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第7話「人類軍の侵攻」

 黒曜王都ヴァルドレインの朝は、鐘の音で始まらなかった。


 砲声で始まった。


 東の城壁に、白い光弾が着弾する。


 黒曜石で組まれた城壁が低く唸り、砕けた破片が城内側へ降り注いだ。粉塵が舞い、狼族の兵が倒れ、ドワーフの砲兵が肩を押さえて呻く。


 だが、城壁は落ちない。


 慈悲王アルヴァーンが築いた王都だった。


 ただの石積みではない。


 竜人族の火に耐え、ドワーフの炉で鍛えられ、妖精族の根で縛られ、狼族の血で守られてきた壁である。


 人類の魔導砲ごときで、一撃では崩れなかった。


「第二射、来るぞ!」


 城壁の上で、ガルムが吼えた。


 老いた狼族の長は、片目に古い傷を持ち、右腕には黒い包帯を巻いている。数年の戦で、毛並みには白いものが混じっていた。


 それでも声は衰えていない。


「盾を上げろ! 妖精族、衝撃を流せ! ドワーフ、砲身を狙え!」


 異種族の兵たちが動く。


 狼族の盾兵が前へ出る。

 妖精族の魔術師が風を編む。

 ドワーフの砲兵が黒鉄弾を込める。


 誰も、逃げない。


 城壁の外には、人類軍が白く広がっていた。


 王国軍の歩兵。

 貴族騎士団。

 聖教会の司祭。

 魔導砲部隊。

 奴隷運搬車。

 測量師。

 従軍商人。

 聖歌隊。


 戦場に似つかわしくない者まで、最初から連れてきている。


 彼らは、この王都をまだ落としてもいないのに、すでに奪った後のことを考えていた。


 どの区画を聖堂に変えるか。

 どの民を労役に回すか。

 どの炉を接収するか。

 どの森を切り開くか。

 どの王族の遺骸を晒すか。


 その傲慢さは、白い旗の下でも隠されていなかった。


 人類軍中央の陣には、金縁の天幕が張られていた。


 そこに立つ男は、王国東征軍司令官ギュスターヴ・レオンハルト侯爵。


 厚い胸甲をまとい、豊かな髭を整え、遠眼鏡で黒曜王都の城壁を見ている。


 彼の隣には、聖教会の高位司祭がいた。


 名を、マティアス。


 細い体に白い法衣をまとい、金の聖輪を胸に下げている。顔は穏やかだったが、その目には祈りよりも計算があった。


「硬いな」


 ギュスターヴ侯爵が呟く。


「魔王の都ですから」


 マティアス司祭は静かに答えた。


「ですが、王は死にました。魔王の子も眠ったまま。残っているのは、主を失った獣と羽虫と鉱夫にすぎません」


「その割には、よく耐える」


「信仰なき者ほど、執着だけは強いものです」


 ギュスターヴは遠眼鏡を下ろした。


「王子の繭は本当に城内にあるのだな」


「黒曜宮の玉座の間です」


「焼けば終わるか」


「聖火であれば」


 マティアス司祭は微笑した。


「ただし、生きたまま焼く必要があります。魔王の血は死後に濁る。聖別の効果が落ちますので」


 侯爵は眉を動かしたが、異を唱えなかった。


 人類にとって、異種族は敵である。


 魔である。


 神敵である。


 そう教えられてきた。


 ならば、その王子を生きたまま焼くことも、残酷ではなく儀式になる。


 言葉は、刃よりも便利だった。


「よかろう」


 ギュスターヴは命じた。


「第一陣を押し出せ。聖印杭を城壁前に打ち込め。魔導砲は東門を集中射撃。騎士団は突破口が開き次第、突入する」


「捕虜は?」


「使える者は残せ。狼族は鎖に繋げば労働力になる。ドワーフは炉で使える。妖精は高く売れる。竜人は……扱いにくいな」


 侯爵は笑った。


「翼を落とせばよいか」


 マティアス司祭は咎めなかった。


 ただ、聖句を唱えた。


「神の御心のままに」


 その言葉を合図に、人類軍の第一陣が進み出た。


