子は生きておられる」
その言葉に、村の狼族たちが顔を上げた。
「我らは王子を待つ。人間の鎖など待たぬ」
ローデンはため息をついた。
「焼け」
従軍司祭たちが聖火を掲げた。
白い炎が、村の外縁に放たれる。
普通の火ではない。
水では消えず、土では埋まらず、魔力を餌に広がる火だった。
家の壁が白く燃える。
乾いた木が軋み、隠れていた子どもたちが泣き出す。
狼族の母親たちが、子らを抱えて南の獣道へ走った。
だが、そこにも聖札の結界があった。
白い光に触れた瞬間、母親の腕が焼ける。
子を落とさぬように、彼女は歯を食いしばった。
悲鳴を上げれば、子が恐れる。
だから声を殺した。
人類兵が進む。
盾を構え、槍を突き出し、逃げ場を狭めていく。
老いた狼族たちが立ちはだかった。
勝てるはずはない。
分かっていた。
それでも、彼らは一歩も退かなかった。
「子らを奥へ!」
「怪我人を岩陰へ運べ!」
「黒天蓋の旗を倒すな!」
人類兵の槍が老狼の肩を貫く。
老狼は槍を掴み、兵士を引き寄せ、牙を剥いた。
「王子が目覚めるまで」
彼は血を吐きながら言った。
「この牙は、折らん」
戦いは短かった。
それは戦闘ではなく、狩りに近かった。
戦士の少ない村に、武装した兵と司祭と奴隷商が押し寄せたのだ。
だが、人類側の想定よりは長引いた。
老人が倒れても、次の老人が立った。
母親が子を隠し、傷病者が家に火を放って進路を塞いだ。
歩けぬ者が、自分の寝台ごと入口を塞ぎ、兵を通さなかった。
狼族は弱くなかった。
ただ、守るものが多すぎた。
ローデンは苛立った。
「手間をかけさせるな。聖鎖を使え」
兵士たちが鎖網を投げる。
白い聖印を刻まれた鎖が、狼族の身体に絡みつく。触れた皮膚が焼け、力が抜ける。
若い母親が倒れた。
腕の中の子が泣く。
奴隷商が目を細めた。
「あれはよい。母子で売れる」
その言葉を聞いた瞬間、老いた狼族が飛びかかった。
だが、司祭の聖術が彼を弾き飛ばした。
ローデンは馬上から見下ろす。
「獣は感情が強すぎる。だから負ける」
司祭が頷いた。
「王を失った獣に、秩序など残りません」
「いや、残っているから面倒なのだ」
ローデンは村の中央を見た。
黒天蓋の旗。
灰と煙の中で、まだ倒れていない。
「まず、あれを落とせ」
人類兵が旗へ向かう。
その前に、幼い狼族の少年が立った。
手には短いナイフ。
刃は欠けている。
構えもなっていない。
それでも、少年は旗の前から動かなかった。
「どけ」
兵士が言う。
少年は首を振った。
「これは王子の旗だ」
「魔王の子の印だ」
「王子は、魔王じゃない」
兵士は笑った。
「同じだ」
剣が振り上げられる。
その時、北の森が吼えた。
狼の咆哮だった。
兵士の腕が止まる。
次の瞬間、森の影から黒い風が飛び出した。
ガルムだった。
肩には聖槍の傷。
背には乾いていない血。
その後ろには、選び抜いた狼族の精鋭が二十名。
王都防衛から引き抜けた、限界の数だった。
少ない。
だが、牙はあった。
「触るな」
ガルムの声が村に落ちた。
兵士が振り向くより早く、彼の爪が白い聖鎖を断つ。
少年の前に立っていた人類兵が、地面に叩き伏せられた。
ガルムは少年を見た。
「よく立った」
少年は震えながら頷いた。
「旗を……」
「見た。下がれ」
ガルムは顔を上げた。
燃える村。
倒れた老人。
鎖につながれた母親。
泣く子ども。
灰に汚れた黒天蓋の旗。
そして、首輪を積んだ奴隷商の車。
彼の中で、何かが軋んだ。
だが、折れない。
折れてはならない。
ここで怒りに任せて全軍へ突っ込めば、救える者まで死ぬ。
灰牙村を救うために来た。
人間を殺すためだけに来たのではない。
順番を誤るな。
それは、眠れる王子がかつて白杯の間で示した判断だった。
父王を守る。
臣下を守る。
最後に人間を殺す。
ガルムは、その背を見ていた。
ならば、自分も誤るわけにはいかない。
「狼族、散れ」
ガルムが命じた。
