第5話「慈悲王の死」
慈悲王アルヴァーンは、息子の前に膝をついていた。
黒曜宮の白杯の間。
かつて種族の違う者たちが初めて同じ杯を交わした部屋は、今や聖術の焼け跡と血の匂いに満ちていた。
砕けた円卓。
裂けた絨毯。
灰になった聖印。
壁に残る爪痕。
床に倒れた人類兵。
和平の席は、殺意の跡だけを残して終わった。
それでもアルヴァーンは、倒れなかった。
胸元には、白い傷が灯っている。
血はほとんど流れていない。
それがかえって、致命的だった。
聖教会の術式は、肉を裂いたのではない。王の命そのものに傷を刻んでいた。リュシエラの治癒も、ドワーフの秘薬も、竜人族の生命術も届かない深さだった。
レイヴァルトは床に崩れたまま、父を見上げていた。
指一本動かすことすら重い。
黒天蓋の代償が、身体の奥でまだ燃えている。魔力は底を尽き、骨の髄は空洞になり、意識は暗い水底へ沈もうとしていた。
だが、眠るわけにはいかなかった。
父がまだ息をしている。
父がまだ、自分を見ている。
「……父上」
声は掠れていた。
アルヴァーンは、息子の髪に手を置いた。
その手は温かかった。
戦場で数え切れない敵を退けた手。
逃げ惑う子を抱き上げた手。
異種族の長たちと誓約を交わした手。
人類との和平のために、最後まで差し出された手。
その手が、今はわずかに震えていた。
「聞け、レイヴァルト」
慈悲王の声は静かだった。
周囲にいた異種族たちが、言葉を失う。
ガルムは血に濡れた爪を下ろし、ザルギウスは翼を畳み、ボルガンは戦槌を床に置いた。リュシエラは治癒の燐光を消せないまま、王の横顔を見つめている。
誰も泣いていない。
泣けば、王の死を認めることになる。
だから誰も、まだ泣けなかった。
「王は、民の上に立つものではない」
アルヴァーンは言った。
「民の前に立つものだ」
レイヴァルトは唇を噛んだ。
そんなことは聞きたくなかった。
今ほしいのは遺言ではない。
治癒の方法だ。
傷を塞ぐ術だ。
父を生かす手段だ。
だが、頭は冷たく理解していた。
もう、ない。
この場にいる誰よりも、レイヴァルト自身が分かっていた。
黒天蓋を通して、父王の命の光を見てしまったからだ。
白い傷は、静かに王の核を食っている。
残された時間は長くない。
「父上。喋らないでください」
「言わねばならぬ」
「後で聞きます」
「今だ」
その一言だけは、王の命令だった。
レイヴァルトは黙った。
アルヴァーンは、かすかに笑った。
苦しみを隠すための笑みではない。
息子が命令に従ったことへの、父親の笑みだった。
「お前は、強い」
「守れていません」
「守った」
「あなたを守れていない」
「それでも、守った」
アルヴァーンの視線が、白杯の間を巡る。
生きている臣下たち。
傷を負いながらも立つ長たち。
黒曜宮の奥で震える侍女や衛士。
廊下の向こうに避難した者たち。
誰も、王を捨てて逃げなかった。
誰も、王子を責めなかった。
彼らはただ、血を流しながら王を見ていた。
「この国は、まだ立っている」
アルヴァーンは言った。
「お前が守った」
レイヴァルトは答えられなかった。
それは慰めだった。
事実でもあった。
そして、事実であるからこそ残酷だった。
国は守った。
父は守れなかった。
「レイヴァルト」
父王の声が、さらに遠くなる。
「民を、見捨てるな」
レイヴァルトの目が細くなる。
人類を許せ。
父がそう言うのではないかと、一瞬だけ思った。
言われたなら、どうしただろう。
従えただろうか。
分からない。
いや、分かっていた。
従えない。
この傷を見て。
この裏切りを見て。
和平の席を処刑場に変えた人類を見て。
それでも許せと言われたなら、自分は父の最後の命令にすら背いたかもしれない。
だが、アルヴァーンはその言葉を言わなかった。
慈悲王は、ただ息子を見ていた。
「王であれ」
短い言葉だった。
それが、父から息子への最後の命令だった。
レイヴァルトは、声にならない息を吐いた。
王であれ。
許せ、ではない。
耐えろ、でもない。
自分のようになれ、とも言わない。
ただ、王であれ。
それは重かった。
どんな呪いよりも重い。
どんな祝福よりも逃げ場がない。
レイヴァルトは答えようとした。
だが、声が出ない。
喉が焼け、胸が軋み、意識が剥がれていく。
代償が限界を超えた。
黒天蓋が守ったものの重さが、すべて彼の内側へ落ちてくる。
「……はい」
それだけを、どうにか絞り出した。
アルヴァーンは頷いた。
そして立ち上がった。
リュシエラが悲鳴に近い声を漏らす。
「王よ、動いてはなりません」
「まだ、終わっておらぬ」
