第6話「王なき異種族連合」
慈悲王アルヴァーンの葬列に、音はなかった。
黒曜王都ヴァルドレインの大通りを、黒い棺が進んでいく。
棺を担いだのは、竜人族の戦士たちだった。
かつて王の命令で戦を止められた者たち。
王の言葉ひとつで剣を収めた者たち。
そして今は、誰よりも剣を抜きたがっている者たち。
だが、彼らは抜かなかった。
王の亡骸の前で、怒りを獣に堕とすわけにはいかなかった。
沿道には、異種族の民が膝をついていた。
狼族の子は母の腕の中で泣き、妖精族は光を消し、ドワーフは炉の火を落とし、翼人族は空から降りて石畳に額をつけた。
竜人族は翼を畳み、鬼族は棍棒を地面に伏せ、吸血種は日除けの黒布を脱いで棺へ頭を垂れた。
誰も、王の死を受け入れられなかった。
それでも黒い棺は進む。
進まなければならなかった。
王は死んだ。
慈悲王は、人類との和平の席で殺された。
その事実だけが、黒曜王都の上に鉛のように落ちていた。
黒曜宮の地下。
歴代の王族が眠る霊廟に、アルヴァーンの棺は収められた。
だが、その隣に王子レイヴァルトの棺はなかった。
王子は死んでいない。
死んでいないが、目覚めもしなかった。
黒曜宮の玉座の間。
父王が座していた玉座の前に、黒い繭が置かれていた。
黒天蓋の残滓が凝り固まったものだ。表面は黒曜石のように硬く、内側にはかすかな呼吸の気配がある。
妖精族の長リュシエラは、三日三晩、その繭の前から離れなかった。
森の根から抽出した霊薬を使い、月露を垂らし、古い治癒歌を歌った。
それでも繭は開かない。
ドワーフの長ボルガンは、古代鉱床から掘り出した命脈石を砕いた。
それは本来、王都の防衛炉に使われるはずの石だった。使えば、百年分の炉心が失われる。
だが、彼は迷わなかった。
王子が目覚める可能性が一厘でもあるなら、炉など後で掘ればよい。
それでも繭は開かなかった。
竜人族将軍ザルギウスは、自らの生命炉を分け与えようとした。
リュシエラが止めた。
「将軍が死にます」
「王子が目覚めるなら安い」
「それで目覚める保証はありません」
「保証など要らん」
「王子が目覚めた時、あなたがいなければ誰が前線を支えるのです」
その言葉で、ザルギウスは止まった。
王子を守るために死ぬことは容易い。
だが、王子が目覚める日まで国を残すことは、死ぬより難しい。
その難しさを、彼らはその日から背負うことになった。
慈悲王の死後、黒曜宮では緊急の軍議が開かれた。
玉座は空席のままだった。
誰も座らない。
誰も座ろうとしない。
アルヴァーンの玉座は、レイヴァルトが目覚めるまで空けておく。
それは、議論にもならなかった。
人類ならば、王が死に、王子が眠れば、次の権力を求めて争うのだろう。
誰が摂政になるか。
誰が軍権を握るか。
誰が王の名を利用するか。
異種族連合では、違った。
彼らは争わなかった。
ただ、玉座の前に膝をついた。
ザルギウスが低く告げる。
「慈悲王は崩御された。だが、御子は生きておられる」
ガルムが牙を噛み鳴らした。
「ならば、王はまだ途切れていない」
ボルガンが拳を胸に当てる。
「玉座は守る。炉が尽きてもだ」
リュシエラは黒い繭を見つめたまま、静かに言った。
「王子が眠っている間、我らが国を眠らせてはなりません」
その言葉で、王なき異種族連合は動き始めた。
新王は立たない。
摂政王も置かない。
玉座は空けたまま、各種族の長たちが王子の名のもとに国を支える。
命令書には、王の印ではなく、黒天蓋の紋が押された。
それは、眠る王子が父王と臣下を守った証だった。
黒い天蓋の下で、この国はまだ生きている。
異種族たちは、そう信じた。
しかし、信じることと、守り切ることは違う。
人類王国は早かった。
慈悲王の死から七日後、国境の砦に白い旗が立った。
聖教会の旗だった。
旗の下には、王国軍の歩兵、貴族の騎士団、従軍司祭、奴隷商、測量師、鉱山技師が並んでいた。
戦争に必要な者だけではない。
奪った後に使う者たちまで、最初から連れてきていた。
それは討伐軍ではなかった。
侵略軍だった。
最初の布告は、国境砦から放たれた。
魔王アルヴァーンは討たれた。
黒曜の魔は王を失った。
神の光に従う者は保護される。
抵抗する者は神敵として浄化される。
ザルギウスは、その布告を読み終えると、無言で握り潰した。
紙は灰になった。