 盾を並べ、聖印杭を担ぎ、魔導砲の援護を受けながら、黒曜王都へ近づいていく。


 城壁上の異種族たちは、それを見下ろしていた。


 数では負けている。


 砲の数でも負けている。


 物資では比較にもならない。


 だが、彼らには退く場所がない。


 背後には王都がある。

 黒曜宮がある。

 玉座の間がある。

 眠れる王子がいる。


 ならば、城壁が墓になるまで戦うだけだった。


「撃て!」


 ボルガンの怒声が城壁下から響いた。


 ドワーフ砲兵の黒鉄弾が放たれる。


 人類軍の盾列に、黒い穴が開いた。


 聖印の白い防壁が弾を受け止めようとする。だが、ドワーフの砲弾は単なる鉄ではない。炉の底で鍛えた黒鉄に、妖精族の沈黙の呪いを刻み込んである。


 着弾と同時に、聖印の光が沈黙する。


 盾列が崩れ、兵士たちが叫びながら倒れた。


 城壁上で、狼族が鬨の声を上げる。


 しかし、人類軍は止まらなかった。


 後ろから次の列が来る。


 倒れた兵士を踏み越え、砕けた盾を捨て、聖印杭を前へ運ぶ。


 数が多い。


 多すぎる。


 それが人類の強さだった。


 一人ひとりは弱い。


 恐怖もする。

 叫びもする。

 逃げもする。


 だが、後ろにもっと多くの人間がいる。


 命令と信仰と褒賞で押し出され、死体の上に道を作る。


 異種族が命を重く見るほど、人類は数で踏み込んでくる。


 城壁の下で、最初の聖印杭が地面に打ち込まれた。


 白い光が走る。


 黒曜王都の外壁に刻まれた古い防衛術式が、きしむような音を立てた。


 妖精族の魔術師が苦悶する。


「聖印杭、根に触れます!」


 リュシエラが城壁中央から手を上げた。


 彼女の周囲で、薄緑の燐光が舞う。


「根を切らせないでください。城壁の魔力が剥がれます」


「任せろ」


 ガルムが城壁から身を乗り出した。


 彼の後ろに、狼族の精鋭が並ぶ。


 年若い者は少ない。


 多くは傷を負い、片耳を失い、片腕に包帯を巻いている。村を焼かれ、家族を奪われ、それでも牙を残してきた者たちだった。


「門は開けるな。俺たちは上から行く」


 副官の狼族が目を見開いた。


「長、自らですか」


「俺の村を焼いた連中だ」


 ガルムは低く言った。


「俺が降りずに誰が降りる」


 次の瞬間、狼族の部隊が城壁から飛び降りた。


 着地と同時に、人類兵の列が裂ける。


 ガルムの爪が聖印杭を担ぐ兵士を弾き飛ばし、狼族の戦士たちが杭へ殺到する。白い聖術が皮膚を焼くが、彼らは止まらない。


 一本目の杭が砕けた。


 二本目も折れる。


 人類兵が悲鳴を上げる。


「獣人だ!」


「近づけるな!」


「槍を出せ!」


 聖槍兵が前へ出る。


 槍先には白い油が塗られていた。


 狼族の皮膚を焼き、再生を妨げる聖油だった。


 ガルムはそれを見て、笑わなかった。


 ただ、槍を避けずに踏み込んだ。


 聖槍が肩を貫く。


 焼ける匂いが立つ。


 それでもガルムの爪は止まらない。


 彼は槍を肩に刺したまま、兵士の兜を掴み、地面へ叩きつけた。


「この程度で止まる牙なら、とっくに折れている」


 狼族の戦士たちは聖印杭を破壊していく。


 だが、人類軍はそれを読んでいた。


 後方から網が射出される。


 鎖で編まれ、聖印を刻まれた拘束網。


 奴隷狩りに使われる道具だった。


 数人の狼族が絡め取られ、地面へ叩き落とされる。


 人類兵が殺到した。


「生け捕れ! 獣人は高く売れる!」


 その声を聞いた瞬間、城壁上の異種族たちの顔色が変わった。


 戦場で敵を殺す声ではない。


 商品を見つけた商人の声だった。


 ガルムが低く唸る。


 怒りで視界が赤く染まる。