アルヴァーンは振り返った。
白杯の間の入口には、制圧された人類兵が転がっている。命のある者もいた。痛みに震え、恐怖に顔を歪め、それでも一部はまだ聖句を呟いている。
魔王を討て。
神敵を滅ぼせ。
人類に栄光を。
ガルムが唸った。
「王よ。こやつらは」
「殺すな」
その命令に、空気が凍った。
レイヴァルトの瞳が、わずかに揺れた。
今、殺すなと言ったのか。
この期に及んで。
父はまだ、人類を許すのか。
だが、アルヴァーンの次の言葉は、ただの慈悲ではなかった。
「逃がせ」
誰もが息を止める。
アルヴァーンは、胸の白い傷を押さえながら続けた。
「見たものを伝えさせよ。黒曜宮は落ちなかった。異種族連合は崩れなかった。慈悲王の子は、王宮を守った」
人類兵の一人が震えた。
それは生かされる安堵ではない。
伝令にされる恐怖だった。
アルヴァーンは、静かに彼らを見下ろした。
「そして伝えよ。和平を汚したのは人類である、と」
その言葉に、ガルムの牙がわずかに収まった。
ザルギウスが深く頭を下げる。
ボルガンは目を閉じた。
リュシエラだけが、耐えきれずに声を震わせた。
「王よ……なぜ、まだそのように」
「私が選んだ道だ」
アルヴァーンは答えた。
「間違っていたのかもしれぬ」
白杯の間に、重い沈黙が落ちる。
慈悲王が、自らの慈悲を疑った。
その事実は、どの異種族にとっても刃だった。
「だが、最後まで選んだ道を捨てては、私が私でなくなる」
アルヴァーンは、ゆっくりと息を吸った。
「私の死を、ただの怒りにするな」
レイヴァルトはその言葉を聞いた。
聞いてしまった。
だが、受け入れたわけではなかった。
怒りだけにはしない。
それはできる。
怒りだけで人類を殺すつもりはない。
もっと冷たく。
もっと深く。
もっと正しく。
王として殺す。
父の国を傷つけた者たちへ、王の名で報いを与える。
それは怒りではない。
裁きだ。
レイヴァルトの意識は、そこまで考えて、また深く沈んだ。
黒い眠りが足元から這い上がってくる。
見知らぬ白い天井が見えた。
鉄の箱が走る音がした。
人間だけの街が、夢の奥で揺れている。
そこに帰りたいとは思わなかった。
自分の世界はここだ。
父の血が落ちたこの黒曜宮。
異種族の旗が掲げられたこの王都。
人類に踏みにじられたこの和平の席。
ここが、彼の世界だった。
「レイヴァルト」
父の声が遠い。
「眠れ。今は」
眠るな。
レイヴァルトはそう思った。
まだ父がいる。
まだ敵がいる。
まだ殺していない人間がいる。
眠るわけにはいかない。
だが、身体は従わない。
黒天蓋の代償は、彼を深い眠りへ引きずり込んでいく。
意識が途切れる寸前、レイヴァルトは父王の姿を見た。
慈悲王アルヴァーンは、白杯の間の中央に立っていた。
胸に致命傷を抱えながら。
血よりも白い光に命を削られながら。
それでも、王として。
彼は臣下たちへ向き直った。
「皆、よく戦った」
ガルムが膝をついた。
ザルギウスが片翼を床につけた。
ボルガンが額を石床につけた。
リュシエラは泣きながら、深く頭を垂れた。
異種族たちが、次々と膝をつく。
白杯の間だけではない。
廊下にいた衛士も。
階段にいた侍女も。
外で聖印を消していた魔術師も。
黒曜宮の中にいたすべての者が、王の気配を感じて膝をついた。
慈悲王の最後を悟ったからだ。
「生きよ」
アルヴァーンは言った。
「この国を、残せ」
それが、異種族連合の王としての最後の言葉だった。
次の瞬間、胸の白い光が静かに砕けた。
音はなかった。
ただ、王の命が消えた。
アルヴァーンの体が傾く。
倒れる前に、ザルギウスが支えた。
竜人の将軍は、声を上げなかった。
ただ王の体を抱き、石像のように動かなくなった。
ガルムの喉から、獣の悲鳴が漏れた。
ボルガンは拳で床を叩き割った。
リュシエラの燐光が、白杯の間いっぱいに散った。光は花弁のように舞い、消え、また生まれ、また消えた。
誰かが泣いた。
それをきっかけに、黒曜宮全体が崩れるように泣き始めた。
慈悲王が死んだ。
異種族をまとめた王が。
救済者が。
統一者が。
人類を滅ぼせる力を持ちながら、滅ぼさなかった王が。
和平の席で、人類に殺された。
レイヴァルトは、その声を水底で聞いた。
動けない。
目も開かない。
それでも、心だけが冷たく起きていた。
父が死んだ。
その事実が、彼の中に沈む。
沈み、固まり、黒い玉座のような形になる。
悲しみはあった。
痛みもあった。
だが、それらはすぐに凍った。
熱い怒りではない。
泣き叫ぶ憎悪でもない。
もっと静かなもの。