だが、そこに書かれていた言葉は、すぐに現実になった。
国境の小村が焼かれた。
狼族の村だった。
戦士たちの大半は、黒曜宮の防衛と国境砦の警戒に出ていた。村に残っていたのは、老いた者、子ども、傷病者が多かった。
人類軍は朝を選んだ。
霧が出る時間だった。
聖教会の司祭が、村の周囲に白い札を立てた。逃げ道を塞ぐための結界だった。
貴族騎士は馬上から命じた。
「魔獣どもを捕らえろ。使える者は奴隷に、逆らう者は処分だ」
狼族は戦った。
老いた牙で。
折れた爪で。
子を背に隠しながら。
だが、王はいなかった。
王子は眠っていた。
援軍は間に合わなかった。
黒曜宮に知らせが届いた時、ガルムは一言も発しなかった。
ただ、玉座の間へ向かった。
黒い繭の前に膝をつき、額を床につける。
「王子」
声は低かった。
「狼族は、待ちます」
それは報告ではなかった。
誓いだった。
「我らの村が焼かれても、我らの子が奪われても、御身を責めません。御身は父王を守るために眠られた。ならば、我らは御身が目覚める日まで牙を折らずに待ちます」
拳が床を叩く。
石にひびが入った。
「だが、目覚められた時は」
ガルムの牙の間から、血が滲む。
「我らに、噛み殺す権利をお与えください」
黒い繭は答えなかった。
それでもガルムは頭を下げ続けた。
次に報告が来たのは、南方森域だった。
聖教会の巡礼路という名で、白い石柱が森へ打ち込まれた。
それは道標ではない。
森の魔力を吸い上げ、妖精族の聖域を枯らすための聖具だった。
リュシエラは自ら南方へ飛び、焼けた森を見た。
かつて月光を蓄えて青く光っていた枝が、灰色に変わっている。
泉には白い油膜が浮き、聖火で焼かれた根は、叫び声のような形で地上に露出していた。
若い妖精が泣いていた。
「長。森が、歌いません」
リュシエラはその子の頭を抱いた。
そして、何も言わなかった。
言えば、呪いが口から漏れる。
今すぐ人類の街へ疫病を流し、聖堂の鐘を腐らせ、神の名を唱える舌を花の根で縫い合わせることもできた。
だが、それをすれば戦線は散る。
王都は空く。
眠る王子を守る者が減る。
だから、リュシエラは呪わなかった。
代わりに、焼け残った森の種を集めた。
「根を残しなさい」
彼女は妖精たちへ命じた。
「森は覚えます。火を。油を。聖印を。人類の足音を」
妖精たちは涙を流しながら頷いた。
南方森域は後退した。
だが、完全には死ななかった。
西方鉱山からの報告は、さらに重かった。
人類王国は、慈悲王の死を聞くと同時に鉱山道へ兵を進めていた。
彼らは鉱山を壊す気などなかった。
欲しかったからだ。
鉄。
黒曜石。
魔導鉱。
炉。
そして、ドワーフの腕。
ボルガンの弟子たちが捕らえられた。
鎖につながれ、炉の前に立たされ、人類のために武具を打たされた。
拒んだ者は、指を潰された。
それでもドワーフたちは口を割らなかった。
炉の深部へ続く古い道。
王都へつながる補給坑。
黒曜宮の防衛炉の設計。
どれも教えなかった。
ボルガンは報告を聞き、しばらく目を閉じていた。
そして、玉座の間へ行った。
黒い繭の前に、小さな鉄槌を置く。
それは、捕らえられた弟子のものだった。
「王子」
ボルガンは言った。
「ドワーフは忘れません」
声は震えていなかった。
震える余地もないほど、怒りが固まっていた。
「奪われた炉の火は、必ず奪い返します。だが今は、王都の炉を消しません。御身が目覚めるまで、城壁を支える鉄を打ち続けます」
黒い繭は答えない。
それでも、ボルガンは深く頭を垂れた。
竜人族も、傷を負った。
人類軍の主力が正面からぶつかったのは、竜人族の防衛線だった。
彼らは強かった。
人類の騎士団を焼き、聖槍兵を踏み潰し、白い旗を何本もへし折った。
しかし、人類は数で押した。
聖教会の結界兵が竜人の飛翔を封じ、王国軍の魔導砲が翼を狙い、貴族騎士団が負傷した戦士へ群がった。
ザルギウスは三日間、前線から戻らなかった。
戻った時、左翼の半分が焼けていた。
それでも彼は治療院へ行かず、玉座の間へ向かった。
黒い繭の前で、片膝をつく。
「王子。竜人族は空を失っておりません」
それは嘘だった。
少なくとも半分は嘘だった。
高山拠点の二つは落ち、若い竜人の多くが戻らなかった。
だが、ザルギウスはそう報告した。
眠る王子へ、敗北だけを捧げたくなかったからだ。
「御身が目覚める時まで、空を残します」