 だが、突っ込みすぎれば部隊が孤立する。


 彼は王子の繭を思い出した。


 玉座の前で眠る、黒い王子。


 父王を守るために眠り続ける主。


 今ここで自分が怒りに任せて死ねば、誰が狼族をまとめる。


 誰が王子の目覚めに牙を捧げる。


 ガルムは血の味を噛み殺した。


「退くぞ!」


 狼族の戦士たちが、捕らえられた仲間を引きずって後退する。


 全員は救えない。


 三人が鎖網に残った。


 そのうち一人は、まだ若い狼族だった。片足に聖鎖が絡み、立ち上がれない。


「長!」


 叫び声が上がる。


 ガルムは振り返った。


 救いに戻れば、さらに多くが囲まれる。


 戻らなければ、あの若者は連れていかれる。


 一瞬。


 戦場で最も残酷な一瞬が、ガルムの喉を締めた。


 その時、城壁から黒鉄弾が飛んだ。


 若い狼族のすぐ横に着弾し、聖鎖の基部を砕く。


 ボルガンだった。


「走れ、小僧!」


 若い狼族が血を吐きながら起き上がる。


 ガルムがその首根を掴み、引きずるように退いた。


 人類兵が追おうとする。


 だが、リュシエラの燐光が地面へ降りた。


 白い霧が戦場を覆う。


 人類兵の視界が奪われ、狼族の部隊は城壁下の影へ戻った。


 第一波は止まった。


 だが、勝利ではない。


 聖印杭の半数は砕いた。


 残りの半数は地面に残った。


 城壁の防衛術式は、確実に弱っていた。


 城壁上へ戻ったガルムの肩から、聖槍が引き抜かれる。


 肉が焼け、血が黒く滲んだ。


 治療師が駆け寄ろうとするが、ガルムは手で制した。


「後だ」


「しかし」


「若い者を先に見ろ」


 それは父王の教えだった。


 民を先に。

 戦える者は後に。

 長は最後に。


 ガルムはその教えを守っていた。


 慈悲王を失っても、慈悲王の秩序はまだ彼らの中に残っている。


 だが、それだけでは勝てない。


 ザルギウスは上空を見ていた。


 人類軍後方で、魔導砲の砲身が上を向いている。


 空を狙っていた。


 竜人族が飛べば撃ち落とす構えだ。


 さらに、聖教会の結界兵が輪を組んでいる。白い糸のような結界が空に張られ、竜人の翼を絡め取る準備をしていた。


「空を封じるか」


 ザルギウスの声は低い。


 彼の左翼は鉄の支柱で補われている。


 もう以前のようには飛べない。


 だが、竜人族の将として、空を奪われる屈辱を忘れたことはなかった。


「将軍、我らが出ます」


 若い竜人が言った。


 その翼はまだ傷が少ない。


 目には死を恐れぬ光があった。


 ザルギウスは首を振った。


「死ぬだけだ」


「ですが、砲を潰さねば」


「死ぬだけでは潰せん」


 彼は城壁の下を見た。


 人類軍は第一陣を下げ、第二陣を準備している。


 損害を受けても平然と隊列を組み替える。死んだ兵士の隙間に、次の兵士が入る。


 そして後方では、奴隷運搬車が待っていた。


 まだ戦が終わっていないのに、捕らえる準備だけは整っている。


 ザルギウスの爪が石を削る。


「下等な」


 それは怒鳴り声ではない。


 竜人族が人類へ向ける、冷たい評価だった。


 その頃、黒曜宮の玉座の間は静かだった。


 外の砲声が、遠い雷のように届いている。


 玉座の前には黒い繭。


 ひびは、昨日よりも増えていた。


 誰もいないわけではない。


 玉座の間には、老いた吸血種の女が控えていた。


 名をエルミア。


 かつて人類貴族社会に潜り、情報を集めていた者だった。今は諜報網を寸断され、片腕を失い、王都に戻っている。


 彼女は毎日、黒い繭の前に立つ。


 報告のためだった。


「王子」


 エルミアは静かに語りかける。