「子を運べ。鎖を砕け。戦える者だけ、俺に続け」
狼族の精鋭が走る。
人類兵の列に穴を開ける者。
鎖網を断つ者。
燃える家から子を抱えて戻る者。
聖札を破ろうとして手を焼かれながら、それでも爪を立てる者。
ローデンは舌打ちした。
「ガルムか。狼族の長が出てきたぞ」
司祭が顔色を変える。
「本隊へ知らせますか」
「いや」
ローデンは笑った。
「ここで獲れば、侯爵閣下への良い土産になる」
騎士たちが前へ出た。
聖油を塗った槍。
鎖付き投槍。
獣人狩り用の鉤刃。
ガルムを殺すためではない。
捕らえるための武装だった。
それが、ガルムの怒りをさらに冷やした。
人類は本当に、何も見ていない。
狼族の長を見ても、敵将ではなく獲物と見る。
村を見ても、民ではなく資源と見る。
子を見ても、命ではなく商品と見る。
ならば、いずれ教えてやる。
自分たちが何を商品棚に並べたのかを。
ローデンが馬を進めた。
「狼の長ガルム。武器を捨てろ。貴様を捕らえれば、この村の獣どもの命は少しは残してやる」
ガルムは答えない。
「聞こえんのか、獣」
「聞こえている」
「ならば――」
「だから覚えた」
ガルムの目が、ローデンを捉えた。
「お前の声。お前の匂い。お前の顔。お前が何を言ったか。すべて覚えた」
ローデンの笑みが薄くなる。
「脅しか」
「違う」
ガルムは低く言った。
「予約だ」
次の瞬間、狼族と騎士団が衝突した。
ガルムは正面から聖油槍を受け流し、騎士の腕を砕き、鎖付き投槍を爪で弾いた。
肩の傷が開く。
血が飛ぶ。
それでも動きは鈍らない。
だが、時間がない。
村は燃えている。
聖札の結界は完全には破れていない。
人類兵は多い。
ローデンを殺しに行けば、救出が遅れる。
救出を優先すれば、ローデンは逃げる。
ガルムは一瞬で判断した。
今は殺さない。
今は、まだ。
この屈辱を持ち帰る。
王子が目覚める日まで。
「撤収路を開け!」
ガルムが叫んだ。
狼族の精鋭が南の獣道へ集まる。
聖札に覆われた逃走路。
リュシエラから預かった小さな種が、ガルムの手の中で光った。
出発前、彼女は言った。
「一度だけ、結界に穴を開けられます。長くは持ちません」
ガルムは種を地面に叩きつけた。
焼けた土から、黒い根が伸びる。
妖精族の術だ。
聖札の白い光に絡みつき、わずかな隙間を作る。
「走れ!」
灰牙村の民が南へ走った。
老いた者を背負う者。
子を抱える者。
鎖を引きずる者。
傷を押さえる者。
すべては無理だった。
全員は救えない。
鎖につながれたまま、奴隷商の車へ押し込まれる者たちがいた。
炎の向こうで叫ぶ声があった。
聖札に阻まれ、手が届かない者がいた。
ガルムは見た。
目を逸らさなかった。
王子に報告するために。
復讐の日、誰を忘れないかを決めるために。
母親が子をガルムへ投げた。
「この子を!」
ガルムの部下が受け取る。
母親自身は鎖に絡め取られていた。
兵士が彼女を引きずる。
ガルムは動こうとした。
だが、ローデンの騎士たちが前を塞ぐ。
「行かせるか」
ガルムの爪が震えた。
殺す。
今すぐ殺す。
だが、背後では子どもたちが逃げている。
この場で足を止めれば、穴が閉じる。
ガルムは母親を見た。
母親は泣いていなかった。
血まみれの顔で、ただ頷いた。
行け、と。
ガルムは歯を噛み締めた。
奥歯が砕けた。
「……退く」
狼族の長は、そう命じた。
それは敗北の言葉だった。
そして、民を残すための言葉だった。
狼族の部隊が、避難民を守って森へ退いていく。
ローデンは追撃を命じようとした。
だが、ガルムが最後尾に立った。
血に濡れた狼族の長が、森の入口で振り返る。
その目を見て、騎士たちの足が止まった。
追えば殺される。
彼らはそう理解した。
ローデンだけが苛立った声を上げる。
「追え! 獣を逃がすな!」
誰もすぐには動かなかった。
ガルムはローデンを見た。
「ローデン・カイス」
名を呼ばれ、騎士の顔が強張る。