王なき異種族連合は、そうして耐えた。
誰も裏切らなかった。
誰も王子を捨てなかった。
だが、損害は増え続けた。
地図から、異種族領の色が削られていく。
国境砦の三つが落ちた。
獣人の村が七つ焼かれた。
南方森域の三割が聖火に汚された。
西方鉱山の外郭が奪われた。
翼人族の高山拠点が襲撃された。
海魔族の港湾が封鎖された。
吸血種の諜報網は、人類貴族の粛清によって寸断された。
それでも黒曜王都ヴァルドレインは落ちなかった。
玉座の間の黒い繭も、砕けなかった。
人類王国は苛立った。
彼らは、異種族連合が王を失えば崩れると思っていた。
慈悲王を殺せば、狼族は暴走し、妖精族は森へ閉じこもり、ドワーフは鉱山へ戻り、竜人族は他種族を見捨てると考えていた。
違った。
異種族連合は傷つきながらも、ひとつの名に縛られていた。
レイヴァルト。
眠れる王子。
慈悲王の遺児。
人類は、その名を恐れるようになった。
王子は目覚めない。
目覚めないはずだ。
聖教会はそう発表した。
魔王の子は封じられた。
神の聖印は魔の血を眠らせ続ける。
恐れる必要はない。
だが、前線の兵士たちは違った。
夜になると、黒曜王都の方角から視線を感じると言った。
包囲線の外で眠る時、夢に黒い天蓋を見る者がいた。
白い聖印を握った司祭が、朝になると手のひらに黒い痣を浮かべていることがあった。
王子は眠っている。
それでも、人類は完全には安心できなかった。
だからこそ、人類王国は決断した。
黒曜王都ヴァルドレインを落とす。
眠れる王子を、繭ごと聖火で焼く。
慈悲王の血筋を、今度こそ絶やす。
王都包囲軍は、白い旗を連ねて進軍した。
攻城塔。
魔導砲。
聖印杭。
鎖付き投槍。
奴隷運搬車。
従軍司祭の聖歌隊。
それは軍であり、処刑場であり、略奪の列だった。
黒曜王都の城壁から、ガルムがそれを見下ろしていた。
髭には白いものが混じり、片目には古い傷が走っている。
だが、牙は折れていない。
隣にはザルギウスが立っていた。
焼けた左翼は、鉄の支柱で補われている。
ボルガンは城壁下の砲座で、最後の黒鉄弾を数えていた。
リュシエラは、王都の庭園に残された小さな森を背に、静かに目を閉じている。
誰も、降伏を口にしなかった。
誰も、王子を差し出そうとは言わなかった。
人類軍の陣から、聖教会の使者が進み出た。
白い法衣。
金の聖輪。
声を拡大する聖具。
その使者は、城壁へ向かって宣告した。
「黒曜王都に告げる」
声が、戦場に響く。
「魔王アルヴァーンは討たれた。魔王の子レイヴァルトも、神の封印により眠り続けている。無益な抵抗をやめ、門を開け。神に従う者は労役ののち、命だけは保証される」
城壁の上で、狼族の兵が唸った。
妖精族の魔術師が指を震わせる。
ドワーフの砲兵が導火線へ火を近づけようとする。
ガルムは片手を上げて止めた。
聖教会の使者は、さらに言った。
「眠れる王子を差し出せ。黒い繭を聖火にて清めれば、貴様らの罪は軽くなる。魔の血に従う時代は終わった」
その瞬間、ザルギウスの翼が広がった。
折れた左翼が軋む。
それでも彼は、城壁の上から使者を見下ろした。
「我らの王子を差し出せと言ったか」
「神の命である」
「ならば、神ごと帰れ」
ザルギウスの声は、静かだった。
だが、王都全体に届いた。
ガルムが続けた。
「狼族は門を開けん」
ボルガンが砲座から怒鳴る。
「ドワーフは炉を渡さん」
リュシエラの声が、風に乗った。
「妖精族は根を捨てません」
城壁の上で、異種族の兵たちが武器を掲げた。
数は少ない。
疲れている。
傷だらけだった。
それでも、彼らは同じ方角を見ていた。
黒曜宮。
玉座の間。
眠れる王子がいる場所。
聖教会の使者は顔を歪めた。
「愚かな。ならば神敵として滅びよ」
白い旗が振られた。
人類軍の攻城鐘が鳴る。
魔導砲が前へ出る。
聖歌隊が歌い始める。
数年にわたる侵略の末、ついに人類軍は黒曜王都そのものへ牙をかけようとしていた。
その時。
玉座の間で、誰にも見られず、黒い繭に細いひびが走った。
ひびの奥で、眠れる王子の指が、もう一度動く。
まだ目覚めではない。
だが、黒い魔力が、ほんのわずかに玉座の床へ滲んだ。
黒天蓋の残滓ではない。
眠り続けた王子自身の魔力だった。
それは冷たく、深く、底の見えない夜に似ていた。
そして城壁の外で、人類軍の第一陣が進み始めた。