「本日、人類軍第一陣が東壁へ接近。聖印杭を使用。狼族の長ガルムが迎撃し、半数を破壊しました」


 返事はない。


 それでも彼女は続ける。


「人類軍司令官はギュスターヴ・レオンハルト侯爵。聖教会側の指揮官はマティアス司祭。どちらも、御身の引き渡しと焼却を目的としています」


 繭のひびから、黒い魔力がわずかに滲んだ。


 エルミアは目を伏せる。


「まだ、お眠りください」


 その声には、祈りではなく命令に近い切実さがあった。


「今目覚められれば、御身はこの惨状をご覧になる。まだ、我らは報告を整えられておりません。まだ、我らは奪われた名を数え切れておりません」


 彼女の声が、かすかに低くなる。


「ですが、目覚められたなら」


 片腕の吸血種は、深く頭を垂れた。


「どうか、我らに復讐の許可を」


 黒い繭は答えない。


 ただ、外の砲声に合わせるように、内部で何かが脈打った。


 レイヴァルトは、夢を見ていた。


 白い天井。

 無機質な灯り。

 人間だけの街。

 鉄の箱が列をなして走る道。

 透明な板に映る、遠い戦争の映像。


 その夢の中で、人間たちは画面越しに死を見ていた。


 指先で触れ、次へ流し、食事を続け、笑い、眠る。


 遠い場所の炎は、彼らにとって情報でしかない。


 焼ける村も。

 泣く子も。

 踏まれる死体も。


 見飽きれば、別のものを見る。


 レイヴァルトは、夢の中でそれを見下ろしていた。


 人間だったかもしれない自分。


 だが、それが何だ。


 画面の向こうの死を軽く扱う者と、神の名で村を焼く者。


 どちらも、命を距離で薄める。


 近くで見なければ、痛みではないと思っている。


 ならば、近くで見せればいい。


 奪ったものが何であったか。

 踏みにじった者が誰であったか。

 焼いた森が、泣いた村が、鎖につないだ子が、どれほどの憎悪を生むか。


 人類の目の前へ積み上げてやればいい。


 夢の白い街が、黒い炎で歪む。


 レイヴァルトの指が、繭の中で動いた。


 城壁では、第二波が始まっていた。


 今度は聖歌隊が前に出た。


 白い衣を着た少年少女たちが、司祭に囲まれて歌っている。


 彼らの声に合わせ、聖印杭が輝きを増した。


 黒曜王都の防衛術式が、さらに削られる。


 城壁上の妖精族が耳を押さえた。


「歌に呪いが混じっています」


 リュシエラが目を細める。


「子どもを媒介にしている」


 ガルムが振り向いた。


「殺せるか」


 リュシエラは答えなかった。


 殺せる。


 距離は届く。

 術式も読める。

 歌っている子どもたちを黙らせれば、聖印杭の出力は落ちる。


 だが、それをすれば妖精族の魔術師たちは、人類の子を直接呪い殺すことになる。


 戦場で敵を殺すこととは違う。


 それを狙っている。


 聖教会は、異種族側の手を汚させるために子どもを前へ出している。


 リュシエラの顔から、表情が消えた。


「歌だけを殺します」


 彼女は両手を広げた。


 燐光が細い針となり、戦場へ降る。


 少年少女たちの喉には触れない。


 歌に混ぜられた呪いの節だけを縫い止める。


 高度な術だった。


 森をひとつ守るほどの集中を、戦場の騒音の中で行う。


 リュシエラの唇から血が落ちた。


 聖歌の音が歪む。


 聖印杭の光が弱まる。


 城壁上の兵たちが息をついた。


 その瞬間、人類軍の魔導砲が火を噴いた。


 狙いはリュシエラだった。


 ザルギウスが動く。


 翼を広げ、彼女の前へ立つ。


 白い光弾が竜人の翼に直撃した。


 鉄の支柱が砕け、焼けた左翼がさらに裂ける。


 ザルギウスの巨体が城壁上に沈んだ。


「将軍!」


 竜人族の兵が駆け寄る。


 ザルギウスは血を吐きながら立ち上がった。


「騒ぐな」