「お前は生かす」
「何?」
「王子が目覚めた時、俺の口から報告するためだ」
ガルムの声は、燃える村より冷たかった。
「灰牙村を焼いた人間の名としてな」
そう言い残し、彼は森へ消えた。
灰牙村は燃え続けた。
人類兵は火を弱めながら、生き残った者を鎖につないだ。
奴隷商の車が満たされていく。
司祭は黒天蓋の旗を引き倒そうとした。
だが、焼けた支柱に触れた瞬間、黒い火花が散った。
司祭は短い悲鳴を上げて手を引く。
旗は半分焼けていた。
黒い布は裂け、紋も灰に汚れている。
それでも完全には燃えなかった。
ローデンは不快そうにそれを見た。
「持ち帰れ。魔王の子の印だ。踏み絵に使える」
兵士が恐る恐る旗へ近づく。
その時、遠く黒曜王都の方角で、低い音が響いた。
鐘ではない。
砲声でもない。
地の底で、大きな獣が息を吸ったような音だった。
人類兵たちが一斉に振り返る。
「何だ」
ローデンが呟く。
答える者はいない。
黒曜宮の玉座の間。
黒い繭に、さらに深い亀裂が走っていた。
エルミアはその前に立ち尽くしていた。
外から伝令が駆け込んでくる。
灰牙村の報告は、まだ届いていない。
だが、繭は反応していた。
内側から、黒い魔力が滲み出す。
床に広がったそれは、血のようではなかった。
影だった。
玉座の間の石床を這い、空席の玉座へ伸び、父王の紋章の下で止まる。
エルミアは息を呑んだ。
「王子……」
繭の中で、レイヴァルトは夢を見ていた。
燃える村。
泣く子。
鎖。
首輪。
白い聖印。
それらは夢ではない。
遠くで起きている現実だった。
だが、まだ目が開かない。
体が動かない。
黒い眠りが、彼を縛っている。
その眠りの底で、父王の声が聞こえた。
王であれ。
レイヴァルトは、その言葉を聞いた。
そして、夢の中で静かに答えた。
ならば、覚えておく。
灰牙村の火を。
鎖の音を。
母が子を投げた瞬間を。
ローデン・カイスという名を。
人類が積み上げた罪は、消えない。
眠りの中で、レイヴァルトの唇がわずかに動いた。
声はまだ、外へ出ない。
だが、玉座の間の床に滲んだ黒い影が、空席の玉座へ一段深く染み込んだ。
その夜、王都へ戻ったガルムは、黒曜宮へ直行した。
肩の傷は開き、全身に火傷を負い、背には灰牙村から救い出した幼子を負っていた。
彼は治療院へ行かなかった。
玉座の間へ入る。
エルミアが振り返る。
ガルムは黒い繭の前に膝をついた。
背の子を部下に預け、血に濡れた額を石床につける。
「王子」
声は低く、枯れていた。
「灰牙村は焼かれました」
玉座の間に、沈黙が落ちる。
「救えた者は半数にも届きません。多くが殺され、多くが鎖につながれました。母が子を投げて寄越しました。老人たちは旗を守って死にました。人類は、我らを民ではなく獲物と呼びました」
ガルムの拳が震える。
「ローデン・カイス。灰牙村を焼いた騎士の名です」
黒い繭の亀裂から、魔力が漏れた。
それは答えではない。
だが、ガルムには十分だった。
「御身が目覚める日まで、狼族はこの名を忘れません」
彼は牙を剥いた。
笑みではない。
誓いだった。
「その日が来たら、灰牙村の復讐を我らにお命じください」
繭の中で、レイヴァルトの指が握られていた。
固く。
血を掴むように。
そして同じ夜、西方鉱山からの伝令が王都へ届いた。
ドワーフの伝令だった。
片足を失い、担架に乗せられ、それでも手には黒く焦げた炉の鍵を握っていた。
ボルガンが受け取った報告は、短かった。
西方鉱山外郭、完全陥落。
人類軍、鉱山都市を要塞化。
捕らえられたドワーフ鍛冶師、強制労働へ移送。
王都の砲弾供給路、断絶。
ボルガンは炉の鍵を握りしめた。
鉄の鍵が、彼の拳の中で歪む。
灰牙村の煙が、まだ北東の空に残っている。
その反対側、西の山脈にも、人類の旗が立った。
王なき異種族連合は、さらに削られていく。
それでも玉座の間の黒い繭は、割れ続けていた。