決して溶けない黒い氷。
レイヴァルトの指先がわずかに動いた。
人間を。
殺せ。
声にはならなかった。
その前に、黒い眠りが彼を完全に呑み込んだ。
王子レイヴァルトは、白杯の間の床で意識を失った。
その身体を包むように、黒天蓋の残滓が集まっていく。
黒い魔力は繭のように絡み、王子の肉体を守り、傷ついた魂を閉ざし、消耗し尽くした命を深い眠りへ沈めた。
リュシエラが駆け寄った。
「王子まで……」
彼女の手が、黒い繭に触れる。
弾かれはしなかった。
だが、開けない。
王子を殺す呪いではない。
王子を守る封印でもない。
これは、王子自身の魔法が最後に選んだ延命だった。
ボルガンが呻く。
「どれほど眠る」
リュシエラは首を振った。
「分かりません」
「目覚めるのか」
「分かりません」
その答えに、ガルムが牙を剥いた。
誰に向けた怒りでもなかった。
世界そのものへ向けた牙だった。
「ならば、待つ」
竜人族将軍ザルギウスが、王の亡骸を抱いたまま言った。
「慈悲王は死んだ。だが、御子は生きている」
その言葉に、白杯の間の異種族たちが顔を上げた。
「我らは待つ。王子が目覚める日まで」
ガルムが片膝をついた。
「狼族は待つ。牙が折れようと、血が尽きようと」
ボルガンが拳を胸に当てた。
「ドワーフは待つ。炉が冷えようと、鉱山を奪われようと」
リュシエラが涙を拭わずに言った。
「妖精族は待ちます。森が焼かれても、根だけは残します」
異種族たちは、王子の黒い繭へ頭を垂れた。
誰も王子を見捨てない。
誰も王の血筋を疑わない。
父王を守るために眠りについた王子を、裏切る者などいなかった。
その日、黒曜宮に二つの沈黙が生まれた。
一つは、死した慈悲王の沈黙。
もう一つは、眠れる王子の沈黙。
そして人類は、その沈黙を勝利と勘違いした。
数日後、人類王国の王都に布告が掲げられた。
魔王アルヴァーン、討伐。
黒曜宮、沈黙。
魔王の子、封印。
神は人類に勝利を与えた。
聖教会の鐘が鳴った。
王国の貴族たちは杯を掲げた。
広場では民衆が歓声を上げた。
誰も、白杯の間で何が行われたのかを知らなかった。
和平の席に聖印を刻み、祈りの名で刃を隠し、慈悲王を殺したことを、彼らは知らなかった。
あるいは、知ろうとしなかった。
聖教会は語った。
魔王は人類を滅ぼそうとしていた。
勇敢なる司祭たちが命を賭して討った。
異種族連合は王を失い、もはや統制を保てない。
今こそ神敵の地を清める時である。
人類王国は応じた。
国境の砦が開かれた。
兵が進んだ。
貴族たちは地図を広げ、まだ見ぬ鉱山に印をつけた。
商人たちは奴隷用の首輪を用意した。
聖職者たちは聖火を運び、森を清める準備をした。
戦争は、復讐ではなく聖戦と呼ばれた。
侵略は、解放と呼ばれた。
略奪は、神の恩寵と呼ばれた。
慈悲王の死から、人類の侵攻が始まった。
最初に燃えたのは、国境の獣人村だった。
次に、南方の森に聖火が入った。
西方鉱山への道には、人類王国の旗が立てられた。
黒曜王都ヴァルドレインは、王を失い、王子を眠らせたまま、それでも崩れなかった。
異種族たちは耐えた。
退きながら戦い、奪われながら守り、殺されながら次の者を逃がした。
彼らは王子を待っていた。
いつ目覚めるか分からない。
本当に目覚めるかも分からない。
それでも待った。
慈悲王の子が、父を守るために眠ったことを知っていたからだ。
そして、数年が過ぎた。
黒曜王都ヴァルドレインの城壁の外に、人類軍の旗が並んでいた。
かつて和平の使節が通った門の前に、今は攻城塔と聖教会の白い旗が立っている。
王都は包囲されていた。
城壁の上で、老いた狼族の戦士が血の滲む包帯を巻き直す。
妖精族の魔術師は、焼け残った森の枝を握りしめる。
ドワーフの砲兵は、奪われた鉱山で鍛えられた人類製の砲を睨む。
竜人族の兵士たちは、空を汚す聖旗を見上げて牙を鳴らす。
黒曜宮の玉座の間は、暗かった。
父王の玉座は空いたまま。
その前に、黒い繭が置かれている。
中で眠る王子は、成長していない。
目も開かない。
呼吸すら、ほとんど感じられない。
だが、異種族たちは毎日そこへ膝をついた。
王が死んでも。
領土が奪われても。
村が焼かれても。
鉱山が落ちても。
森が泣いても。
彼らは、王子を捨てなかった。
その日、遠くで攻城の鐘が鳴った。
人類軍が、王都への総攻撃を始めようとしていた。
黒曜宮の玉座の間に、かすかな振動が届く。
黒い繭の表面に、ひびが入った。
誰も気づかなかった。
もう一度、鐘が鳴る。
眠り続けるレイヴァルトの右手。
その指先が、わずかに動いた。