 彼はリュシエラを見た。


「続けろ」


 リュシエラは一瞬だけ目を閉じた。


「恩に着ます」


「王子に返せ」


 戦場は続いた。


 第三波。


 第四波。


 人類軍は日が傾いても退かなかった。


 黒曜王都の東壁には無数の傷が刻まれ、聖印杭の一部は地中深くに残った。ドワーフ砲兵の黒鉄弾は半数を切り、狼族の戦士は負傷者で溢れ、妖精族の魔術師は魔力切れで倒れ始めた。


 それでも、王都は落ちなかった。


 夕刻。


 人類軍は一度後退した。


 攻城初日、城壁は破れなかった。


 だが、異種族側は勝ったとは言わなかった。


 被害が大きすぎた。


 城壁の上に並ぶ負傷者。

 治療院へ運ばれる狼族。

 翼を引きずる竜人。

 声を失った妖精族の魔術師。

 火薬で黒く汚れたドワーフ砲兵。


 ガルムは東壁から外を見ていた。


 人類軍の陣では、もう次の攻撃準備が始まっている。


 奴隷運搬車の数も増えていた。


 その時、王都北門から伝令が駆け込んできた。


 若い翼人族だった。


 片翼を血で濡らし、息を乱し、城壁上に転がるように着地する。


「報告……北東、灰牙村方面に、人類軍別働隊」


 ガルムの顔が固まった。


 灰牙村。


 王都へ避難しきれなかった狼族の民が集まる、外縁の隠れ村だった。


 老人と子どもが多い。


 戦える者は少ない。


「数は」


 ガルムの声は低かった。


「騎士五十、歩兵三百、司祭十数名。奴隷商の車も……」


 伝令は血を吐いた。


「すでに、村の周囲に聖札が」


 ガルムの肩の傷から、血が落ちる。


 誰も声を出せなかった。


 人類軍の本隊は王都を攻めていた。


 同時に、別働隊が外縁の村を狙っていた。


 王都の守備兵を引き剥がすためか。

 奴隷を確保するためか。

 あるいは、狼族の怒りを誘うためか。


 どれでも同じだった。


 人類はまた、村を焼こうとしている。


 ガルムは城壁を降りようとした。


 ザルギウスが止める。


「行けば東壁が薄くなる」


「俺の民だ」


「王都も民だ」


 ガルムの牙が剥き出しになる。


「分かっている」


 その声は、獣のものに近かった。


「分かっているから、まだ立っている」


 リュシエラが静かに言った。


「少数なら送れます」


 ボルガンが首を振る。


「今の王都に余剰戦力などない」


「それでも」


「分かっておる」


 老いたドワーフは歯を食いしばった。


「分かっておるわ」


 全員が、同じものを見ていた。


 黒曜宮。


 玉座の間。


 眠れる王子。


 もし王子が目覚めていれば。


 その言葉は、誰も口にしなかった。


 口にすれば、眠る王子を責めることになる。


 父王を守るために命を削り、国を残すために眠った王子を。


 そんなことは、誰にもできなかった。


 ガルムは血の滲む拳を握った。


「俺が行く」


「長」


「東壁は副官に任せる。俺は灰牙村へ向かう」


 ザルギウスが睨む。


「罠だ」


「知っている」


「死ぬぞ」


「それも知っている」


 ガルムは黒曜宮を見た。


「だが、俺は王子に誓った。狼族の牙を折らずに待つと。ならば、牙を持たぬ子らを見捨てて待つことはできん」


 誰も止められなかった。


 その時、遠く北東の空に、赤い煙が上がった。


 夕焼けではない。


 火の色だった。


 ガルムの目が、静かに血の色へ変わる。


 黒曜宮の玉座の間で、黒い繭に深いひびが走った。


 中で眠るレイヴァルトの指先が、今度は確かに握られた。


 まるで、遠い村の炎を掴み潰そうとするように。

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